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蒼の誓約  作者: 毛井茂唯
第2章〈シオン〉
42/114

(1.1)幕間.アイのこくはく

残酷な表現があります注意してください

 私が暮らしていた村は、畑以外何もない村だ。

 隣の家まで何千エーデルも離れていてた。

 豊かな地で実りは多く、私は一年の大半を家の手伝いをして過ごす。それしかすることはなかった。

 月に一度、教会の人が村の集会所に訪れ、村の子供を集めて勉強を教えてくれたり、物語を聞かせてくれたりした。

 刺激の少ない私たちにとってはそれがとても楽しみで、私も欠かさず参加した。

 一番のお気に入りのお話は、二人の女神のお話だった。

 ただの村人だった二人が、神様が用意した色々な試練を乗り越えていくというお話。最後には神様も二人のことを認めるというもの。

 神様はすごく意地悪な試練を用意するのに、彼女たちは知恵と勇気と友情で、次々と試練を超えていった。

 最後の試練は本当出来ないような無理難題だったけど、彼女たちを支えた勇気ある男の子に助けられ、少女たちは試練を超えることが出来た。

 とても面白かったし、何度聞いてもハラハラ、ドキドキした。

 勉強はあんまり得意じゃなかったけど、物語はいくつも暗記した。時々村の年少の子供にせがまれては語って聞かせていた。

 特に好きだった勇気ある男の子が出る場面では、いつも熱が入り、教会の人が話してくれた物語より男の子の活躍を割増しにして話してしまっていた。



 私はそんな日常を過ごしながら、生まれてから11年間を村で過ごした。

 生活に困ってはいなかったけど、学園へは通えなかった。

 生活に余裕があるわけではない。

 私には二つ年下の弟がいて、その子を学園に通わせる予定だったから、私は無理だった。

 

 不満がないわけではなかったけど、弟はすでに私よりずっと勉強ができていた。

 どちらか一人をというなら弟が行くのが当然だろう。

 私はどこかで誰かと結婚してこの家から居なくなるだろうし、弟はここにいてお嫁さんを連れてくるのだろう。

 一応私は村の男の子からプロポーズされたりしている。返事はちゃんと返せていない。

 物語の影響かもしれないけど、私もせめて恋をして、結婚してみたかった。

 多くは望まないけど、それだけは叶えたかった。

 

 私が11歳になったその年。

 身を切るような冷たい雨が降る日だった。

 私はいつも通りに畑の手伝いをしていた。

 雨は突然降り出したため、私は急いで家畜たちを小屋の中へと戻そうとした。

 お父さんも一緒にだ。

 この日の出来事で記憶にあることと言えばこの位のことしかない。

 何の特別さもない、ただの日常。

 

 雨は激しくなっていった。

 村の人がお父さんを呼びに来て、お父さんはその人と一緒に川の堤防の様子を見てくると外に出た。

 私とお母さんと弟は、念のためと小高い場所にある知人の家へと避難した。

 

 雨は一向に止まず、その後も降り続け、川は氾濫した。

 川からあふれた水が村のあらゆるものを押し流した。

 畑は土砂に埋もれ、家畜は死に絶え、多くの村の人が行方不明になった。私たちの家も跡形もなく流れてしまった。

 亡くなった多くが働き盛りの男性で、行方不明者の中には私にプロポーズしてくれた男の子もいた。


 川の氾濫から数日後に国から派遣された役人が訪れ、村の現状を見てから復興のために人手を割いてくれた。

 村にはたくさんの人が訪れた。

 私たちは知人の家に厄介になりながらその家の手伝いをし、自分たちの荒れた土地を立て直そうと努力した。

 子供と女性だけの手ではなかなか捗らなかった。

 お母さんは、お父さんが帰ってくればすぐに前のように暮らせると、私と弟に言い聞かせたが、そういうお母さんの顔はいつも疲れていた。

 

 お父さんは一月しても帰ってこなかった。

 

 お父さんは二月しても帰ってこなかった。

 

 お父さんは三月しても帰ってこなかった。

 

 お父さんは四月しても帰ってこなかった。

 

 お父さんは五月しても帰ってこなかった。

 

 お父さんは六月しても帰ってこなかった。

 

