(6)背面の脅威
※第3章はこの話以降残酷な表現が続きます。ご注意を。
移動に次ぐ移動でナディアたちの疲労も大きいが、学生たちも訓練を切り上げての突然の事態にすっかり参っていた。
馬車は一路、鉄道網の敷かれた開拓村パンタロに移動を開始しているが、まだ道のりの4分の1も来ていない。
このままのペースならば到着は日没直前となるだろう。
長閑な街道を進みながら、段々と基地から遠ざかっていくほど、緊張感が学生たちから抜けていっていた。
暇を飽かして談笑している学生も多い。
「あんまり緊張感が無いのもどうかと思うが、やっぱり結界内は平和そのものだよな」
「そうね。他の学生のみんなも無事みたいだし、不幸中の幸いね」
そう口にしたカルフィールだったが表情は暗い。少なくない数の軍人が亡くなっているのだ、不幸であることには変わりない。
カルフィールは今も顔色の悪いナディアに肩を貸し、その顔を覗き見る。
目を硬く瞑ってはいるが、汗の粒が白い肌に浮き上がり、苦しそうにしていた。
「風邪じゃないみたいだが、大丈夫なのか?」
「はい、体調は問題ないです、ただ、気分が優れないだけですから……」
ナディアはこうやって否定し続けているが、どう見ても気分だけの問題とは思えない。
ナディア自身理解しているが、本当に体調が悪いわけではない。
ただ胸の内から奇妙な衝動が溢れきている。暴力などではなく、焦燥や悲しみ、怒りとでもいうのだろうか。
ただそのどれもが自分の感情とは無縁に思える。どこかの誰かから発生した感情の波が反響しているような奇妙な感覚だった。
時間が経つにつれて、それは大きくなっていた。
やがって、ナディアの聴覚は妙な異音を捉えた。
遠くで、自然の中で聞こえるにしては不自然な金属がぶつかるような音。重いものが落ちたような低い音も聞こえる。
「カルフィールさん、今遠くで金属音がしませんでした?」
「え、分からなかったけど……ちょっと待っててね」
カルフィールは馬車の窓から顔を出して耳を澄ませる。異能を五感に集中し、広範囲に感覚を伸ばした。
葉が風に揺れる音、生物の立てる小さな音、水の流れ、それに紛れるように金属がこすれる音や、ぶつかるような音が交じっている。
「確かに聞こえるわ。人がいるのかしら?」
コルキアスやライノも感覚を伸ばしながら、違和感を探る。
「あん?何かあちこちから音が聞こえるぞ」
「街道は基地に向かうこの一本しかない筈だが……」
金属音をかき消すように地面を叩くような雨のように激しい音が耳に届く。
視界にも遅れて土煙が僅かに見えていた。
「おい…おいおいおいおい!冗談じゃねえぞ!」
演習を体験した4人は即座にその音の正体に思い至る。
強い敵意を漏らしながら、まっすぐと移動してくる存在。
間違いなく魔物の気配だった。
ようやく他の学生たちも遠くから聞こえてくる音に気付き出していた。
「全員、絶対馬車から降りるな!」
引率の教官たちは焦ったように指示を飛ばし、自らは外に飛び出して、荷馬車に積んだ対害獣用の武器に手にする。黒鉄ではない、ただの金属製の武器だ。
「黙ってみてられねえ、行くぞ」
コルキアスが即座に提案し、3人もすぐさま頷く。規模からいって教官だけで捌けるとは思えない。
「ナディア、お前は残って……」
そう言葉を掛ける前にナディアは一番に馬車から飛び出していた。気分が悪いなど嘘のような体捌きだ。
「あ、待て!」
「大丈夫です、行けますから!」
ナディアは3人に振り返るが、本当に体調が回復したかのように血色が良くなっていた。
3人は驚きながら、ナディアに遅れて馬車から出る。
4人は荷馬車に近付き、教官たちと合流する。この場にいるのは教官たち8名のみだ。
