(2)残酷な世界3
僕が目覚めたとき、日は高くなっていた。
僕は取りあえず体を起こす。
辺りを見渡し驚愕する。目がしっかり見える。部屋の中に何があるのかちゃんと分かる。
耳が聞こえる。小さな音も、大きな音も聞き取ることが出来る。
そんな感動に浸っていると、僕のベッドの脇に座っていた女性が、悲鳴を上げながら全速力で部屋を飛び出した。
見えることに感動していて人がいることに全く気が付かなかった。
不意打ちで叫ばれたことで、飛び上がりそうになる。え、僕が何かした訳じゃないないよね?
起きてすぐに心臓が飛び上がるくらい驚いて、胸が痛い。
とにかくベッドから降りようと思っていると、どどどどと、地鳴りが響いてきた。
感覚が急に戻ったせいで敏感になっているのに、次から次へと何かが起こる。
いままで忘れていた感覚が戻ったことで、いちいちビクついてしまう。なんだか早々に感動が遠ざかって行く気がする……。
頭を整理したいが、取りあえず現状の確認をした方がよさそうだ。誰が来るんだろう。
地響きが僕の部屋の前で止まり、扉が勢いよく開けられる。
そこで見たのは人の波だった、先頭にはどえらい男前の青年?がいた。こちらに早足出来て、がばっと抱きついてくる。
僕はドギマギした。抱きつかれたことなど前世で全くなかったからだ。この場所に生まれてからのことはカウントしない。今なら思い返す記憶はあるが、当時は感覚なんてろくになかったし。
されるがまましているが、他人に抱きつかれ続けるのは気持ち悪い。誰だ、この人?まあ、お父さまなのだろうが、僕にその認識はない。あっても父親と抱き合うというのは、僕の感覚では有り得ない。
そして後ろからお母さまがこちらにやってきて、抱きしめてきた。この人も美人だけど、やっぱり落ち着かない、お父さまと同じくらい気分が悪い。
二人とも体が震えていた。そして思い至る。僕はかなり危険な状態あったこと。
もしかしたらこの二人は、僕の死を覚悟したかもしれない。子ども高熱だ。後遺症が残ったかもしれない。このまま目覚めないかも知れない。
数々の「もし」を考え心配をしただろう。僕はこの二人のことを殆ど知らなくても、二人は僕が生まれてからずっと見守ってくれていた存在なのだ。他人じゃない……他人じゃいられないけど……。
暗い思考に沈みかけたらグーとお腹が鳴った。え、僕じゃないぞ。誰だよ、こんな感動的な場面で腹を鳴らす、空気の読めない輩は。
僕だけどね。すいません。お腹すきました。
お母さまもお父さまも、涙目で僕をジッと見つめたと思うと、吹き出すように笑い出した。僕は無性に恥ずかしい思いをした。
二人だけでなく後ろで感動していたギャラリーも、僕のお腹の音で夢から覚めたように動き出した。僕の食事の準備に。ありがたいけど、そんな微笑ましそうな顔で僕を見ないで欲しいのですが。
食事の準備はお手伝いさん達に任せて、お父さまとお母さまは僕に話しかけてきた。全然分からないけど適当に返事をしたら、狂喜乱舞してお父さまが喜びだし、お母さまは何かに祈るポーズをしている。
予想よりずっと楽しげな家族みたいだ。僕は意識せず顔に笑顔を浮かべていた。この家に生まれてまともに笑ったのは初めてだ。
お父さまとお母さまはそれを見て、目をいっぱい見開いて僕を見つめた。それから二人は泣き笑いみたいな顔になった。お父さまは目を潤ませるくらいだったけど、お母さまは、笑いながら号泣して大変だった。
食事の準備はすぐにできた。白い服を着た給仕さんと思われる人が皿や食べ物を準備してくれている。
うーん、さっきも見たけど、この家には人がたくさんいる。もしかしていいとこの坊ちゃんじゃないだろうか、僕は。
後で分かりそうだし、今はごはんだ、ごはん。
お皿に盛られているのは、液状の何かだ。スプーンで食べるみたいだ。離乳食と病院食をかけ合わせたものをペーストにしました、と説明されそうなごはんだ。
見かけはあんまり良くないが匂いはすごくいい。早速食べようしたがスプーンがない。
え、手で食べろと言うのですかお母さま。僕はお母さまの方を振り返るとスプーンを持っていた。なぜ、あなたが持ってるんだ?
