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蒼の誓約  作者: 毛井茂唯
第4章〈アヤメ2〉
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(1)強くなりたい2

 ◇ ◇ 第三者視点 ◇ ◇



 ユキトたちが帰った後、ベンジャミンの病室には1人の女性が訪ねてきていた。

 道行く人間は彼女の姿が見えるとギョッと身体を震わせ、慌てて視線を逸らす。

 纏う気配は重く、不機嫌さをまき散らしていた。

 立ち居振る舞いも常人とはいいがたい。誰もが彼女を遠巻きにしていた。


 目的地、ベンジャミンの病室に着いた彼女はノックもせず扉を開ける。

「げごっ!」

 ベッドの上に腰かけていたベンジャミンは、ヒキガエルよりカエルらしい呻き声を上げた。

 ベンジャミンの腹部には某高級フルーツ、メロンが深々と突き刺さっていた。

 豪速で投げられたはずだが奇跡的に割れていない。

「見舞いだ。受け取れ」

 ドスの利いた声を掛けた彼女はカノン・アズサンセット・クリエイド。

 領域開拓軍の精鋭にして現代最強の法術師。

 ベンジャミンの友でもある。



 カノンはメロンを皿の上にそのまま乗せ、手をかざす。

 メロンはそれだけの動作で綺麗に八つに切り分けられた。

「カノン、あんまりそんな風に法術を使うのは……」

「かたいのう。バレなければいいだろう」

 カノンはお見舞いのフルーツを気にした風もなく食べ始める。豪快にかぶりつき、スイカでも食べているかのようだ。

 ベンジャミンも一切れ手に取って食べ始める。

 口をつけると甘い果汁が滴るほど溢れてくる。

「うまいだろう。市場で一番高値のものを持ってきたんだ、感謝して食え」

 なら投げるなよ、と思ったが口には出さない。

 目の前のカノンは大人しくメロンを頬張っているようで目が笑ってはいない。ベンジャミンには戦いの前に腹ごしらえをしているようにしか見えなかった。


 カノンは2切れほど食べきりほっと息をついた。メロンの味には満足したようだ。

「さてベンジャミン。……お前を襲った輩は誰だ」

 部屋の空気が冷たくなったと感じるほどの威圧が木霊す。急激な空気の変化にメロンをろくに噛まずに飲み込んでしまいベンジャミンはせき込んだ。

 怒気をにじませるように鋭い視線をベンジャミンに向けているが、カノンは彼に対して苛立っているわけではない。

「お前が襲撃者をただで帰すとは思えん。誰にやられた」

 怒りは件の襲撃者に向けられている。押さえられていてさえ空気が軋み上がるほどの怒気だ。

 彼女が今どれほどの激情を抱えているか、長い付き合いのあるベンジャミンにとっては察して余りある。

「耳が早いというか、どうして知っているんだい。一応調べようとでもしない限り分からないはずだけど」

「だからここまで遅れたんだ。それに調べたのではなく知らせてくれたんだよ。キリエがな」

 連絡は手紙か何かだったのだろう。そう考えればカノンが訪ねてきた時期が今なのは納得が出来る。


「カノン、仕事放り出してきたね……」

 ベンジャミンは呆れた口調で言葉を漏らすがカノンは真剣さを崩さない。

「友が襲われたんだ、仕事に構っていられるか。それに私がいなくても部下がちゃんと部隊を回す」

 ベンジャミンはカノンの男らしさに感嘆すればいいのやら、苦笑すればいいのやら複雑な顔をした。キリエも自分の手紙でカノンがはるばる見舞いに来るなど思いもしなかっただろう。

