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蒼の誓約  作者: 毛井茂唯
第3章〈アヤメ〉
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(8)幽世からの使い

 魔物の被害に晒され馬車数台と重軽傷者を多数出したが、魔物の襲撃で死者は奇跡的に出なかった。

 学生と教官の働きは確かに大きかったが、彼らだけではどれほどの被害が出ていたか、想像に難くない。

 現状の被害の軽さはナディア・ホーエイ・ジルグランツ、彼女の独力によるところが最も大きい。

 結果として、彼女一人で他の教官や学生たちと同じ数の魔物を屠っていた。

 

 一時の安全は確保できたものの、また魔物の襲撃が無いとも限らない。いや、この状況で無いと思う方が不自然だ。

 結界の内側にこれほど大量の魔物が出現するなど在り得ない。ならば常識でものを考えていては足元をすくわれる。

 教官たちは、まだ半分以上の道程のあるパンタロ行きを諦め、ゼドルカードへ戻る道を選んだ。

 重軽傷者の多い状況で、未知の危険のある長い道のりより、安全を確認した道を戻る方がずっといいだろう。

 それにすぐに危険な状態になることはないだろうが、戦いの傷が深いものもいる。

 学生たちのストレスも限界に近かった。



 ゼドルカードに引き返す荷馬車の中、カルフィールとシンフはナディアの傍らに座り込んでいた。

 毛布を引いた木の荷台の上で横になるナディアは、未だ硬く目を瞑り目覚めない。

 浅い呼吸を繰り返しているが、容体は安定していた。

 清潔な服に着替えられているが、その中は血と薬液の滲んだ包帯が幾重にも巻かれている。

 特に両手両足の傷はひどく、目を覆うような傷跡だった。

 カルフィールとシンフの二人はナディアの着替えと治療を行ったため、その壮絶な戦いの痕跡を見ることとなったのだ。

 

 ここまで戦ったナディアに対して学生たちは怯え、遠巻きにしていた。

 学生たちの中には異能者でない者もいるし、突然の荒事で混乱していたのも分かるが、守ろうと必死で戦った彼女に対して多くの者が猜疑心を抱いていた。

 目が覚めたら襲い掛かってくるのではないのか。

 意識のない内に鎖で縛り付けておけば。

 そう口にした者たちもいた。


 学生たちや教官が悪だというわけではない。

 善か悪かに分類するならば、ほとんどが間違いなく善と断言できるものたちだろう。

 そんな彼らに非道な判断をさせる、それほどにナディアが放っていた殺気は危ういものだったという証明でもあった。

 馬車から彼女の姿を見たものは、何度も彼女に殺されるイメージが頭の中でリフレインし、心の弱いものは泣き叫び、命乞いまでしていた。


 シンフはそこまで極端ではなかったが、魔物を全滅させ戻ってきたナディアを見たとき、恐怖のあまり嘔吐していた。彼女も例外ではなく自分の死を鮮明に想像してしまったのだ。

 次は自分なのかと。

 ナディアと僅かながらも交流のあった彼女がそうだったのだ。他の学生の恐怖は推し量れるものではないだろう。

 

 カルフィールは軽傷ではあったが手傷を負っていた。魔物の攻勢が止んでいる間に馬車の中で治療を受けていたため外の様子を知らなかった。

 ただ全方位に殺気をまき散らすものがいることは感じ取っていた。

 感じ取りながら動けなかった。恐怖で叫び出しそうな口を両手で押さえ、震えるしかなかった。


 今のナディアからはもう何も感じてはいないが、それでも頭に刻まれた恐怖が消えるわけではない。

 死の恐怖を与えられた相手と、これまで通り付き合える自信はなかった。



 カルフィールは顔に汗を浮かばせ、苦しそうに荒い呼吸を繰り返すナディアの顔を清潔な布で拭い、額の濡れタオルを交換する。

 体の位置をずらし、傷に障らない程度に強張った部分を擦った。

 ナディアの看護を行うカルフィールの表情は恐怖ではなく、心配と悲痛さが勝っている。

 短い日々ではあるが、ナディアと過ごした時間分、まだカルフィールの立ち直りは早かった。それに見ていない分恐怖は少ないのだろう。

 元の関係に戻れるかは別としても、今この時はナディアの身を案じることが出来ている。

 

 シンフは友人であるカルフィールと同じようにナディアの看護を行うが、彼女は消極的であり、ナディアの体に触れることを極端に恐れていた。

 同じ女性だからと押し付けられはしたが、実質カルフィールが殆どの看護を行っていた。




 教官たちの判断は正しかったのか、道中に魔物と出くわすことはなかった。

 それどころか異変を察知した領域開拓軍の大隊が出撃してきており、学生たちは事情を知った彼らに護衛される形で無事にゼドルカードへ戻ることが出来た。

 

 すぐさま重軽傷者たちには基地での本格的な治療が行われた。

 怪我を負わなかった学生たちは、緊張の糸がプツリと切れたように溜まった疲労を噴出させた。

 健康だったものも高熱を出し、倒れるものや泣き出す者もいた。

 時間も遅く、疲労困憊で今日のところはもう動くことは出来ず、休息にあてることとなった。

 