僕はお母さまに手を出してちょうだいのジェスチャーをする。お母さまは困惑しながらスプーンを渡してくれる。
僕はそれを受け取り、ちびちびとすくって食べ出す。水分が多くしてあって温度も少し暖かいくらい。少しの量を焦らず良く噛んで飲み込む。噛むほどでもないが念のために。
やっぱり味が薄く水みたいにさらさらだけど、食欲を刺激する匂いがするため、苦もなく食べられる。
何度目になるだろうお父さまとお母さまの驚いている気配と声。
それを聞いて、お母さまは僕に手ずから食べさせようとしていたんだなと、思い至る。食事の際いつも誰かに食べさせて貰っていた記憶を、今頃思い出した。
急に自分で食べられるようになったのは、さぞ奇異に映るかもしれないが、ほどほどに子どもができることはできると見せておかないと、色々な人に余計な負担を掛けてしまうことになる。
今までさんざん世話になったのだ。これからは子どもを逸脱しない範囲で出来ることをしよう。
ゆっくりごはんという液体を食べていると、廊下からトトトトと音が聞こえてきた。体重の軽そうな人間の駆け足の音。この家の子どもと言えば、今思い出せる範囲では、僕と……。
「ユキト!!」
姉だけだ。
姉はお父さま並みに豪快に扉を開いた。両親はちょっとびっくりしているくらいで、特に動じていない。
僕は姉の姿を見ると自然と頬が緩んだ。所々髪が跳ね上かっていてクシャクシャだ。起きてすぐなのか、涎まで拭いていない。すごい顔をしている。
苦しくて狂ってしまいそうなとき、僕の手を握ってずっと励ましてくれた。前世でいなかった存在。
「おねえちゃん」
僕は自然と、姉が何度も教えてくれたその言葉を、紡いでいた。
その後また色々大変だったが、姉の名誉のため言葉は控えよう。僕は女の子に泣かれることに、めっぽう弱いとだけ言っておく。
お医者さんに診てもらったけど何の異常もなかった。衰弱さえなかったのは不思議だった。両親は納得せず、心配だと言うことで、しばらくベッド生活を余儀なくされたが。
それからは、物事は順調に進み出した。言葉も分かるようになったし、人の顔や名前も覚えた。
でも同時にそういった記憶を覚えていくことが、苦痛に思うことも多かった。
僕の中の記憶は、前世で得たものの方がずっと多い。お母さまやお父さまに対しては、どう接していいのか分からず、なるべく避けていた。そしてそれを補うように、僕の世話をよく見てくれる、メイドのミリアさん(叫んだ女性とは別の人)に懐いた。
前世でいなかった姉には、僕は心をすぐに開いて何かと甘えるようになった。
お父さまは仕事で忙しく、僕の生活時間と滅多に被らないためそんなに気にならない。
お母さまは何かと僕の世話を焼こうとしたり、当たり前だが子ども扱いしようとするため、ほどほどに付き合って、姉がいるときはいつも姉に面倒を見て貰った。
体の方はあれから熱を出さなくなった。体力はまだ貧弱なため、体調を崩さない範囲で運動をしている。
時間は飛ぶように過ぎていき、僕は4歳になった。時間の体感速度は年齢分の1らしいから、僕は子どもにして20分の1の体感で1年を過ごしていることになる。
ようやく言葉をまともに喋れるようになり、難しい単語が出てこない限り、日常会話は問題無く理解できる。分からない言葉は、なるべくその場で聞いて覚えるようにしている。
今日はこの世界の銀の月、24夜。前の世界で言うなら9月の下旬にあたる季節。
姉さんは今日、州都というこの国の首都に行くことになっている。何かの検査らしいが、僕は検査という言葉に嫌な過去があり、姉さんのことが心配になった。