 カノンは「さっさと教えろ」とベンジャミンを睨み付けるが、ベンジャミンは首を横に振った。

「見舞いまで来てもらって申し訳ないけど、本当に犯人については知らないんだ。だから……」

「嘘を吐くな。お前は私に嘘が通じるとでも思っているのか」

 カノンはベンジャミンを刺すように睨み付ける。

「……思ってない。でもボクはこれしか言えない」


 カノンは睨み付けていた瞳をさらに鋭くさせるが、ベンジャミンはその瞳を見詰め返し、口を開かなかった。


「そうか」

 カノンはそう言って不機嫌そうに残りのメロンにかぶりついた。

 メロンも顔を顰めながら食べては欲しくないだろう。

「お前が何も言わないのなら、私は何もせんぞ」

「ああ、ありがとう」

 ベンジャミンも残りのメロンを食べながら、素直でいて、素直ではない友人に苦笑する。

 お互い言葉少なく食べ進めていった。



 二人とも余り食が太いわけではないため全ては食べきれなかった。訪ねてきた看護師さんに残り物で申し訳ないが渡しておいた。

 看護師はカノンが放り出していたメロンの袋を見て、目を丸くし喜んでいた。やはり高いものだったのだろう。

 食後にパックの熱いお茶を入れて飲む。あまり香りしないお茶だが丁度いい苦みがあり、口の中がすっきりとする。

「ああ、もう一つ用件があったのだった」

 カノンはお茶を飲みほした後、思い出したようにつぶやいた。

 ベンジャミンは何とも嫌そうなでカノンを見やる。

「何だか面倒事な予感が……」

「いや、直接お前が関係あるわけではないさね。ユキトのことについてだ」

 カノンの言葉にベンジャミンが首を傾げる。

 カノンとユキトは知り合いではあるが何か用があったのだろうか。


「大陸各国からの要望に応える形で、三神教会から領域開拓軍に要請があった。ユキトに領域開拓軍で法術の訓練をつけろと言われたさね」


「……何を言っているんだい。あの年齢の子どもに術式を使わせることのリスクを理解しているはずだろう。というか列国会議の決定を無視する気なのかい」

 先ほどとは逆にベンジャミンがカノンに強い視線を向けた。カノンはそれに手を振り何でもなさそうに答える。

「安心しろ。本人の意思が第一だ。リスクは承知しているが、同時に青が何者かに害されることも承知しているのだろう。要するにだ……」

 ベンジャミンもカノンの言葉の先を理解し冷静さを取り戻すが、顔は苦々しいものに変わっていた。

「訓練はある意味で建前。領域開拓軍を護衛役にしようとしているというわけかな」

「おおむねその通りだろうね。私としても今のユキトの状況は不味いと思うがのう。各国も不信感を持っておるようだ。お前はどう考えているんだい?」

 カノンはどうやら三神教会の提案に対して抵抗がないようだ。

 反対にベンジャミンは顔を顰め、不快な表情をしている。

「分からなくもないさね。お前の考えも。ユキトをなるべく戦いや争いから遠ざけたいのだろう」

 カノンはお茶を飲み干し、音を立てコップを机に置く。

「ユキトはお前の思っている以上に強いと思うがのう。それにあまり過保護が過ぎれば苦労するのはユキトだ。あいつは力を得た。法術を持った人間がどんな人生を歩むことになるか、法術師であるお前が一番分かっているだろう」

 カノンはそう言って立ち上がるとベンジャミンの右肩を掴む。込められた力は強く、指が肩に食い込んでいた。

「私はユキトが望むなら、徹底的に鍛える。それこそ私やお前が及びもつかないほどの使い手にな」

 ベンジャミンは肩の痛みに眉をよせ、カノンを見上げた。


「まあ、全てはあいつしだいさね」

 カノンの顔はある種の確信に満ちていた。期待と言ってもいいだろう。

 ベンジャミンは諦めたように疲労をにじませる声を出す。

「……実は君が来る前にユキト君と話したんだ。あの子は法術の力を訓練したいと言い出していたよ」

 ベンジャミンはユキトとのやり取りをカノンに説明した。カノンはユキトの言葉に感心した様に眉を上げる。

「ほう、意外だのう。力を使いたいという願望はあったのか。相応に子どもらしいところも……」

「ユキト君は自分のことで誰かが危ない目に遭うのは嫌だ、せめて誰も傷つけないようになりたい、何もしないでいるのが怖いと言っていた。それが訓練の理由だった」

 ベンジャミンはカノンの前で弱々しく呟きを漏らした。カノンはその言葉に固まる。

「君なら分かるだろう、彼の言葉の意味が……」

「ああ……」

「彼の美徳だろうけど、悲しすぎるよね……」

 カノンはきつく拳を握りしめ、歯を食いしばる。やり場のない思いを必死に抑えていた。

「ベンジャミン、それでも私は。いや、だからこそあいつは訓練を受けるべきだ」

 カノンは感情を露わにしながらもはっきりと断言した。

 ベンジャミンもカノンの言いたいことは分かる。分かるがどうしても賛成は出来なかった。

 

