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蒼の誓約  作者: 毛井茂唯
第1章〈ユキト〉
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(2)残酷な世界2

 


 赤ん坊が出来ることは少ない。僕は取りあえず体を動かす努力をした。

 相変わらず体の重さはあるが、前世ほどじゃなくなった。ベビーベッドで少しずつ体を動かし、寝返りを打てるようになった。

 絶対、体の成長は遅いだろうという自覚はあるが、地道に動かしていく。

 ただ僕に知識なんてなくても、体が勝手に動かし方を理解しているようで、そう苦労ばかりでもなかった。


 未だ、磨りガラス越しの世界だが、以前よりましになっている。気のせいかもしれないが、熱を出したり、今の記憶と前世の記憶の影響で混乱したりしていると、体の重さや感覚の鈍さがなくなっていっている気がする。

 この小さい体が一生懸命、色々なものを受け入れようとしていて体調を崩しているのかもしれない。僕の体と思えない健気さだ。

 苦しいが、生きていくために必要なことだ。乗り越えてみせる。

 でも同時に不安もある。

 今は生きる本能やこの霞がかった感覚のおかげで今の状態を人ごとのように考えることが出来る。

 でも、それがなくなってしまえば、僕は否応もなく現実と向き合わなくてはいけなくなる。


 新たな家族。

 知らない場所。

 僕ではなくなった、新しい僕。

 そんなものを一度に抱え込めるのだろうか。

 僕は思う。どうして記憶など、感情など持って生まれてきてしまったのだろうかと。

 もう、戻ることが出来ない世界の思い出を抱えて生きていくことに、何の意味があるのだろう。


 

 時が経ち、大分この体も成長してきた。

 体の重さも気にならなくなり、感覚もかなり戻ってきている。ハイハイは、あんまり上手くできないが、歩く方はそれなりにできる。別に順番が少し変わっても問題無いだろう。

 僕くらいの年なら絶対みんな立って歩けるようになっているはずだ。だから僕も歩く練習をしている。

 これがなかなか難しい。1歩、歩いては尻もち。2歩、歩いては床にダイブ。3歩、歩いては壁に激突。ってこんなとこに壁があったのかよ!やっぱりまだ感覚はかなり鈍いのか。


 そういえばさっきから見られている気がするなぁ。転んだりするたびに、駆けてきそうな来そうなそういう気配。視力や聴力は鈍いのに勘は鋭いってどうなんだろう。

 たぶん家族の誰かだろう。見ても分からないから気にしないでおこう。邪魔もしてこないみたいだし。

 

 それから僕の行動範囲は少しだけ拡がった。

 何と部屋の外を歩けているのだ。大進歩だよ、本当に。

 ただ僕は未だ自分の年齢や容姿を知らない。

 そこでその二つの疑問を解き明かすため僕はあるものを探しに出掛けていた。

 例によって視線を感じるが、別に悪いことをするわけではないので気にしない。

 文明レベルは高そうなので、あってもおかしくないと思うけど……。

 キョロキョロとあたりを見渡す。

 すると目の端に何かが見えた。何だろうあれ?

 僕は慎重にぽてぽてと歩きながら、近づいてそれを観察してみた。

 小さな光の粒。前世でこういった生物を見たことがある。名前は忘れているけど。

 光の粒は僕を誘うようにゆっくりと移動していく。鈍いはずの僕のぼやけた視界の中、際立って鮮明に見えるその光は綺麗で、ひどく落ち着かない気持ちにさせる。

 見失ってはいけないという思いと、近付いてはいけないという思いが、僕の中でせめぎ合っている。

 でも僕はその光を追いかけた、そうしなければいけない気持ちの方が強かったから。


 光はある場所で止まって、僕が来るのを待つように浮かんでいる。

 僕が光の近くに行くと、光はあるものに吸い込まれるように入っていき、消えてしまった。くしくも光が消えたのは僕の捜し物の中だった。

 

 「鏡」

 

 僕の外見も分かって、そこから年齢が推測できる。一石二鳥の道具。

 そこにあったのは壁の一角を上から下まで覆うほど大きな鏡だった。

 僕は鏡に映った自分の姿を眺めた。どうせはっきりと見えないと思っていた自分の姿は、この世界に来てから初めて、クリアな視界で僕の姿を見せてくれた。鏡の周りは相変わらずぼやけているのに、鏡に映る自分とその背景ははっきりと見えた。

