(7)心二つ
時間が何千倍にも延ばされたかのように僅かずつ動く灰色の景色。
この光景は、今まさに魔物たちがナディアに襲い掛かる瞬間だった。
その中でナディアは明確に意識を持ち、自分の瞳越しに世界を眺め、思考できていた。
ナディアは灰色の景色の中に、唯一色鮮やかなものを見つけた。
幼い、白い夜着に身を包んだ黄金色の髪を持つ少女の後姿。
少女は街道の先、魔物の領域側に視線を向けていた。
「近付き過ぎたから、目が覚めちゃったのかな。『私』を引き込もうとしても無駄なのに……」
(あの姿は……)
少女はこちら気付いたかのように振り返り、笑いかけながら視線を寄越す。
その瞳は黒目が一切ない純粋な紅色をしていた。
なまじ見かけが人と同じであるため、瞳の異常さが際立って見える。
そして、その人物が、9歳の時の自分と全く同じ顔をしているのだからなおさらだ。
少女の外見は自分がバルバセクの造船所にいたときとまったく同じだった。
服装も、髪の長さも、背の高さも。
何より、不気味なほど赤い光の灯った紅の瞳が。
「久しぶりだね、『わたし』」
(……私は、あなたなんか知らないわ)
口から言葉を出すことは出来ない。ナディアも灰色の風景に同化していて、口を開くことが出来なかった。
この中で自由に動けるのは小さな少女だけだった。
少女はナディアの返事が聞こえたかのように、唇を尖らせて眉を八の字にした。
「つれないなあ、分かっているくせに」
喋り方まで昔の自分を彷彿とさせる。礼儀正しいとは言い難い、無邪気な様だった。
少女はナディアの周囲をゆっくりと円を描くように歩き回る。
地面に伏せるナディアの視界から少女の姿が現われては消える。
「このままだと死んじゃうね。どんな気持ちかな?『わたし』」
「悔しいのかな?悲しいのかな?怒っているのかな?喜んでいるのかな?楽しんでいるのかな?どうなのかな?」
(私は……死にたく、ない)
「そうだね。死にたくないね。私も嫌」
「私は殺したいの。人間をたくさん殺したい。全部殺したい。惨たらしく殺したい。引き裂いて殺したい。苦しめて殺したい。叫びを聞きながら殺したい。ころしたい、ころしたい、ころしたい、ころしたい」
無垢な子どもらしい笑みのまま腕を広げ、クルクルと回るように踊る。
(なんで私の前に、そもそもあなたは何なの……)
「私は『私』。でも、もうあなたになったもの。あなたの呪い。解けちゃった呪い」
(いったい何を……言って)
「偉そうに言っているけど、実は私も私が何だったのか忘れちゃったんだ。呪いが解けて、あなたと一つになったときから」
灰色の世界で歌うように少女が紡ぐ。
無垢で残酷な言葉の数々。
(何が何だか、分からないわ)
「分からなくてもいいよ。あなたは分かっているから。分かっているのに目を背けているだけだもの」
少女は歩くのを止め、ナディアの間に屈んで右手を出す。
「あなたの中の『私』を解放して!そうしたら命は助かるわ。『私』、あなたよりずっと力をうまく扱えるから」
(誰があなたなんかに……)
もし少女がナディアの想像するような存在であったなら、決して表に出してはいけない。
魔物を退けられたとしても、己がそれ以上の災厄となってしまう。
「悩む必要なんてないじゃない?どちらにしても、あなたじゃ死んじゃうよ。魔物に噛みつかれてバラバラ、グチャグチャになっておしまいだよ」
(………)
煮え切らないナディアの態度に少女はため息を吐く。
「頑固な『わたし』。特別にいいことを教えてあげる。私の一番はあの子だけだから、あの子と嫌がることはしない。信じてくれる?」
(さっきは人を殺すって言っていたじゃない)
「殺さないよ。殺したいだけ」
「あの子のためなら我慢できるよ!私の大切なあの子!愛しいあの子!人殺しより素敵で、もっと尊いあの子!私のすべてはあの子のためにあるの!」
少女はねっとりとした暗い執着の宿る瞳でナディアの目を覗き込む。
ナディアの中で恐怖心がせり上がるが、身動きが取れないため、震えることも目を逸らすことも出来ない。
紅の瞳は妖しい光を放ち、目の中にドロドロに煮詰められたヘドロを流し込まれるような怖気が走る。
「だからこんなところで『わたし』に死なれちゃ困るの。だから助けてあげる。だから人も殺さない。約束!」
少女は右手の小指を立ててナディアに向ける。
灰色の空間は先ほどより時間が進み、魔物はさらにナディアとガストールに近付いていた。もう猶予はない。
(……分かった)
「やっと決心できたのね!」
(あなたを信じたわけじゃない。あなたの想うものを信じる)
そう口にしたナディアに少女は嬉しそうな笑みをこぼす。
「うん!」
ガストールは死を覚悟した。だがただでは終わらない。
マナを循環させ、力を脈動させながら立ち上がる。
右手を握りしめ、獣の吠えるように叫び、迫りくる魔物に向かっていった。
しかし決死を抱いたその動きは、背後に感じた気配によって止められる。
ガストールばかりではない。魔物たちすらガストールに目を向けておらず、気配の主を注視していた。
黒煙と血肉の雨を降らせ、異常ともいえるマナを発露させた人間の姿に。