「ボクはユキト君に余計なことをしていたのかな……。何だか置いていかれたような気分だよ」

 ベンジャミンは気落ちしたように顔を下げたが、額に走った衝撃で強制的に顔を上げさせられた。

 目の前にはカノンの人差し指がある。どうやらでこピンをされたようだ。


「お前は相変わらず馬鹿だのう。それに鈍い」

「つう……」

 ベンジャミンもカノンから慰めて貰おうなど思っていなかったが、さすがに追い打ちをかけられるとも思っていなかった。

「お前はユキトを馬鹿にしているのか?私でもあいつがお前にどんな感情を持っているのか分かるぞ」

「へ?」

 ベンジャミンの呆けた顔を眺め、カノンもばかばかしいとは思いながらもベンジャミンに教えた。

「大事な相談をお前に持ってきたんだ。信頼されているのだろうが。それにな、あいつが強くなりたいとと思ったのはお前にも関係がある」

 カノンは厳しさのある眼差しをベンジャミンへと向けた。

「……これ以上は私の想像でしかないため言わないでおこう。お前はもう少し頭をからっぽにして休め。そうすれば考えるまでもなく答えなど出るだろう」

 カノンはそう言い残して去っていた。


 残されたベンジャミンはカノンの去った扉ではなく窓に視線を移し、そこに映る困惑している自分の顔を眺めた。

「考えずに答えを出すって、意味が分からないんだけど」

 残念ながらカノンのソウルランゲージはベンジャミンに伝わらなかった。

「寝よ」

 しかし思考を停止させることには成功したようだ。

(そういえばカノン、もののついでとか言ってユキト君を連れて行ったりしないよね。……いくらなんでもそれはないか……)

 体力的には疲れていなかったが、ベンジャミンは強い眠気に襲われ、そのまま寝入ってしまった。



 ◇ ◇ 第三者視点 了 ◇ ◇



 お見舞いに行ったその日の午後、カノンさんがアンセー家に訪ねてきた。

 師匠の紹介という形で僕に会いに来たそうで、法術師の身分を明かしていない。

 前の白い軍服姿ではなく黒のパンツに麻のような生地のジャケットを着ていた。長い赤髪は結ばれておらず背中に流している。

 スレンダーでモデルみたいな体系だ。年齢は高いはずだけど姿勢が良すぎてとても若々しい。顔は歴戦の戦士みたいに凛々しいけど。


 カノンさんと僕は屋敷の庭を歩きながら話している。

 案の定というか、僕の姿を見て驚きはしていたけど特に何も言われなかった。どうやらカノンさんはあまり人の格好を気にしない人らしい。我がことながら一目で僕と分かってくれたのは嬉しいけど複雑だ。

 カノンさんはキリエさんの顔も見たかったみたいだけど、午後からミリアと二人で外に出ている。

 二人は気が合うのか、時々屋敷で話したりしているのを見たことがある。

 仲良きことは美しきかな、だね。昔読んだ本に書いてあったのを思い出す。


「ほう。いいところに住んでいるのう」

「そうですね。僕にはもったいないくらいです」

 本心からそう思う。実際にホーエイの屋敷でも豪華だと感じていたんだ、アンセー家はまた別次元の格がある。生活用品や置物が全て高そうで暮らすのに気を使ってしまう。

 僕の近況を話し終えたところで、カノンさんは指をパチンと鳴らして足を止める。どうしたのだろうか。


「迂遠な言い方が苦手ゆえ、単刀直入に伝えるが……ユキト、お前は領域開拓軍で法術の訓練をする気はないか?」

 カノンさんの言葉に驚いて心臓が跳ねる。昼間にベンジャミンさんに相談したばかりで、カノンさんから同じ話題を出されるとは思っていなかった。

「勘違いするなよ。これは三神教会からの打診だ。教会はお前が訓練を望むなら受けさせると言っているだけで強制ではない」

「教会からの打診ですか……僕だといまいち事情が分からないんですけど」

「お前の周りは今事件ばかり起きているからな、各国の陳情が教会に多く出ている。アンセー家の警備は優秀で強固ではあるが、事情を知らない国からしたら一華族に任せるのは不安なのだろう。それに比べ領域開拓軍の基地は、魔物の領域に隣接した場所にあるが人の領域で言えば辺境だ。守りやすいし他人を巻き込まない。現状人類の最高戦力が揃った場所だからのう」


