(6)異能
……ザー、ザーと波が寄せては返す音。かすかな潮の香り。固い地面の、ヒンヤリとした感触。
五感の一つ一つが紐解くように回復していく。
僕はゆっくりと目を開ける。首が熱く、痛みを持っていた。でもそんなこと気にしている場合じゃない。
薄い暗闇の中、起き上がる。目視で確認出来ないが、両手は後ろ手に縄のようなものできつく結ばれていた。
建物の中のようだ。辺りを見渡すが、薄暗さのせいで広さが上手くつかめない。
僕の近くには巨大な鉄筋らしきものも置いてあるのが見える。
「よう。お目覚めだな、坊主」
いつの間にか目の前に黒尽くめの男が立っていた。この男の声の響きからして、建物がかなり広い空間だということが分かった。
男の見かけは、僕が知っている姿よりいくつかの差異があった。
遭遇した時よりさらに服がぼろぼろになり、男の顔はそのぼろぼろになった服で作ったと思われる覆面で覆われていた。
「そんな探らなくても、場所を教えてやるよ。ここは海に面した造船用の倉庫だ。街からも出ていない」
男は僕の様子を見て、瞳を歪めて笑っていた。
「僕をどうするつもりですか。誘拐……とも思えませんけど」
「誘拐なんて意味のないこと、おれがするわけ無いだろ。犯罪は殺人以外する気はねえ。殺しには趣味と実益を兼ねてるからな。それなりに自分にかせたルールがある」
僕は男の物言いに焦燥感が湧いてくるが、何とか堪えて話をつづけた。
「それはさっき言っていた、子どもを殺さないということも、あなたのルールですか」
「おう、おれは無意味には殺さねえ。だが、より優先度のあるルールはおれの顔を見た人間は殺すってことだ。女だろうと子どもだろうとな」
武器もない、あってもこいつに勝てない。僕の命はこいつの手のひらの上か……。
「だが折角の命だ。有効に使ってやるよ。坊主のたった一つの命、おれのためにな…」
男がこちらに近付いてくる。
黒いぼろい布をまとって、さながら死神のように。
「にしても、坊主。お前本当に子どもか?いや、大人だって縮み上がる状況なんだが、そこまで冷静だと、頭のネジ飛んでんじゃねえかと不安になるぜ」
「何を、言って……。さっきから気が気じゃないですよ。どうやって生き残ろうかと……」
僕は死ぬのが怖い。だから死なないために必死に頭を回転させているんだ。冷静何かじゃない。黒尽くめの男は呆れたような視線を寄越し、そうしながらも覆面で隠れた口が笑っている気がした。
「やばいな、お前。好きだぜ、お前みたいな奴。異端、異常、異形、異質、他の凡人共とまったく逸脱した精神や能力の持主って言うのは。とんだ拾いものだったな」
男はクツクツと笑いながら、僕の横を通り抜け、僕の背後へと進む。僕の肩を押さえ耳元で囁いてきた。
「賢い坊主は知っているか?この世界には決して犯してはいけない、ルールがあることを」
まじかにいる男の気配はやはり不気味で、血と汗の臭いを漂わせていた。
「……そんなもの、法律に決まっています」
「まあ、当たらずとも遠からず、だな。だが、法というのは世界のルールなのか?国ごとに違いがあるじゃねえのか」
男は勿体つけるように問いかけてくる。
「なら、なんだと言うんです」
「禁忌だ」
僕は男の答えがいまいち理解できず、少し黙ってしまった。だってそれは。
「それは、忌避されるているから人が避けるものでしょう。世界のルールなんて関係なく。どうして世界で犯してはいけないルールになるんですか?」
この異常な状況の中、僕は思わず男に問いを投げてしまった。
「この話にもついてこられるか。異常なガキだ……」
男は僕の問いに目を細める。
「………」
男は勿体付けるように、押し黙った。僕も今は時間をかけて考えを巡らせたい。いつまでも黙っておいてくれるなら好都合だ。
「確かにそれも禁忌の意味合いとして正しい。だが、本当に犯してはならない禁忌があるんだよ。一般には知れ渡っていない、決して犯してはいけないルールが。俺はその禁忌を見てみたいと思って、ずっと行動してきたが、未だ手が届かない。だが今日、坊主とお嬢ちゃんを見つけた時によ、ビビッきたんだわ」