 いつの間にか川の氾濫から半年の時間が経っていた。

 その間にお母さんは新しい家族をつくった。

 私と弟には新しいお父さんができた。

 新しいお父さんは、少し線の細い人で畑仕事とは無縁そうな容姿をしていた。

 復興のときに町から来た人だそうで、街で仕事をしているのだという。

 私たちはこれから街で暮らすのだという。

 お母さんと弟は喜んだ。二人にとってここはつらいことが多すぎる場所になっていた。

 弟は街で学園に通えるのだという。弟はとても嬉しそうに教えてくれた。

 私は、お母さんと弟とは街に行けなかった。

 

 

 私はこの村に残り、この村の人と結婚することになっていたからだ。

 結婚先の家の配慮で、私の家族がこの村にいる間は家族と過ごせるし、それ以降は向こうの家でお世話になる。

 一応この国では15歳を過ぎないと結婚はできない。そのため婚約という形をとって向こうの家に入る。

 昔から村で行われてきたことだ。

 

 家族と村で過ごす最後の日々は、とても優しいものだった。

 お父さんは村のために生活に必要な物資を運んできてくれる。その時にちょっとしたお土産を私たちにくれる。

 お母さんは結婚してから嘘のように明るくなり、何だか若返ったようにさえ思う。

 弟は今まで以上に勉強するようになった。

 お父さんから本をもらえるようになったからだ。

 全てがいい方向に向かっていっていた。

 つらいことがあったけど、それを乗り越え、幸せを掴もうとするように。

 