 俯いて考えを巡らせる。

 願ってもない状況だけど素直に応じていいのだろうか。自分の知らないところで複雑な事情がある気がする。それを知る手段は僕にはない。

「元々お前にも訓練をする気はあったのだろう。利用するくらいの考え方でいいと思うぞ」

 カノンさんはこちらに視線を向けずに明後日の方向を見ながら提案してきた。

「術式は無理だが、お前はマナの領域やマナのコントロールだけでも身に付けておいた方がいい。恐らくお前の正体を隠しながらマナの領域を開けるのは、魔物の領域を置いて他にないぞ」

 何も言えず黙り込んでしまう。

 何が最善かは理解しているつもりだ。僕は沢山の人を巻き込み続ける。今はそのつけを全て他人に押し付けている。

 誰も教えてくれないけど、家族や師匠を危険に晒した先日からの事件の数々は僕に起因するものだろう。

 全ては僕の半端さが原因ではないだろうか。

 目の前に立つ歴戦の法術師。

 僕の基礎能力は彼女を超えているらしいけど、戦いになれば僕は彼女の相手にならない。

 この人だけではない。あの時、毛むくじゃらになった異能者に勝ったのも偶然に近い。

今はあの時のような極まった全能感はない。

 型にはまったような、よく分からない感覚がある。法術を使えなくなったわけではないけど。


 カノンさんはこちらに向き直り、鋭い眼を向けてくる。ただその顔はどこか優しげに映った。

「どうだ?来るか」

 彼女は僕の答えを知っていて問いかけているのだろうか。

 確信に満ちた彼女の態度に、僕は姿勢を正す。

「僕は強くないたいです。……誰も傷つけたくないから、誰にも負けないくらい強くなります。僕に訓練を受けさせてください」

 カノンさんは口元を吊り上げて笑った。ただ一瞬瞳に憂いが見えた気がしたが、あまりに早く通り過ぎていったため、気のせいだと思った。

「ああ、お前は強くなるさね」

 覇気の籠ったカノンさんの言葉に僕は勢いよく頷いた。


「そうと決まれば善は急げだ、ちょっと部屋に戻って待っていろ」

「え、分かりました……?」

 カノンさんは僕の返事を聞くと、そのまま中庭を横切って本館の方向に立ち去っていった。

 いったいどこに行くつもりなのだろうか。


 