連れていってくれないかなと、ごねてみたが、やんわり姉さんとお父さまに断られた。
姉さんは何を勘違いしたのか「おみあげを買ってきてあげるから」と僕に言い聞かせた。別に観光に行きたかったわけじゃないんだけど……。
そういうわけで、姉さんとお父さまが出掛け、僕とお母さまは留守番をすることになった。お母さまもいっしょに行けば良かったのに。
仕方がない。こちらをジッと見ている気がするお母さまを放っておいて、メイドのミリアさんか執事のダーヴィンにでも遊んでもらおう。
二夜後、姉さんは何の変わりもなく帰ってきた。どうやら杞憂だったようだ。
何もないにことに越したことはない。ホッとした。
おみあげの件だが、細かい細工を施した飴だったであろうものを貰った。「だった」とういうのは箱を開けるとばらばらになっていて、何が何やら分かんなくなっていたからだ。
姉さんもかなり動揺していたが、折角の贈り物なのでお礼を言って味わって食べた。ミルクやフルーツの味がする、おいしい飴だった。
お父さまからは「ナイツ」というボードゲームを貰った。
チェスや将棋に似ているものらしく、州都では大会も開かれるゲームらしい。やたら作りがいいものをもらって恐縮だが、暇を潰すにはもってこいなのでうれしかった。
お父さまにお礼を言って、さっそくダーヴィンに遊び方を教えて貰った。お父さまは仲間に入れて欲しそうな目でこちらを見ていたが、気付かないふりをした。
ダーヴィンも空気を読んで、僕をお父さまに関わらせようと奮闘していたが、僕は空気を読んだ上で、空気を読まなかったので、ダーヴィンの徒労に終わった。
お父さまはすごすごと去っていった。とても寂しげな男の背中に、僕の罪悪感は特に刺激されなかった。
姉さんの検査から、14夜が過ぎた銅の月、8夜(10月上旬くらい)今日は良く晴れた、気持ちのいい日だった。
体の調子もいいのでお昼ごはんを食べてから、メイドのミリアとキャッチボールをして遊んだ。
バレーボールくらいの大きさの柔らかい球を投げて遊ぶのだが、僕が投げても殆ど飛ばない。まだまだだね。僕の体。
ミリアは僕と姉さんの身の回りの世話をしてくれる人だ。年はたぶん40歳位だと思う。焦げ茶の髪に焦げ茶の瞳。素朴な容姿で雰囲気が柔らかい。この人といっしょだと僕は自然と子どもらしくいられる。
遊んでいても、遊んであげているっていう感じではなく、本当に遊びに一喜一憂している。すごくお茶目な人だった。
僕が疲れてきた頃、ミリアが休憩を提案してきたので少し休むことにした。
ミリアは特製のレモン水を貰いに厨房に行ったので、僕も遅れてそれについて行った。
途中でお母さまがいてミリアと何か話していた。
「ナディア様ですか?すいません、私は坊ちゃまといっしょに遊んでいたのですが、ナディア様のことは……屋敷の中を見て回りましょうか?」
「いいえ、大丈夫よ。あなたはユキトと遊んであげて」
お母さまは困ったように、ため息を吐いていた。
姉さんは僕もさっきから見ていない。最近は、僕と姉さんがいっしょにいないことは珍しいことじゃないけど、どうしたんだろうか。
「ミリャアいいよ。ぼくはひとりでれんしゅうしてりゅから、おねしゃん、しゃがしてきちぇ」
最近の悩みだが僕の滑舌は非常に悪い。以前「おねえちゃん」としっかり発音できたのはビギナーズラックだったらしく、今はこれが精一杯。絶対、前世の影響が言葉にでていると思う。
「気にしなくていいのよ、ユキト。あなたは遊んでいらっしゃい」
お母さまが僕に目線を会わせて答えてくれる。