 秋になり、村の復興に来た第一陣の人たちが街へ帰る日となった。

 家族ともここでお別れだ。

 今度会うときは私の結婚式だという。あと4年後くらいだろうか。

 私は努めて笑顔で家族を見送った。彼らにとって、この瞬間が幸福の1ページだと記憶に残すために。

「私のことは心配しないでね」そんな会話をしただろうか。

 たくさん話をしたのに、思い出せるようなことがない。

 多分、私は辛かったのだ。ここに置いて行かれることが。

 私も、その中に。家族の一員としていたかったのだ。

「結婚なんてしたくない」

 そう言えてしまえばどんなに楽だったろう。

 でも私にはできなかった。

 分かっていたからだ。家族が私に何を望み、何を思っていたかを。

 新しいお父さんは経済的に豊かとはいいがたい。

 私の家はあの日、財産を失ってから少なくない借金をしている。

 借金は私が嫁ぐ家にしていた。

 私を嫁がせるのなら、それを帳消しにするという。

 お父さんとお母さんは決して結婚を強要しなかった。

 だからといって、私がいいえと言えるだろうか。

 幸せを得ようとしている家族に、私の我が儘で不幸になれと言えるだろうか。

 私は、私は、言えない。

 私自身が彼らの幸福を願っているのだから。



 新しい家族との日々は、少し窮屈なものだった。

 家族はお義母さん、お義父さん、そして婚約者の男性の三人だけだった。

 婚約者の男性は私よりずっと年上で29歳だった。

 寡黙で、こちらをジッと見てはくるものの特に何も言わない。

 少し目が私の体のあちこちに向けられて嫌な感じがした。知らないうちに見詰められているときもあった。

 私はとにかく話しかけて会話をしようとしていたけど、いつも向こうは不機嫌そうにして会話が続かなかった。

この家は人を雇って畑仕事をするらしいので特に私に仕事はなかった。仕事はしなくてよかったが、家事は任されえるようになった。

 お義母さんは厳しい人で大変ではあったけど、半年前のころに比べればどんな作業も苦にはならなかった。


 私は12歳になり、この家に来てから2月が過ぎた。もうすぐ冬が訪れる。

 その日は村の集会に家族が総出で出かけており、私は一人家で留守番だ。

 ご馳走は食べられるらしいが、大人ばかりだしつまらなそうなので別に気にはしていない。

 家族が家を出てから半刻程経ったとき、まだ集会が始まってから間もない時間だというのに婚約者が帰ってきた。

 どうやらお酒に弱く。ああいう場は苦手だという。

 意外といえば意外だが、少しだけ彼のことが知れて笑ってしまった。



 彼はそれを嘲笑と勘違いした。

 顔を赤くし、激高し、激しく私を罵った。

「お前は金で売られた家畜のくせに」

「おれが目をつけなきゃ、人買いにでも売り飛ばされていたんだぞ」

「お前はいつもうるさいんだよ」

「家畜なら家畜らしくしていればいいんだよ」

「お前は俺が何もできないと舐めているのか、そうなんだろ」

 婚約者は私を殴り、蹴り、組み敷いた。

 間近にある彼の口から吐き出される息からは、お酒の臭いが強くした。

 私は彼の暴力と痛みで体が言うこと聞かず、抵抗ができなかった。

 力任せに服を引き裂かれたとき、私の心はのまれた。



「殺せ」



 ただ一つの衝動に任せ、体が動いた。意識はしていない。

 まるで自分ではないように。

 いや、私は彼の与える恐怖から逃げたいと思った。それを求めた結果に過ぎない。

私は彼の首に歯を突き立て、肉を噛み千切った。

 彼は首を押さえ絶叫し、指の間から血があふれ出す。

 私は口の中のものを吐き捨て、立ち上がり、逃げた。

 罪の意識からではない。

 あのままあの場にいれば、自分の中の衝動に身を任せ、彼を殺してしまうと思ったからだ。



 それからはとにかく走った。

 空気は冷たいのに、私の体の熱は一向に冷めてはくれない。

 頭には、未だ得体のしれない衝動が蠢いていた。

 私は本能的に人のいる場所を避けた。とにかく人のいない場所に。森だろうと山だろうとどこでもいいから早く。


 私は風にでもなったように速く走ることができた。森も山も関係ない。

 感覚は鋭く、水場の匂いさえ嗅ぎ分けることができた。

 私はひたすら走った。

 初めは人を避けて。

 だけど、そのうちに心に変化があった。

 自分の犯してしまったことへの恐怖に震え、罪悪感で胸が押潰れそうだった。

 とても一人でいて耐えられるものではなかった。


 家族に会いたかった。

 偽物じゃない、本物の私の家族に会って話を聞いて貰いたかった。家族が罪を償えというなら、いくらでも償う。

 私一人では決められない。ただただ、言い聞かせてほしかった。

私を、思ってほしかった。


 何日も何日も人目を避けて移動し、家族の暮らす街までたどり着いた。

 街は日が沈み、街頭に照らし出されていた。

 村ではとても見ることができない光景。

 私は幼いころに聞かせてもらった街の話を思い出していた。あの時、教会の人が話していた光景はこんな美しいものだったんだと。

 街には自分でもどうしてたどり着けたのか分からない。

 街の名前は聞いていた。住所もだ。

 だけどそれだけだ。私はそれ以外何も知らないのに。村以外の場所に出かけたこともない。誰かに道を尋ねてもいない。

 

 私の中にある別の私が、私のことを家族と引き合わせようとするように。私が心から会いたい人に会えるようにと、私を動かしていた。

 私の中にあるものは異物なのかもしれない。

 だけど、この時ばかりは感謝していた。

 この時の私は、ことの異常さに気付くことなく、感謝していたのだ。



 街の中で家族を見つけるのは容易だった。

 私の中の衝動に身を任せればいいのだ。そうすれば家族に会える。

 もう辛いことはない。怯えることはない。寂しいことはない。

 家族が私を温かく迎えて、全部がまた新しく。幸福に満ちて行くだろう。

 街には多くの民家があり、賑やかな声が聞こえてくる。久しぶりに自分の気持ちが浮き立っていくのを感じた。


 そして私はある民家に辿り着いた。

 小さいけど、窓からは明かりがもれており、料理の匂いがする。時折人の話し声も聞こえてきていた。お父さん、お母さん、弟の声だ。

 私は玄関に回り、扉をノックした。

 すぐにお母さんが「はい、どちら様でしょう」と返事を返してくれた。

 私は元気よく「アイだよ。開けて」と言った。

 でも、お母さんからの返事はなかった。

 扉の向こうから「どうかしたの」と弟の声が聞こえてきた。

 私はもう一度「アイだよ。開けて」と声をかけた。

「アイ?お母さん、お姉ちゃんが来てるの?」という弟の声。

 扉からは二人分の足音が響き遠ざかっていく。

 どうして、扉を開けずに下がるのだろう?

