(6)異能2
僕の脇にはひび割れた地面と、ペンキに混じって本物の血が広がっていた。
「うう、あああああぁぁぁ」
姉さんの唸り声で体の硬直が解ける。
姉さんは僕ではなく、その横の地面を殴りつけていた。
右手の拳は完全に砕け、上腕はあらぬ方向に曲がっていた。
姉さんはうずくまり、自分の体を抱く。折れていない左手で右腕を押さえつけ、バキバキと骨を砕く音が響いていた。姉さんから大量の汗が流れだし、夜着はどんどん湿っていく。
「姉さん……」
「うう、ユ、キト、大…丈夫、だから……わたし……ぜっ、たい、ぐうっ、うう、負けない…こんな、こんなものに」
瞳からは狂気が薄れていた。姉さんは必死に何かを押さえ込もうとしている。
「へえ、すげえ嬢ちゃんだな。まじでねじ伏せようってか?『狂化』を……。自ら禁忌を犯してないとは言え、堕ちるだけのショックを与えたと思ったんだが……」
今まで見えなかった、黒尽くめの男の声が屋根から降ってくる。
とっさに上を見上げれば、男が飛び降りてきた。
20エーデル以上はありそうな高さから音もなく降り立つ。顔からは先ほどまで浮かんでいた薄ら笑いはなく、無表情でこちらを見下ろしていた。
「姉さんに何をしたんだ!」
「いや、何もしてねえよ。おれはお前にペンキをかけただけ。ただそれだけだ」
「そんなわけ有るか!僕がペンキまみれになったぐらいで!」
「まあ結果から言えば失敗、失敗。まあ予定と違うが、仕方ねえ。信条に反しちまうが、真理の探究には手間が付きものだし」
「死ね、坊主」
何が起きたのかまるで分からず結果だけがあらわになっていた。
男が僕に手刀を突き出した格好で止まり、姉さんが左手でそれを受け止めている。空気が破裂する音が遅れて響く。
「なに、いが」
男が何か言いかけたが、姐さんは即座に片手で男の腕を捻り、男を放り投げた。
うなりを上げるほどの勢いで投げられた男は、鉄筋の束に突っ込んでいった。男の落下点には土埃が立ちこめる。
姉さんは、自身の身長の5倍はある鉄筋を片手で持ち上げ、さらに落下点に投げ込んだ。巨大な重量がぶつかり合う音で空気がビリビリと震える。
男を攻撃する姉さんの横顔は狂気を孕ませながらも、確かな理性の色がある。
姉さんは鉄筋を投げた後、態勢を崩し、地面に跪いた。苦悶の表情を浮かべ、汗も流し続けている。
「はあ、はあ、くう」
姉さんは土煙から目を逸らさない。赤い瞳で炯々と睨み付けている。
やがて煙が晴れていく。そこには、ゆっくりとした動作で立ち上がる、黒尽くめの男がいた。
「また俺の服がぼろくなっちまったよ。元々、着られるもんじゃ無かったけど、さすがこれを服とは呼べねえな」
男の服は大きく裂け、肩の部分に少し布が引っかかっているだけだ。
しかし傷らしい傷はなく、余裕を崩していない。姉さんはすぐに立ち上がり男を睨み付ける。
「あーまさか、こんなことになるとはね。すばらしい姉弟愛だこって。坊主、お前の姉さん、怪物じゃなくて化け物だな。本来耐えられるもんじゃないんだが……」
「黙れ!ユキトに気安く話しかけるな……」
声には気迫を感じるが、姉さんには余裕がない。今にも倒れてしまいそうなほど消耗している。
「悪かったな、嬢ちゃん。だがな、化け物はお呼びじゃねぇのさ。おれの筋書きと変わっちまうんだわ。嬢ちゃんたちみたいな好条件の素材、会える機会なんてもう無さそうだからよ」
景色が歪む。何をされたのか理解が追いつかない。さっきからこんなのばっかりだ。
でも走馬燈というのか、僕は男の動きを捉えていた。
姉さんが瞬きした瞬間を狙い、男は踏み込み、僕との距離を零にした。
そこからは単純に腹を殴られた。内臓をズタズタに引き裂きながら、骨を断ち、衝撃がさらに内部を蹂躙する。異能の力と人殺しの術の織りなす一撃。
僕はなすすべ無く吹き飛び、壁に叩き付けられ「だから大人しく、怪物になってくれよ」男がそう呟くのを聞いた。
本物の血だまりをつくりながら。