「教官!俺たちにも武器を」
「お前たち、中で……、いや、魔物の領域で戦闘経験があるのだったな。すまない、緊急事態だ、荷馬車の中から好きな武具を身に付けろ。あまり数が無いが……」
教官は即座に2人1組となり、4組のグループを作る。側面の迎撃に2組を割り当て、残りの2組とナディアたちを馬車の護衛にあたらせた。
魔物はバラバラに出現しており、このままでは馬車を守りながら戦わなければいけなくなる。
馬車から2組を離せば、魔物はより近いターゲットに攻撃対象を移す。本来なら四方に4組の人間を放ちたいが学生だけに馬車の守りをさせるわけにはいかない。
カルフィールはメイス、コルキアスとライノは槍を見つけたが、ナディアの使えるような剣はなかった。
槍が一本しか残っていない。教官たちが持つ武器にも剣はなかった。
長物は扱いなれていないため、拙い技術では異能の力で数合と持たず壊してしまうだろう。
ナディアは武器を諦め、徒手空拳での戦いを余儀なくされた。
「ナディア、お前は馬車の中にいろ!本調子じゃない上に武器もないんじゃ戦えないだろう」
ライノがそう声を掛けるがナディアは首を横に振る。
「攪乱くらいなら出来ます。それに昨日くらいの魔物なら素手でも倒す自信があります」
ナディアはそう言いながら異能を引き上げる。
先ほどまでの気分の悪さが嘘のように消え、強い力の脈動が体を駆け巡る。
力の充足は普段と比べようもないほどだ。
封印の割合が変わったわけではない。操れる力の大きさが変わったわけではない。
ナディアは異能を引き出しても始めから全開には至らない。長時間の鍛錬でもない限り、全力の力を使ったことはない。
力を引き出し続けて徐々に開放されていくのが常だったが、今は自分の扱える異能のすべてが解放されている。
瞳の赤色はより鮮やかになり、黄金色の髪に朱金の色合いを帯びる。僅かながら体から赤いオーラが立ち昇っていた。
右手の異能封じが熱を持っているのが分かる。
左手に立ち昇る赤いマナを集中させ、より濃い赤色が宿っていた。
「すげぇ……」
コルキアスは状況を僅かの間忘れるように見入ってしまうが、魔物の足音で意識を前方に戻した。
やはり教官も引きつけきれなかったらしく、何体か抜けてくる。
ナディアたちはギルに習った陣形をくみ、迎撃態勢をとる。
現れた魔物は5体、狼型の集まりだった。
教官の内、近場にいた2人が瞬時にそのうちの2体を屠る。接近に気付いた反対側の2人も動こうとしたが、それより早くナディアたちが反応した。
カルフィールは大口を開けて襲い掛かる魔物に対して、その口内にメイスを打ち込む。
魔物の牙はバラバラに砕け、大きく開いた口がさらに裂ける。
ライノもまたカルフィールと同じように襲いくる魔物の口内を狙って槍を突き出し、串刺しにした。
ナディアは魔物の顎を爪先で蹴り上げ、開いた口を強制的に噛み合わせさせる。
蹴りの勢いに魔物の体は回転しながら宙を舞い、地面へと転がる。
口内を思いっきり噛んだことで魔物の口から血が滴るが、それに怯みもしない。
再び足に力を溜め、首に食らい付こうと飛び上がる準備をする。
「ぜいっ!」
ナディアに気を取られ隙だらけの魔物の首筋にコルキアスは槍を突き立てる。
鈍い音をたてながら綺麗に首の骨を断ち、延髄に深々と矛先が埋まる。
魔物の目から炯炯とした光は失われ、力なく大地に横たわった。
「まだまだ来るぞ!」
狼型より小さな、それでも野生の狼と同じほどの体躯を持つ四足の魔物が次々と躍り出てくる。首が殆どなく皺くちゃなサルのような顔をしている。
狼型より格下と思われる魔物に、ナディアは蹴りや掌底で相手を怯ませ、左手の集中された異能の拳で魔物の頭蓋や心臓部を破壊するが、徐々に体に傷が増え出す。