 それから家の中から声が聞こえてきた。お父さんとお母さんの話し声。家の中で声を極力おとして話しているみたいだけど、感覚の鋭くなった私にとっては、目の前で内緒話をしているようなものだった。


「どうしてアイがここに来ているんだい。あの家に引き取ってもらったはずなのに」

「分からないわ。でもおかしいでしょ、あの子にはここの場所は教えていないのに。手紙も送れないでしょうから、デタラメの住所を教えていたのよ」

「しかし、アイと名乗る人間がここに来ているんだ。さすがに無視するわけにはいかないだろう」

「取りあえず話を聞きましょう。それからあの家に帰るように言い含めればいいわ。こんなことでお金を返せなんて言われたら、私たちが危ないんだから」

「……分かってはいるが。仮にも君の子供だったのだろう?そこまで酷くいうものではないだろう」

「昔の主人がよその女にうませた子供よ。愛せというほうが可笑しいわ。11年間養ってあげただけ、ありがたいというものでしょう」



「全部聞こえているよ、お母さん」

 私は扉の錠を握り潰し、足音を立てないように忍び込んだ。お父さんとお母さんは居間らしき場所でしゃべっていた。弟はいない。


 私と弟を、お母さんが全く違う扱いをしていたのには気が付いていた。

 よく叱られたし、朝から晩まで大人と同じ量の仕事をさせられた。

 私は姉であったことと、弟が小さいからだと自分を納得させていた。

 行方不明になったお父さんは私と弟を平等に愛してくれた。それでも今にして思えば、お母さんの前では可愛がられたことはなかったかもしれない。

 そうか。

 そうと分かってしまうと、不思議と悲しくはなかった。

 私自身が家族と思おうとしていたからだ。

 どんな仕打ちをされようと、強要されようと、依怙贔屓されようと、冷たい目で見られようと、理不尽に叱られようと、何かしら私のためを思ってのことだろうと考え続けたのだ。分からなければ自分が悪いのだと自分を納得させ、のみこみ、不満に蓋をした。

「もう家族だからって我慢しなくていいんだ……」

「愛しい人以外私にはいらない」

 口が勝手に動いていた。私の中の異物がシミのように私を犯していく。でもこれは異物の言葉なのだろうか、私の本音じゃないだろうか。

「我慢してきたの。私、ずっと……」

 お父さんが行方不明になってからどんどん追い込まれていった。

 新しいお父さんができて私の居場所はなくなっていった。

「もう、いいよね」

 そう言った私に、異物は答えた。



「いいよ。たくさん殺してよ。私があなたを許してあげる。だから……」

 


「人間を殺せ」




「君の好きにはさせないよ」

 その言葉と共に白銀の濁流が私に流れ込んできた。

 赤く染まっていた瞳は白に埋め尽くされ、思考さえ塗りつぶされそうだった。私の中で膨らみ、弾けそうだった異物は小さくなりながらも、私の体を叱咤し逃走させた。

 家の構造など関係なく、漆喰の壁を体で突き破った。

「お転婆もそれくらいにしてね」

 家を出た瞬間、私の体には白い糸が絡みつき動きを縛った。走ろうとした勢いのまま地面に転がったため、体にはあちこち擦り傷ができ血がにじんだ。

 暗闇に目を向けても誰もいない。私の感覚でも相手を探ることはできなかった。

 