男の声は興奮し、喜びに震えていた。
暗い喜びに浸る、その震えが僕の肩を揺らし、体は堅くなる。
「なぜ、そこで姉さんが何で出てくるんだ」
聞くことへの恐怖を押し殺し、男に尋ねた。男は勿体付けるようにまた黙った。
僕の肩から手をどけ、先ほど立っていた場所の少し後ろに歩いて行った。
床には大きな袋が置いてあり、そこから何かを取り出していた。あまりに軽そうに扱うから布かと思ったが、違う。
純白の夜着に、艶やかな金色の髪が覗く。
見間違えようもなく、姉さんだ。
「お前……」
自分の声とは思えないほど冷たい音が喉から漏れる。
「ははは、やっと人間らしい感情が出たかと思ったら、殺気かよ。つくづくおかしな坊主だ」
何が楽しいというんだ。男は笑い、そうしながら姉さんの襟首を持ちこちらまで運んできた。
そして僕の前までそっと下ろす。僕は若干呆気に取られたが、緊張は決して解かない。
こいつはいつでも僕たちを殺せる。気まぐれの暴力でさえ、大の大人を無力化したのだ。
「おれは別に好き勝手に暴力を振るうことを好んでいるわけじゃねえ。特に子どもにゃあ、優しく接するのが俺の信条だ。何だその目は、信じてねえのか?まったく可愛くないガキだな」
男はどこまでもふざけている。でも姉さんがここにいることで僕の精神はどんどん冷静さを欠いていく。だめだ、感情的になるな。頭を回転させ、打開策を探すんだ。
「嬢ちゃんには一切手は出さない。坊主、お前にもな」
「ここまで連れ去ってきておいて、信じられるわけがない」
僕は自分を自制できず、拳を握り、男を睨み付けていた。男は僕の態度に意を介さず続ける。
「まあいいさ。俺はそこいらで、嬢ちゃんが起きるのを待つからよ。坊主も楽にしていればいい」
そう言って男は本当に下がっていった。暗がりでも僕たちの様子がぎりぎり見える場所まで行き、散乱した船のパーツらしき物の上に寝転がった。男が眠るとは思えないが、かなり時間に余裕が出来たのは確かだ。
どうする。まず逃げるのは論外だ。子どもの足であいつは巻けない。
姉さんを起こす。微妙なところだ。状況に動きがあれば、姉さんが起きていた方がいいが、果たして冷静でいられるか分からない。でも姉さんが起きてくれると、縄も解いてもらえる。…たぶん。
正直あいつの意図が分からない。あいつは僕の意識が途切れる前に「死に方が決まった、楽に死ねる」といっていた。
それと「禁忌に届かない。僕と姉さんを見たときに何かを感じた」と言った。
禁忌のことはまったく分からない。その意味が理解出来れば、あいつのしようとしていることが分かるのだろうか。
子どもに極力暴力を振るわないとも言っていた。
決して自分で手を下さず、顔を見られた僕のことも誰かに殺させると言っていた。
あいつはそれを待っている?この街に仲間がいるのか。ここでは確かめようないか……。
僕は思考を止め、姉さんの様子を確かめる。
乱暴されたようなあとはなく、静かに眠っている。
この状況でも少し安心したが、姉さんを見詰めていて、僅かな違和感を覚える。
何かが違っているような、ほんの少しのずれ。
いったい何だ?いつもと変わらないはずなのに………。
男は、僕のすることにあまり干渉するつもりが無さそうなので、勝手にロープを切らせてもらう。
刃物は見つからないから四角の石材の角で縄を擦っていく。
結論、そんなに甘くなかった。5歳の体力はすぐに尽きてしまいました。ロープはすごく頑丈でした。
もう助けを待ってよう。それ以外何にも出来る気がしない。
姉さんは起こさないことに決めた。あいつが姉さんの起きるのを待つならそれだけ時間が潰れる。迷うこと無かった。僕も大分冷静さを無くしているみたいだな。
それから、1時間くらいたっただろうか。突然男が起き上がり、こちらをジッと見詰めてきた。何だ、いったい?