直接的な攻撃は受けていないが、素手で攻撃している分、魔物の骨や牙にあたって傷が入る。
力は集中させた左手は頑丈だが、それでも無傷ではない。
「また抜けたぞ、くそ!まだまだ気配が……な、何だ、これは」
教官の言葉がふいに止まり、戦いに集中していた全員が違和感を覚える。そして即座に違和感の正体が分かってしまった。
周囲に木霊す濃密な敵意の発露。不気味な獣の鳴き声。
魔物の数が減らない、ではない。
明らかに魔物の気配が増大していた。魔物の領域でない、人の領域であるこの場所で。
人間の都合など関係なく、動きの鈍った獲物を魔物は逃しはしない。
魔物の死骸から立ち昇る黒煙の中、ナディアは新たに飛び出した巨大な影に吹き飛ばされる。
反射的に掲げた左腕に鋭い衝撃が走る。
土の上を滑りながら、背中を木の根で強かに打ち付け、肺から空気が漏れ出す。
左腕は服が裂け、鮮血が滲んでいた。
ナディアを吹き飛ばした魔物は更に追撃を加えようと突進してくる。尋常ではないスピードで地面を砕きながら、さらなる推進力を得る。
全身岩のような硬い鎧に覆われた猪型の生物。狼型と比べものにならない充足した力の胎動は、明らかにこの魔物が乙種であることの証明だった。
大きさは足の先から頭頂部まで含めればナディアの身長の倍はある。あんなもの突進をもらえば異能者だろうと体をバラバラに砕かれる。
ナディアは咄嗟に地面を右手で殴りつけ、土煙を起しながら木の根からと飛び去る。
暴風が体を打ち付けたと同時に、ボンッと爆発音を上げ、背中に在った木の幹が消失する。
鎧の魔物はその勢いのままに木を二、三本引き倒し、地面を抉りながら速度を殺す。
魔物はすぐさまこちらに駈け出してこようと身構える。
ナディアも回避行動をとろうとするが、背後にあるものを思い出し、体が固まった。
彼女と魔物を結ぶ直線の先には馬車の一団が存在していた。
鎧の魔物は猪突猛進に向かってくる。今から躱そうとしても進行方向をずらせない。
あの突進を受ければ馬車はあっけなく破壊されるだろう。中の学生が無事な保証はない。
ナディアの決断は早かった。
魔物が踏み込むよりも数瞬早く前に踏み出す。
ナディアから距離を詰め、魔物に向かっていった。
魔物は突進を開始し、凄まじい圧力がナディアを襲う。
彼女は地面に足を打ち込むように溜めをつくり、異能の力を右手へと集めた。
右腕に赤く怪しい光が灯り、急激に集中する力に腕が軋みを上げ、血管がいくつも千切れる。
空気を震わせるほどの異能の力を放つその煌々とした光に、魔物はまるで怯まず突進する。
魔物に生物としての本能があったなら、避けることも出来たかもしれないが、魔物にそんなものはない。
それ故に一体と一人はぶつかり合った。
赤い流星のような掌底が魔物の鼻頭に触れた瞬間、空気が爆発を起し、赤い衝撃波が駆け巡る。
衝撃の余波に地面に亀裂が入り、力が衝突した点を中心に草木が弾け飛ぶ。
ナディアと魔物の体は衝撃に泳ぐように浮き上がった。体重が軽い分ナディアの方が余計に大きく下がる。
全く同規模のエネルギーがぶつかり合い、力の触れ合った境界で相殺が起こったのだ。
ナディアは試験時にリアスが見せた、マナを肉体に纏うような力の行使をぶっつけ本番で行ったのだ。
結果は最上と言えるが、あまりの衝撃で右手が痺れ動かせない。
魔物は生物の弱点である頭部に衝撃を受けたため、より顕著に影響が出てもいいはずだが、僅かに怯みを見せただけだった。
しかしそれでもナディアにとっては十分な隙だった。
左手で手刀を形作り、マナを練り上げる。
地面に着地し、即座に踏み込み魔物の鎧の隙間を狙い打つ。
赤の光を放つ指先は魔物の首に埋まり、筋肉を割り裂いて突き進む。