「今は眠って。起きたときには君の悪夢は終わっているから……」

 優しく労わる、暖かな声だった。

 私が家族に求め、得られなかったもの。

 頬に熱い雫が流れた。

 私は暖かな光に包まれながら気を失った。



 目覚めたときは柔らかいベッドの上だった。

 日はもう高く昇っていた。

 冬であるはずなのに、部屋は暖かく寒さを感じない。

 ベッドは私の言葉では表現が難しいほどの寝心地だった。何も考えることが出来ず、二度寝をしてしまった。



 私は次に目を覚ました時はちゃんと起き上った。

 部屋に人がいることにその時はじめて気づいた。

 私が眠っている間もずっといたのだろうか。

 村でいつも川辺に咲いていた、水仙を思わせるような長い髪の少年だった。長すぎて目元が隠れてしまっている。

 歳は、ちょうど私の弟と同じくらいだろうか……。

 ……あの後いったい何が起こったのだろう。

 あの村での夜からの記憶がまるで虫食いのように曖昧になっている。思い出せないわけではない。思い出してはいけないように感じる。

「無理に思い出そうとしなくていい」

 いつの間にか少年が私の前に立っていて声をかけてきていた。

「何を思い出そうとしているのかは分からないが、いい思い出ではないのだろう。顔が青ざめているよ」

 この少年の声に聞き覚えがある気がする。

 だけど今は思い出したくなかった。

「とにかく体を休ませて、それから話をしよう」

 少年はそういうと部屋を退室した。



 それから私はこのお屋敷の人たちお世話になった。

 身の回りのことを人にして貰うなんて、物心ついてから初めてのことだった。

 ご飯も物凄く美味しいし、お屋敷は広いし、この家の人は信じられないくらい親切だ。

 どうやら親切にすることが仕事らしいが、こちらが何も言わなくても色々なことを察してくれて、心を読めるんじゃないかと思ってしまった。


 私は屋敷に来てから1週間、生きてきた中で一番の贅沢をしていた。

 でも、心の片隅にはここに来る前の記憶がちらつき、胸が苦しくなった。


 私はこの1週間、最初にあった少年には会えずじまいだった。

 このお屋敷の旦那様には会って挨拶をした。

 すごく怖い顔の人だったけど、好きなだけここに居ていいと言ってくれた。

 すごく嬉しかったが、それ以上に申し訳なくて「図々しいかもしれませんけど、ここに居る間、働かせてください」とお願いした。

 旦那様は眉間に深いシワを寄せ、2割増しの恐ろしい顔をしたけど、どうやら困り顔だったようで「考えておこう」と、返事をしてくれた。

 数日して返事が返ってきて、私はこの屋敷の使用人として働けるようなった。

 

 仕事は頑張って取り組んだ。

 みんなは大げさなくらい私を褒めてくれえる。

 だから私はこの仕事がすぐに好きになった。乗せられやすいのだろうか。

 働いている間は、記憶のことを気にせずに済む。

 だから私は仕事により一層打ち込んだ。

 

 私の中で変わったことは他にもある。

 私の手首についている腕輪だ。

 銀色のきれいな腕輪だけど、装飾品ではないそうだ。

 旦那様からは決して外してはいけない腕輪だと言われた。理由の説明は聞いていない。別に隠されているわけではない。

 その話をするときは全ての話をしなければいけないと言われたから、私は聞けなかったのだ。

 旦那様はそんな私を気遣い「決心がついたら聞きにおいで」と言ってくれた。

 

 

 私は1月しても決心がつかなかった。

 思い出してしまえば、今の私は私でいられるのだろうか。

 

 考え事をしていたせいだろうか、いつの間にか知らない場所にいた。

 知らない場所といっても屋敷の中ではあるが、屋敷の敷地は広く、私はまだ全てを見て回ってはいない。

 取り敢えず来た道を戻ろうとしたとき何処からか歌が聞こえてきた。

 興味をそそられ、その歌の聞こえる方へ足を向けた。

 歌は庭園の中から聞こえてきていた。

 私は外側からしかこの庭園を見たことがないけど、実際に中に入ると庭木が壁みたいに切りそろえてあって、迷路みたいだった。

 何だか楽しくなってきて、探索しながら歌の聞こえる方へ駆け足で進んでいった。

 

 やがて歌がはっきり聞こえる場所まで来た。

 丁度庭木の隙間から誰が歌っているのかが見ることが出来た。

 ぽっかりと空いた空間に青い芝生。あたりにはこの季節に咲く赤い花が彩っていた。

 庭の真ん中、あの水仙の少年がいた。旦那様はエリシオンという自分の息子だと言っていた。

 冬の空気に合わせるかのように、冷たく澄んだ歌声だった。

 歌の歌詞は分からない。私の知らない言語だ。

 きれいな歌であるはずなのに、胸を締め付けられるほど悲しい気持ちになった。ただの好奇心で、私なんかが聞いてはいけないものだったのかもしれない。

 やがて歌が終わり、私は彼に歌を聞いてしまったことを謝ろうと庭園に足を踏み入れた。

 