 

 黒々とした前世と変わらない色の髪。艶やかで前世と比べるのもおこがましいほど綺麗だった。

 髪だけだった。僕が僕であると言えるパーツは髪の色だけだ。なんで琥珀色の目をしている。僕の目はそんな色じゃない、褐色の目だ。目の形もそんな切れ長じゃない。鼻も口も、肌の色も全然違う。


 誰だ、お前は誰だよ!!思わず鏡を殴りつけようとするが、バランスが崩れて転んだ。

 俯せになって見上げるとそこにはまだ鏡があった。僕の顔もある。

 顔色の悪い子どもの顔。僕は右手をそっと鏡に近付ける。鏡の中の自分もそれに合わせて左手を差し出してくる。そして二人の手が重なる。

 僕が左手を挙げればあちらも右手を挙げる。左手を鏡に押しつければあちらも右手を全く同じ場所に押しつける。

「僕なのか……これが僕なのか……」

 容姿が急に変わったことで自己の精神の均衡を脅かす。そんなことを聞いたことがある気がする。

 全身の毛穴が開き、喉からヒューヒューと空気が漏れる。自身の中にずっと溜めてきたものが。蓋をした思いが。感情が。

 

 頭の中が爆発した。僕の中の混沌が弾け飛んだ。


 広葉樹。綺麗な部屋。兄。部活。先生。妹さん。机。芝生。車椅子。消毒液の匂い。鈴のような声。優しい歌。母。父。ケーキ。紅茶。レンズ越しの大きな瞳。短い黒髪。医者。杖。友達。友達。友達。後輩。土の匂い。汗の匂い。重いからだ。賞状。花瓶の花。女の子。好きの女の子。ベンチ。祖母。アスファルト。彼女。参考書。立派な家具。綺麗な女の人。背の高い男性。小さな女の子。鏡。赤い絨毯。広い窓。琥珀。白い肌。たくさんの知らない顔の人たち。よく見る制服を着た人。屋敷の壺。絵画。男性の色素の薄い金髪。女性の空色の瞳。空色。青。蒼。蛍。少女。ブルーの瞳。青。蒼。蒼い光。眠り。動かない足。死。告白。誠実。真っ直ぐ。変わった。真剣。居眠りしたときの顔。短い黒髪。蒼い蛍。姉。お姉ちゃん。お父さま。お母さま。蒼い光の粒達。部屋満ちた光達。哀しみ。紅。後悔。時間。断片。駄菓子。夕焼け。晴天。秋。

 人間の精神など欠片も残さず荒れ狂う濁流に、脳が意識を強制的に断ち切り、その場で仰向けに倒れた。


 部屋で目覚めてからは地獄だった。精神がすり切れるまで、記憶に犯され、耐えられなければ気絶する。

 意識が覚醒した瞬間またそれは再開された。今までの現世で本当に見えていた、聞こえたことを三日三晩見続け、聞き続けた。

 前世の断片も否応なく再生されていく。だが記憶は浮かんだ瞬間に深い闇に沈み、次々と蓋がされていく。今思い出してはいけないとでも言うかのように。

 何度も叫び、暴れ、体が疲れ切っていても震えは止まない。

 僕はなぜ生きていられる。時折映る視界には、誰かが見える。今は聞こえる。この人が僕の母か……鏡で見た顔と似ている気がする。僕が狂っているのを見て辛そうに泣いている。


 女の子が見える。誰だろうか……すこし覚えがある。母をお母さまと呼ぶ、小さい女の子。でも僕より大きな女の子。

 ああ、この子が姉なのか、何度も「わたしがお姉ちゃんだよ」って話しかけていた。

 しつこいくらい何度も言われていたから、記憶の混濁の中でも、それだけは覚える事ができた。

 涙ぐみながら、僕に言葉を繰り返し教えてくれた。

 そのときの僕は自分に言われたことも分からず、完全に無視してたな。

 今、僕の手を取り励ましてくれる。やわらかくて暖かい。僕の前世でいなかった家族。

 澄んだブルーの瞳が心配そうに揺れている。

 姉から流れてくる暖かさに、疲れた僕は、眠りについた。


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