「ううん……」
「姉さま、大丈夫?」
姉さんが起きた。今から何があるのか分からない。男のことを視界の端に入れながら姉さんに話しかける。
「……ユキト…?ここってどこだっけ…?ホテルで寝てた気がするけど……」
「姉さま、落ち着いて聞いて。ここは……」
姉さんがある程度覚醒したのを見計らい、状況の説明に入ろうと思っていたが、突然姉さんの様子が変わる。
顔が青くなり、がたがたと震えだした。尋常な様子じゃない。
姉さんは自分の右腕を凝視していた。
やっと僕は姉さんを見た時に感じた、違和感の正体に気付いた。
あの出来事以降、姉さんは決して異能封じを、色金の腕輪を外さなかった。ふとした拍子にいつもその存在を確かめ安堵の表情を浮かべていた。
「姉さま、落ち着いて!」
「無い、無い、無いよ!腕輪が無い!あれがないと……」
姉さんは、周りを見渡し手探りで地面を探す。目に涙を溜め、今にもこぼれ落ちそうになっていた。
「姉さん!!」
僕はあらん限りの力を込めて、姉さんに向かって叫ぶ。姉さんの肩がぶるぶると震え、僕を恐れるような瞳で見つめてくる。
1年前、僕が大怪我を負った後の、あの時の姉さんの姿だった。
まだあのことが、姉さんの中では消えないトラウマとしてずっと残っていたのか。
僕は姉さんのことをあまりにも考えられていなかったのかもしれない。でも今はそれを悔いている時ではない。
「姉さま、大丈夫だから落ち着いて。姉さまも僕も、何ともないよ。元気だし、怪我もしていない」
僕は姉さんを見詰めゆっくりと言い聞かせる。大丈夫だ、腕輪が無くても姉さんが正気なら何も………。
バシャリ。
突然、頭から何かの液体をかけられる。なんだ、これ?目が開けられない。薬品のような匂いが鼻につく。どこかで嗅いだことのある匂い。僕は何とか右目を開いた。
真っ赤な液体。
何のことはないペンキだ。
恐らく造船関係のペンキと思うけど、それがどこからか飛んできた。僕はそのまま視線を周囲へ向ける。
周りを見渡しても何もなかった。黒尽くめの男さえいない。いったいどこへ……。
ペンキを投げつけたのは、あいつしか考えられない。本当に何がしたいんだ。
「あ、あ、ああ……」
僕みたいに、ペンキまみれではないが、姉さんにもペンキがかかっている。
僕から流れ落ちたペンキが地面に広がり、姉さんの地面についていた手を汚す。
姉さんはペンキで汚れた両手のひらを見詰め、僕を見る。
瞳孔が開き、よりいっそ赤く見える瞳で。
「姉さん?姉さんにもペンキが………」
「ああああああああぁぁぁぁぁ!!」
姉さんが獣の咆哮のような叫びをあげた。
瞳には燃え上がるほどの赤い光を宿し、激しく明滅させる。
体中の毛穴から冷や汗が出るような根源的な恐怖が僕の体を襲う。
姉さんがあまりにも恐ろしかった。体からは赤い霧が吹き上がり、人の表情がずるりと抜け落ち、獣のように叫ぶその姿。
僕は連想してしまった。まだ見たことのない生物。人類の外敵。魔物。この世界に生まれてから、何度となく聞いたその言葉。
僕を見詰める、姉さんの赤い瞳は狂気に染まり、純粋な殺意を向けてきていた。
僕の体は凍り付いたように動けなくなった。
姉さんはギチギチと音をたて拳を握り込んだ。
よりいっそう膨れあがる赤い霧が、右腕を包み込んでいく。ゆっくりと振り上げられた拳は、僕へと狙いを定めていた。
肉を打つくぐもった音と、昨夜のような地響きが、倉庫に木霊した。