 シオンは私の足音に気が付いたのかこちらに振り返った。

 そして驚いたように固まった。

「どうしたの?泣いてる……けど」

 シオンの言っている意味は最初まるで分らなかった。まずは謝らないと、とそのことで頭がいっぱいだった。

「ごめんなさい!私、あなたの歌を勝手に聞いてしまったの。庭園に入ったら歌が聞こえてきて、ここまで来てしまって……」

 頭を90度くらい下げて謝った。

「えっと、取り敢えず顔を上げてくれる?」

私は声がかかってから、恐る恐る顔を上げた。シオンは困ったように口元に苦笑を浮かべていた。

「僕の歌を聞いたことで君を咎めることはないよ。誰かに聞かせるつもりで歌ってはいないけど、聞かれても構わないと思っているからね。じゃなきゃ外でなんて歌わないだろ?」

 こちらに同意を示すようにやさしく諭してくれていた。

 本当にそうなのだろうか。

 こんな寒い空の下で、奥まった庭園でわざわざ歌っていたのだ。いくら私でもその言葉をうのみにはできなかった。

「………まあ、この歌は僕にとっても大切な思い出の歌だからね。忘れないように、たまに歌っているだけさ」

 私の顔を見て、本当のことを教えてくれたのだろうか。謝るはずの私の方が気を使われてしまい、顔に熱が集まるのを感じた。

 シオンはポケットからハンカチを取り出し、私の目元を軽く押さえて涙を拭ってくれた。

 いつの間に涙が流れていたのだろう。まるで気付いていなかった。

 こすらないように、ちょっと神経質な手つきがくすぐったかった。

「ごめんね。嫌な思いをさせて。僕は本当に気にしてないから、君も気にしちゃダメだよ?」

 シオンはそう言ってハンカチをポケットに戻すと、庭園を去って行った。

 何も言うことが出来ず、情けなくて、また悲しい気持ちになって、でも暖かな気持ちもあって、私はしばらく庭園に佇んでいた。




 庭園を出た後、まっすぐ旦那様のところに行った。

 あの日起こったことと、私の体のことを聞くために。


 旦那様は書斎にいた。でも私の座る椅子がないないからと、客間へと移動して話を行った。

 お茶が運ばれてくるのを待ってから旦那様は話し出した。

 まずこの場所の話。

 大陸中央部からやや北にあたる辺境の国で、クリスデンというところ。その中でもこの領地はさらに辺境にあたるそうだ。

 旦那様はここで領主をしており、氏族という階級を持った人だった。

 なんとなくは予想がついていたけど、やっぱりすごく偉い人だったんだと納得すると同時に、今までのことを思い顔が青くなる。

 旦那様は「畏まられるのは嫌いだから、今まで通りにしてほしい」と言ってくれた。

 私の暮らしていた村は、ここよりはるか東にあり、かなりの距離があった。

 どうしてその私がここにいるのだろうか。


 私の疑問を旦那様が感じたのか話題はそのことに移った。

 私の体に起きた変化、異能の話に。

 人よりはるかに優れた身体能力を持つ異能者。私は何かのきっかけで元々持っていた異能の力に目覚めたのだという。

 今、身に着けている銀の腕輪はその力を危険が無いように封じるものだった。この腕輪がなければ力のコントロールが難しく、日常生活にも困るのだという。


 旦那様が私を拾ったときは、私が衰弱しきっていたらしい。

 初めは一時的な保護のつもりでは居たそうだが、旦那様は私がこれからもここで働くつもりがあるならずっといてくれて構わないと言ってくれた。

 私は返事が出来ず黙ってしまったが、旦那様は「また、尋ねに来なさい」と言葉を残し去って行った。



 私は一人、客間に残り、涙を流した。

 思い出したのだ。

 あの夜を。

 婚約者の暴力と自分の暴力。

 獣のような森での生活。

 何日も地を駆けずり回り、辿り着いた先での家族との再会。

 そこで自分がおかそうとしていた過ち。

 私を引き戻してくれた、白色の光と声。

 

 頭の中にはあの悲しげな歌声が響いた。

 冷たいのに温かい。

 どちらも同じに聞こえる。同じ声の持ち主に……。

 

 私は全てを思い出しても混乱はしていなかった。

 もう自分の中にあった異物は跡形もなくなり融けて消えていた。

「私は、ここには居られないよ……」

 私はここを去ろう。でも旦那様に最後の挨拶をする前にどうしても、お礼を言っておきたかった。

 私を助けてくれた張本人であろう彼に。

 