衝撃から復活した魔物は首を大きく振り回す。
ナディアは血塗れの手を引き抜き、バックステップで後退する。
「ぐっ、浅い!」
魔物は首の傷などまるで意に介していない。血を滝のように噴出させながら、殺意のこもった眼をナディアに向けている。
後ろ脚の筋肉が大きく肥大し、先ほど以上の力の胎動を感じる。
魔物に手加減という思考はない。ならば戦いの中で進化しているとでもいうのだろうか。
ナディアは再び力を収束させようと試みるが、両腕は既に怪我と痺れでマナのコントロールに支障をきたしている。
それでもまだ動く左腕に無理に力を集める。傷からさらに血が滲み、服を汚す。
しかし無理を押しての力の行使は容易ではなく、先ほどより弱々しいマナの光が灯らせるだけだった。
集中した中で、不意にナディアの視覚に何かがよぎった。
一人と一体が再びぶつかり合う刹那の空白を縫うように、人影が出現する。
「風月」
認識外からの一撃が、ナディアによって傷つけられた魔物の首筋に入る。
鋼鉄製の槍が、魔物の首に突き刺さり、柄まで埋まっている。
斜めに突き立てられた刃は延髄を断ち切り、魔物の目から光を奪い去る。巨大な重量が地面に沈み、地響きを立てた。
「……無事か?」
魔物に止めを刺した人影、ガストールは槍を引き抜き、鮮血を払う。
ナディアの様子から怪我を負ってはいるが、見たところ大事はないようだ。
「うん、何とか……助けてくれて、ありがとう」
「今、礼を言うな。戦いの最中にそんなことを言い合ってたら切りがねえ」
ガストールはもう馬車に戻るように言いたかったが口をつぐんだ。
絶対聞き入れるとも思えないし、目の前で闘争心を滾らせる好敵手に、その言葉はいらぬお世話に思えた。
心情的にも、戦力的にも。
「次来るぞ!」
「はい!」
ガストールとナディアは構えをとり、共に駆ける。
現れたのは二足歩行の巨大な体躯を持った黒く毛むくじゃらの魔物。肌色の仮面のようにのっぺりとした顔だけが皮膚を露出している。
地上の生物には見えず、独自に進化した乙種の魔物であると推測できる。
ナディアは魔物の目の前まで真っ直ぐに近付き、間合いに入る。
魔物は力任せに腕をはらってきた。
ナディアの胴回りの数倍はあろうかという魔物の腕を即座に屈んで交わしながら、足を蹴り払う。
彼女の力の籠った蹴りは魔物の足を刈り取り、魔物は後ろに倒れ込んだ。
ナディアは挑発でもするかのように、倒れた魔物の足を踏みつけた。ゴムでも踏んだかのような弾力が足裏に返ってくる。
筋肉は弾力にとんでおり、芯は固い。生半可な力では折ることは叶わないだろう。
魔物は起き上り、ナディアを捕まえようと両腕を突き出すが、ナディアの姿は霞のように消える。
隙を晒した魔物にガストールは正面から渾身の力で槍を突き入れた。
額をかち割り、刃か埋まる。頭蓋を破壊した感触はあるが、後頭部まで刃は貫通しなかった。刃に弾力のある何かが絡みついてそれ以上先に進まない。
恐らくこの魔物は毛皮と筋肉が強靭だったのだろうが、弱点である顔面を堂々と晒していれば世話はない。
しかしナディアが隙を作ってくれなければ、勝てたかどうかも分からない難敵ではあった。
後続の甲種の狼型数体も二人は難なく撃退していく。
彼女の回し蹴りが石榴を割るように魔物の頭を引き裂き、ガストールの槍は的確に延髄を突き砕く。
お互いの実力や癖を知る二人であるが故に、初戦とは思えないほど見事な連携を行えていた。
学生たちの活躍もあって、何とか犠牲者を出さずに現状を維持しているが、限界は無慈悲に訪れる。
カルフィールの持つメイスの柄が割れ、柄頭が殴りつけた魔物と共に吹き飛んでいく。