「ミリャ、おしごと、じゃましちゃくない。ぼく、がまんすりゅ」
別にミリアがいなくても投げる練習はできるしね。
お母さまは腕を組んで右手の人差し指をあごに乗せ考える。すごく様になっているけど、淑女ってそういうポーズをとっていいのだろうか。
「う〜〜ん。そうだ!お母さまと遊ばない、ユキト!」
お母さまは満面の笑みで提案してくる。いやいやそれはいかんでしょ。
「いや。ミリャがいないなりゃ、あそぶのやめりゅ」
おお、今の「いや」は完全な発音だったぞ。ただしタイミングが最悪だ。
お母さまの顔が満面の笑みで固まっている。罅が幻視出来るほどの固まり具合だ。
ミリアも「まずいわ〜」と顔を引きつらせている。
ホローしなければこのままではミリアの仕事と僕の良心が大変なことになる。ついでにお母さまの精神は………まあ、大丈夫だろ。
「おかしゃま、お外であしょぶとよごれちゃう。きれいなおかしゃま、よごれるのやだかりゃ……」
取りあえずおためごかしを言ってみた。
効果は抜群だ。
抱きつかれて、頬ずりされた。
両頬にキスされた。
唇にされそうなったのは阻止した。
残念そうな顔をしていた。
身の危険を感じた。
お母さまはすっかり上機嫌になり、他のメイドを見つけて姉さんのことを頼んで、どこかへ行ってしまった。
ミリアは胸を撫で下ろした。唇を奪われるのを阻止できたので、僕も胸を撫で下ろした。
この国のスキンシップはこれが普通なのだろうか。姉さんも普通に両親とキスしたりしていたし。もちろん口以外の頬や額などにだが。この風習には慣れないな。
だが、お母さまよ、想像してみて欲しい。
ファーストキスが母親という事実を一生背負わねばならない息子の気持ちを。
これは現代っ子にしか通じない価値観なのだろうか。理解してくれることをせつに願います。
僕はミリアと一緒に部屋の中でレモン水を飲んだ。ミリアは遠慮しようとしたが、水分補給の大切さを知る僕は無理にでも勧めた。
それから少し休んでから中庭に出て、キャッチボールをした。目指せ、ジャイロボール。いや、ナックルも捨てがたいな。
そんな風に遊んでいると、屋敷の門に人影が見えた。
髪を乱して、服も着崩れているが間違いなく姉さんだった。
だがその容姿は異様だった。
最近赤みの出てきていた、ブルーの瞳は見る影もなく真紅に染まっていた。
遠目なのにはっきりと見分けることが出来た。瞳そのものが光を放っていたのだ。
僕は呆然としながら、目の前まで走ってきた姉さんに「おねえちゃん、めがまっかだよ」と問いかけた。目の前にきた姉さんは少し青ざめていたが、至って健康そうだ。
姉さんの瞳は炯々と光を放ち、のぞき込んだ僕は不可視の威圧感を感じた。宝石のルビーを思わせる美しさを持つ一方、血に濡れた刃物のような怪しさを持ち合わせた瞳。僕の中の何かが警笛を鳴らした瞬間。
姉さんは僕に抱きついてきた。
柔らかく抱きすくめるような優しさはない。
万力で体を押しつぶす暴力的な抱擁。
あばらの辺りから骨の折れる音が聞こえ、急激な痛みに脳がスパークする。
腕も関節が外れ、腰にも鈍い痛みが走る。あばらを折られても抱擁は止まず、そのまま肺も押しつぶされる。折れた骨が内臓を傷つけたのか、口から大量の血液が流れ出た。
肺の空気が無理矢理の喉に押し返され、血の泡が次から次へと溢れてくる。叫ぶことさえ許されない。
時間にして10秒もなかっただろう。僕を拘束していた腕から力が抜け、抱擁が終わった。
満身創痍のまま地面に崩れ落ちたところで、意識を失った。あるいは二度目の死を迎えたのかもしれない。
暗く、寒い……。