 その日、シオンは見つからなかった。

 次の日の休憩時間にあの庭園に行ってみた。

 今日は歌が聞こえない。

 でも、シオンがいる気がして庭園の中に入って行った。


 庭園にはシオンがいた。

 特に何かをしているわけでなく、ボーとしているようで気の抜けた様子だ。

 ちょっと意外な姿だった。

「エリシオン様、少しよろしいでしょうか……」

 シオンはこちらに視線を寄越す。なんだか冷たいものをシオンから感じた。

「何かな?」

 言葉は柔らかなのに、固く聞こえてしまう。私の思いすごしだろうか。


「私、お別れ言いに来ました。短い間でしたけど、色々良くしてもらえて、楽しかったです。だから最後にエリシオン様に……」

「お別れ?何を言っているの?君はこの屋敷で雇われた使用人だろう。辞めるには主人の許可が必要だ。そんなことも分からないかな……」

 シオンは堅い声でまくし立て、ため息をついて明後日の方向を向いた。

「第一、君には異能封じやその他結構なお金がかかっているはずだよ。それを払いきるまで辞めるなんて無理じゃないかな。いや許されないよ」

 お金……そうだ、私は沢山この家の人たちに助けてもらって、何も返さずいなくなろうとしていた。自分の罪悪感を理由にして。私は自分の浅はかな行動に嫌悪し沈んでしまった。

 情けないことにまた涙が零れそうになる。

「べ、別にそんなにすごい大金じゃないけど……」

 私の顔を見て、少しシオンが挙動不審になり「え〜と、半年…。いや、これだと短いな。成人までのことを考えて、3年くらいはここに居た方がいいよね。それから仕事を紹介すれば……」

 ぶつぶつとシオンが呟いている。

 私は異能封じをしていても、耳は生来から良かったので全部聞こえてしまっていた。

「そうだ。3年は働かないと返せない額だと、お父様が言っていたのを思い出したよ。まあ、返済とは別に給料はちゃんと出すからそこら辺は心配しなくていい」

 思い出したように「もちろん、ちゃんと働かないといけないよ」と厳しい顔をワザとらしく作って付け加えた。


 どんな意図があって厳しい態度をしようとしているのかは、私には分からない。

 でも彼からは隠しようのない思いやりや、気遣いが感じられた。

 

 私の今の気持ちをどう表現すればいいのだろうか。

 暖かな気持ちが私の胸をいっぱいにした。

 目からは止めどなく涙が流れる。私はこんなに泣き虫だっただろうか。

 昨日の涙よりずっと熱く、私を満たしていた気持ちが、私に収まりきらなくてあふれ出てくる。

 絶望から救われて、こんなに優しくさせて、私はいったい何が返せるのだろうか。

 今の私にあるものなんて何もない。

 あるとするなら、人より強いという肉体くらいだろうか。


「な、泣いても3年はいてもらうからね!あと、僕の名前はシオンでいいよ。その変な敬語は止めてね。僕は堅い言葉遣いが苦手だから、じゃあね!」

 涙にかすむ瞳には、罪悪感で顔を歪め、それでも険しい顔を作ろうと百面相を繰り返す、シオンの顔が映った。シオンはハンカチを乱暴に私に渡すと、駆け足で私の横を駆け抜けていた。

 ハンカチからは女の子みたいな甘い花の匂いがした。



 シオンが去っても涙はしばらく止まらなかった。

 涙が止まると気持ちは今までにないほど晴れやかだった。今まで曇っていた瞳が、きれいに洗われてしまったように、世界が綺麗に見えた。

 冬の冷たい空気が火照った顔には気持ちよかった。

 私をとらえていたものが、このとき無くなった気がした。

 


 今の私にはシオンにしてあげられることは一つしか考えつかない。命を、心を救われたというなら……。

「私は………」

 私は彼の去った方に体を向けた。自分の胸に手を当てて。言葉にはこれ以上にないほどの思いを込めて。


「シオン『あなたのために。この身を盾に。この身を矛に。心を鋼とし、あなたを守りましょう』…私は必ずあなたを守れるほど強くなってみせるから……」


 私の好きだった物語の、好きだった登場人物のセリフを借りて、自分に誓いを立てた。

 借り物の言葉でも、私にとってはこれ以上にない本物の言葉だった。

 いつか物語の英雄のように、あなたの全てを守れる人間に。


 


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