コルキアスの矛先はとっくに用をなさず、最早棍棒として扱っている。
槍の扱いに長けたライノとガストール、教官たちはまだましだが、刃こぼれが酷くいつ折れてもおかしくはない。
甲種だけならまだしも、硬い乙種を相手に鋼鉄の武器では分が悪すぎた。
体術のみで魔物と渡り合うナディアにしても、体が傷つき出血が増えていく。肉体の限界は遠からず訪れるだろう。
「カルフィール!お前は下がれ、徒手空拳でやり合うな!」
「大丈夫です、やれます!」
「格闘技術のないお前では危うい!ホローし切れんから大人しく下がれ!」
無手で魔物に向かおうとしたカルフィールを教官が止める。
ナディアはこの演習中に相当な経験を積んだのかさらに実力を伸ばし、今この戦闘でも第13師団遊撃隊の隊員クラスの動きを見せている。
同じことが他の学生に出来るとは到底思えない。教官ですら武器なしで乙種と戦闘など自殺行為だ。
「でも!」
「いいから言うことを聞け!」
教官は相手取っていた乙種の腕を切り落とす。
ここにいる教官も練度はそれなりに在り、複数でなら無理なく乙種を打倒できる。ただ武器がやはりネックだった。
今の一撃で教官の持つ斧の柄があらぬ方向に曲がり、使い物にならなくなる。
二足歩行の魔物は残った腕で教官の体を掴み上げた。
「しまっ!」
言葉は最後まで音にならず、空気が絞り出されるような気の抜けた音と骨と肉を磨り潰す不快な音がカルフィールの耳に入ってくる。
カルフィールは即座に曲がった斧の柄を異能の力でねじ切り、片手持ちほどの長さになった柄を握り込んで魔物の腕めがけて振るった。
渾身の力を込めたにもかかわらず、教官のように切り落とすことが出来ずに僅かに魔物の剛毛に刃が沈み込んだだけだった。
魔物は腕を大きく振りかぶり、風を巻き起こす勢いでカルフィールに教官を投げつけた。
斧を手放し教官を受け止めたカルフィールは、折り重なるように体勢を崩し、地面を転がる。
体を起そうとしたカルフィールの顔に影が差す。
魔物は二人纏めて潰そうと駆け寄り、片足を大きく持ち上げていた。
「はあっ!」
掛け声と共にカルフィールを潰さんとしていた魔物の顔面にナディアの踵が突き刺さる。
魔物は足を上げた態勢で後ろに反り返った。
反動を利用しながら空中で体勢を変え、追撃を加える。
前蹴りを放ち、体を回転させ横蹴りを叩き込む。
後ろ倒れ行く魔物の顔を踏み放ち、破壊する。やはり毛や筋肉のない顔面ならば攻撃が通る。
魔物の顔面は骨格を破壊され、目も鼻もどの位置にあったのか定かではない。魔物の巨体は平衡感覚を無くしたようにがむしゃらに腕を振り回しながら倒れた。
踏み放った勢いで高く舞ったナディアは踵を覆うように力を結集させ、体を独楽のように回転させる。
赤い光の輪を空に描きながら魔物の顔面に強力な踵落としが入いる。
重力も合わさり、地面と蹴りの力で魔物の頭部は磨り潰された。
地面は陥没し、魔物の頭部は原形を留めず土に埋まる。
「カルフィールさん、教官を馬車の中にお願いします!」
ナディアは次の魔物に対応するため、別の馬車の側面に回り込む。
カルフィールはその背を見送ることしかできなかった。
カルフィールと教官1名が離脱したことで更に戦線の維持が難しくなる。
魔物の気配は増え続け、誰もが命の危機を感じていた。
今集まってきている魔物を全滅させるのは不可能だ。
異変に気付いて援軍が駆け付けるまで持たせることだけを考えていたが、周囲から迫る魔物は感知できているだけで数十を超える。
全てが甲種ならギリギリ持つかもしれないが、乙種が数体でも増えれば全滅するだろう。
もはや精神も、肉体も、武器も限界だった。
コルキアスが狼型の魔物に腕に噛みつかれ、頭を強く地面に打ち付ける。
