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蒼の誓約  作者: 毛井茂唯
第3章〈アヤメ〉
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(9)混迷

 人の姿をしていた。

 全身に元の色が分からないほど汚れきった長すぎる髪が絡みついていた。

 辛うじて人と判別できる手足のパーツが髪から生えるように伸びていた。

 目だけは異常に目立ち、腐りかけの果実のような赤黒い光を放つ。

 魔物の殺意などとは比べようもないほど濁った死の気配をまき散らせながら、それは結界の外より現れた。

 鈴の月28夜、正午のことだった。

 

 絶対破壊不可能とされる三夜月の守護結界が、その人物が現われると同時に出現した、巨大な真紅の炎弾に焼かれ、大穴を空けた。

 今もなお結界の侵食する炎によって穴は広がり続け、魔物たちがお互いを轢き殺す勢いで、雪崩れ込んできていた。



 そう語る兵士は恐怖で表情が歪み、目を血走らせる。

 体に無事な箇所はなく、無残に傷を晒している。彼は痛みを押し、ゼドルカードへ通信を行っていた。

 血塗れの手には長距離無線通信を行うための大型の機械を握りしめている。

 この兵士は魔物の掃討に当たっていたスクビア連合国軍兵士の僅かな生き残りの内の一人だった。

 1000名の大隊を率いたスクビア連合国軍は兵の殆どを失い魔物に敗れ去っていた。

 通信機を握りしめた兵士は最後の仕事を終え、仲間の後を追うように絶命した。


 兵士の死後も、正常に動作し続ける通信機は、人間らしき人の声を拾う。

 声の調子など忘れてしまったかのような、音のずれた奇怪な声を。


「会いに、会いに、会いに、来た。あなたに会いに、あなたは何処?何処?ドコニいるんんだ、いるだよ、いる?あっははははっはははは!」



 全滅した国軍はみな一般兵で構成されており、異能者は所属していなかった。

 彼らは最近になって登用されるようになった「銃」という兵器を用いて戦っていた。

 この兵器は甲種に対して絶大な威力を発揮するものの、乙種にはまるで通じない兵器だ。

 国軍もそれを理解した上で、銃とは別に乙種に対抗できる兵器「魔法器」を少数名に装備させ運用していたが、今回のような強力な個体を含んだ、乙種の群れに対して抵抗らしい抵抗も出来なかった。

 

 結界の外より現れた人物が結界の破壊を行ったのか、それは定かではない。

 ゼドルカードに滞在する人間たちにとって、それは些末なことでしかない。

 今、黒い海のように西の大地を覆い尽くしながら迫る魔物の軍勢に絶望していた。

 無数に光る、殺意の赤い瞳は人間を誰一人逃がす気など無いと語っていた。



 鈴の月28夜、夕刻。現状の開拓村ゼドルカードの兵力は次の通りである。

 国軍が約500名。うち異能者が10名。

 各師団が合わせて約200名。うち異能者が30名。

 学生と教官が合わせて58名。うち異能者が28名。

 この人数にはけが人も含まれており、十全に戦える人間は6割ほどだ。

 そして軍属ではない村の人間が約550名いる。

 

 ゼドルカードに現在、法術師はいない。

 全ての法術師が出払い、各地の魔物の対処に追われていた。

 破壊されたのはゼドルカードに隣接する結界の一か所だけで、他にこのような事態に陥った場所はない。

 全滅覚悟で挑めば、魔物の1000体は倒せるかもしれないが、今ここに向かってくるのはその10倍の1万を超える魔物の軍勢だった。

 法術師が1人、2人いたとしても基地を守りきることは出来なかったであろう。

 

 魔物の先頭が基地に辿り着くまで半刻とない。

 逃げる時間もない。

 戦えば確実に死ぬだろう。

 戦わなくとも死から逃れられないだろう。

 

 残された時間、人は何を思い、何を成すのか。

 

 


 一度は安堵した精神は、再び絶望に落とされる。

 突発的ではなく、ゆっくりと死の足を音を耳に刻み付けられながら。


 学生たちもそれぞれ武器を手に魔物の軍勢と戦うことになったが、当然士気は低かった。

 異能者は黒鉄の武器を携え、異能者ではない学生は銃を携える。

 

 陣形は基地に立てこもり、拠点防衛に重きを置いた布陣だ。

 無線を持って出た部隊もいたため、彼らと連絡を取ることができたが、彼らがここには戻ってくるまでに最短でも一刻はかかる。

 周辺基地はこちらに送り出せる戦力が無く、対処が遅れている。

 

 ゼドルカードに生き残る道はない。

 たとえ援軍が来たとしても、万を超える物量の魔物を退けられないことを知りながら、1秒でも長くこの場に釘付けすることが、ゼドルカードの軍人たちに下された使命だった。


 ナディアは拠点防衛のメンバーから外されていたが、ただ眠りながら他人に運命を委ねようとは考えていない。

 体をふらつかせながら人気のない基地内を歩いていた。

 彼女の体は確かに弱ってはいたが、まだ奥の手が残っている。もう一度異能封じを外せば戦うことが出来る。

 それは文字通り、命を懸けての行為となる。

 

「会いたかったな……お母様にも、お父様にも……」

 一人小さな声で呟き、声を震わせる。

 ナディアの両親はこの道に反対していた。喧嘩もした。

 説得を繰り返し、何とか首を縦に振ってもらえたが、やはり完全に納得はしてもらえなかった。


「まだ、諦めたくないよ……」

 こんなところで終わってしまうのだろうか。

 大切なもののために命を張れる自分になりたかった。

 何の意味もなく、ここで魔物に殺されてしまうのか。


 戦いたくなどない、怖い。命を失うことが怖い。

 今彼女の心を支配しているのは生への執着と弱音だった。

 

 大事件の当事者になど、誰がなりたいものだろうか。

 ナディアは魔物を倒したいがためにこの道を選んだわけではない。

 守りたいのもがあったのだ。

 そのためになら、そう思ったからこそ戦える。


 今はただ上手く死ぬための戦いを強いられていた。生き残るためでさえない。


 彼女の理想は現実の前には、綺麗すぎて脆いものだった。


 それでも彼女は戦地へと赴くために歩みを進める。

 自分で、掲げた理想くらい守り通そうと思っているのか。

 まだ彼女は諦めていないのか。

 

 前へ前へと突き進む。


 

 外は物々しく武器を装備し、様々な表情をした者たちが集まっていた。総じて明るい顔をしたものなど居らず、ほとんどの人間が強く死を意識していた。

 眼前には黒い海が間近に迫り、基地を飲み込まんと蠢いている。


 ナディアは魔物の気配に寒気を覚え、喉を鳴らす。人間たちの戦意を奪うには十分な迫力だった。

 

 確かに魔物の軍勢は異様ではあったが、それとは別に、気になるものが視界に映る。

 ナディアは異能で視覚を強化し、基地から離れた位置、魔物の軍勢と最も近い位置に立つ人影を見つけた。


 見事に染め上げられた、赤い衣をまとったものの後姿。


 ただ一人で立つ小さな背中。

 頼りないはずのその背には、沢山の視線が集まっていた。

 みな絶望に染まる瞳で縋るように見詰めていた。


 風を受けてなびく髪は、夜の川が流れるようにサラサラと揺れる。

 

 成長した姿であっても見間違えるはずがない。


 あれは。

 


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