 しかし危機は脱したものの、あまり悠長に動くことは出来ない。

 多くの戦力の投入で結界の後退速度は緩やかになっているが、物量が足りずこの基地も数夜中には魔物の領域に飲み込まれることが予測されている。


 加えて学生が遭遇した魔物の群れも小規模ながら各地で出現していると報告が上がっていた。

 別々の場所で、同時多発的に出現した魔物は軍勢規模ではないものの、対処は相応の戦力でなければ難しく、犠牲者はむしろ魔物の領域側より多かった。

 現在各地の国軍が出撃し、出現した魔物は全て討伐に成功しているが、原因が不明であるため厳重な警戒が続いている。

 出現地は最近結界が拡大された範囲の人の領域であるため、何らかの理由で魔物が隠れ潜んでいたのではと見解がなされたが、本能のまま動く魔物がそんな不可思議な動きをするのは常識では在り得ない。

 ただ現状魔物が結界に攻撃を加えるなど非常識な動きを見せているため、否定も出来なかった。

 領域開拓軍は明確な答えの出ぬまま、現状の対処にばかりに注力することを余儀なくされていた。




 ゼドルカードの基地の奥にある医療施設のベッドでナディアは眠りについていた。

 静かな眠りの中で、体が心地の良い温かさに包まれている。

 痛みと苦しさに苛まれていた体は、今は何も感じない。まるで体がなくなってしまったかのようにも思える。

 どこまでも空っぽな感覚の中で深く眠り、やがて瞼に感じる明るさに目を覚ます。

 すでに朝日は昇っており、時間は鈴の月27夜の昼を迎えていた。

 

 

 体を起こしてみると、全身がだるく痺れのような感覚がある。

 体には薄緑色の薄いガウンを羽織っただけだった。

 露出した手足は包帯に包まれ、強いハッカの匂いがしていた。

 体の至る所にガーゼや包帯が巻かれているが、不思議と痛みはない。


 喉が渇いていたため、ベッドの横に置かれた棚の上にある水差しから飲み水を拝借する。

 冷たくも温くもないが、今のナディアには刺激が少なく丁度いい温度だった。

 

 ナディアはベッドから降りて立ち上がってみた。少し視界が揺れるような気持ち悪さはあるが、歩けないようなこともなかった。

 備え付けの鏡で顔を確認したが、頭に包帯が巻かれているだけで怪我らしい怪我もない。

 肌艶はいつもより悪く感じるが、顔色は健康なものだった。

 

 ナディアが鏡で顔を眺めていた時、扉がノックされる。

 慌てて鏡から身を引き、ベッドに腰掛け返事を返す。

「もう起きて大丈夫なのね」

 病室に入ってきたのは白衣を着た妙齢の女性で、基地の医療関係者のようだ。

「はい、何とか」

「ふむ。では起き抜けで悪いのだけれど、いくつか問診させてもらうわね」

 ナディアはそれに頷き、女性から問診を受ける。

 女性が言うには傷は殆ど塞がっているが、まだ完治したわけではないらしい。

 薬と身体に塗られた薬液で楽にはなっているが、即席で繋ぎ合わせたような状態で、動き回れば塞がった傷も開くと言われ、2日は体を動かしてはいけないと注意を受ける。

 外傷が酷く、失血で意識は混濁、ショック死していてもおかしくない状態だったと教えられた。

 ナディアを治療したのは法術師であり、治癒系の術式が扱える稀有な人間だった。

 結界の外と内とで殆どの法術師が出払っていたため、運が良かったとしか言いようがない。


「あの、法術師様にお礼を言うことは可能でしょうか?」

 ナディアはそう口にするが、女性は言い辛そうに眉をよせながら答える。

「うーん、あの方に面会はできないわね。私から言葉は伝えておくから、それで我慢してくれないかしら?」

「そうですか……分かりました」

 

 ナディアはそう言い終わると同時に盛大にお腹を鳴らした。

 どうやら内臓の方は快調そのもののようだ。

 女性は恥ずかしさのあまり真っ赤に茹で上がったナディアに「食事を持ってこさせるわね」と声を掛け微笑みながら退室した。

 ナディアはそれを見送り、隠れるようにブランケットを被り、再びベッドに潜りこんだ。

 

 


 開拓村ゼドルカードは魔物に対して反抗戦を繰り広げながら、撤退の準備を進めていた。

 短期間で大陸を横断するようにかかった結界に取りついた魔物をすべて除去するなど不可能だった。

 魔物の領域では、更に深部から強力な個体が溢れ出し、確認されただけでも魔物の数は数万の軍勢に膨れ上がり、なおも増大していた。

 国軍や師団もその規模の軍勢に対してその一部を釣りながら削るということしかできなかった。

 しかし人間もただ手をこまねいているわけではない。

 第13師団遊撃隊の法術師を中心とした五つの小隊は、いくつもの魔物の軍勢を潰していき、その戦力を確実に削っていた。

 更に人の領域にいる殲滅能力に長けた軍属でない法術師も召集されており、まだ人類は魔物たちに対して厄介とは思っていても、脅威とは捉えていなかった。

 『切り札』を切ることなく、現状の体制で十分に対処可能であり、損耗した軍の補ていに頭を悩ませる、それ程の余裕があった。

 

 そして生まれた楽観は、即座に否定されることとなる。


 魔物の領域から現れた使者によって。


 人の姿をした、怪物によって。

 


 

「今度こそ、守るから………」



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