ライノが横から心臓に槍を突き入れるが、矛先が折れ、魔物の体に埋まる。
ライノは槍を投げ捨て、呻き声を上げるコルキアスを抱え馬車へと引き返す。
ナディアは二人の穴をカバーしようとガストールと奮戦するが、動きのキレは格段に落ちていた。
獅子奮迅の活躍を見せた彼女にも限界が来ていた。
強いストレスの中、全力以上の集中力を常に振り絞り続けた代償が、動きの繊細さを奪っていた。
馬車を狙って突進して来た鎧の魔物を止めようとナディアは前に出る。
一度目の対峙と同様に押し返そうと拳に力を結集させたが、異能は収束し切れず、甘い一撃となってしまう。
相殺しきれず、押し出されるように弾かれナディアはたたらを踏む。
魔物は進路を逸らされたが馬車の後輪を破壊し、壊された馬車の後部からから二人の学生が投げ出される。
鎧の魔物は雄叫びをあげ、獲物をナディアから学生たちへと変更させた。
咄嗟の事態と魔物の殺気で学生たちは固まる。それは命の分水域と言っても良かった。
巨大な体躯に似合わない砲弾のような突進が学生たちに向かった。固まった体で躱せる速度ではない。
学生たちと鎧の魔物がぶつかる寸で、ナディアは学生たちの襟首を掴み、彼らを巻き込みながら地面を転がった。
後先考えず脚力を強化し割って入ったのだ。転がる勢いが止まり、立ち上がろうとしたが出鱈目な強化に足が攣ったように痛む。
「早く離れて!」
動きの止まった学生を叱咤し、ナディアも痛みを押して立ち上がるが、足に力が入らない。
集中力を乱したナディアの前には既に鎧の魔物が目の前に迫っていた。今度は突進でなく、己の武器である鋸のような牙を見せつけ、襲い掛かる。
ナディアは上半身だけで牙を紙一重で躱そうとしたが、躱しきれず左肩に深い裂傷を受けてしまう。
血が勢いよく噴出するのを右手で押さえる。強引な圧迫で血を止めるが、両手が塞がってしまっている。
いや、塞がる依然にナディアの体は戦う力の殆どを今の出血と共に失っていた。
異能で誤魔化していたダメージが許容限界を超えてしまっていた。
目の前が暗くなり、息が苦しく足元から崩れ落ちる。
魔物はその隙を逃すはずがなく、咆哮と共にナディアを噛み砕かんと大口を開ける。
「ナディア!」
反対側で馬車を守っていたガストールが駆けつけ、ボロボロになった槍を振りかざし、魔物の喉めがけて攻撃するが、魔物は牙でそれを受け止め、噛み砕いた。
ガストールは槍を手放し、ナディアの体を抱えて魔物から逃れようとしたが、一歩遅く、ガストールもナディアと共にまともに体当たりを受ける。
肉を打つ鈍い音と共に二人は宙を舞い、受け身も取れず地面に叩きつけられた。
二人は、地面に投げ出されたまま、立ち上がる様子が無い。
ガストールが庇ったためナディアは衝撃を受けるだけだったが、もはや立ち上がる力が残っていなかった。
ガストールは鎧の魔物の体当たりによって左腕から肋骨にかけて骨を根こそぎ砕かれていた。
血痰を吐き散らし、体は痙攣を起こしたように震えていたが、目を怒らせ魔物を睨み据える。
魔物を引きつけようと、立ち上がろうともがく。ナディアより魔物に近い場所へと。
停滞した二人に更に魔物が群がる。
新たに狼型の群れが林をかき分けるように現われ、2体の二足歩行の魔物が木々を押しのけ巨体を晒す。
さらに別方向からナディアたちが相手取った鎧の魔物がもう一匹近付いてきていた。
教官たちは馬車を襲う魔物を相手取り、余裕など在りはしない。
倒れたナディアたちに叫びを上げるが、その声に二人は答えられない。
もう魔物と戦える学生はこの場にいない。
魔物に獲物の前での舌なめずりなど存在しない。
一斉にガストールとナディアに殺意の咢を向けて襲い掛かってきた。