 部屋で待つこと30分ほど。カノンさんは不機嫌な顔をして戻ってきた。

 どかどかと床を鳴らしながら僕のところに来ると首根っこを掴まれた。

「埒が明かん。行くぞ、ユキト」

 そのまま脇に抱えられるように持ち上げられる。

「いったいどうし……た…」

 いきなり体が浮遊感に包まれる。エレベーターが止まる時に感じる感覚を何十倍にもしたみたいな強烈なものだ。体が上空に向かって急激に引っ張られたように感じる。

 同時に体からマナが抜ける。保有量からすれば微々たるものだが気味の悪い。

 体感で1分ほど胃袋シェイクを味わった後、不意に地面に下ろされた。

 三半規管が揺さぶられたようにくらくらする。足元が揺れてかなり気持ち悪い。

「うえぇ……」

 思わず目を瞑り四つん這いになった。何とか吐かずにはすんでいるけど、口の中が酸っぱい。

「おっと、すまん。急いでいたから体の負担を失念しておったわ」

 カノンさんの全く申し訳なさそうに聞こえない謝罪が耳に入る。

 地面についた手が触れているのはどうやら絨毯の様だけど何処なんだろう、ここ。

「出してくれ」

 カノンさんの言葉と共に地面が揺れ、体が転がる。背中に何か硬いものが当たった。

 慌てて目を開けてみるとそこは狭い部屋の中だった。

「今いるのは馬車の中だ。しばらく我慢してもらうぞ」

 カノンさんは馬車の中の椅子に腰かけ、腕を組んで僕を見下ろしていた。

「…………い、いったい何が起きたのでしょうか?」

 カノンさんは問いかける僕の顔をじっと見た後、苛立ちを隠さず顔を背けた。

「あのキリエの父親とかいう男が国内や国外がどうの、ユキトが子どもだからどうのうるさくてのう。面倒だったのでお前を抱えて移動術で屋敷を飛び出した」

 カノンさんが何を言っているのかしばらく理解できず、口をぽっかりと開けたまま停止してしまった。

「まあ、後で連絡すればいいだろう。私が滞在できるのは今日までだったからのう。丁度良かったか」

 カノンさんは自分で勝手に納得していたが、僕の頭の中はその後もクエッションマークを浮かび続けていた。

 


 馬車で鉄道駅に移動してから、カノンさんの権限で通信機を使いアンセー家に連絡した。

 現在アンセー家は蜂の巣をつついたよう騒ぎなっているらしい。なんでも僕が誘拐されたとかなんとか。

 カノンさんはヨウハンさんに僕を「勝手に連れて行く!」と宣言して本館を出てて言ったのだという。

 まごうことなき誘拐だ。いや拉致と言った方が正しいのかな?


「………という話をしていたところで彼女の姿が消えてしまったんだ。ユキト君は大丈夫かい」

 ヨウハンさんの疲れた声がスピーカー越しに僕の耳に届く。

 通信機を使っているのは僕でカノンさんは駅舎の外にいる。

「僕は何とも。流石に急でびっくりしていますけど、というより未だ事態が呑み込めていません」

 ヨウハンさんの話を要約すると、カノンさんが僕を領域開拓軍に連れて行くと話し、ヨウハンさんはそれを止めようとしたらしい。

 もっと細かく話すならカノンさんが性急で、ヨウハンさんが話についていけなかったということだ。カノンさんの行動が電光石火過ぎて、教会からの訓練の話についても初耳だったらしく、ヨウハンさんは前後関係をほとんど知らなかった。


 ヨウハンさん曰く、恐れくまだ検討段階のことでこちらに打診が来ていないのだろうということだ。

 確かに僕が「いいえ」といえばこの訓練自体無くなる。何の準備もできていないのだ。

 領域開拓軍に来た話も僕が了承した場合は宜しくといった意味なのだろう。

 カノンさんの行動力に脱帽しそうだ。危うく何も知らず鉄道に乗るところだった。


「はあ……キリエが知ったらなんていうか……いや、すまん。気にしないでくれ」

 ヨウハンさんの張りのない声が響く。声だけで何歳も年を取ったように聞こえてしまう。

 キリエさんも怒るかな。あの人に怒られたことないけど、師匠とのやり取りを考えると怒ったら怖そうだ。

「取りあえずカノンさんに事情を話して戻ります。あ、でもヨウハンさんが説得した方が」

「ユキト君、どうか宜しく頼む。どうも私と彼女では相性が悪いようだ」

 焦ったように声を被せられた。どんな会話が二人の間にあったのか気になるが、また話がこじれても嫌なので素直に了承する。

 僕は通信を一旦切って駅舎を出る。思わずため息が出る。

 

 カノンさんは駅舎から出てきた僕を見て眉をしかめる。

「どうしたユキト、そんな顔をして。アンセー家の当主に嫌味でも言われたか。それなら今から引き返して灸をすえてやるが」

 カノンさんは体の関節を盛大に鳴らしながら提案してくる。本当にヨウハンさんと何を話せばそんなケンカ腰になるのだろうか。絶対相性の問題だけではない気がする。

「一通りの経緯を聞きましたけど、やっぱり帰るべきだと思います。勿論灸をすえないでください」

「なに!」

 そんな驚いた顔をする意味が分からない。

「カノンさん、ヨウハンさんとちゃんと話し合ってないでしょう!いえ、そもそもまだ訓練の件、全然話が進んでいないそうじゃないですか。それに僕はまだ教会の法術師ではないですけど、そんなおいそれと国を渡っていいんですか」

 カノンさんは確信に満ちた顔で僕を見詰め拳を持ち上げ宣言した。

「勿論、いいに決まっている!」

「駄目に決まっているでしょう!」

 ホームでわめき合い、何とかカノンさんを説得してアンセーの屋敷に戻ることができた。


 疲れた。

 


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