4.好き嫌い、そして恋
正直にいうなら、とんでもないことだと思ったよ。
理想にそうなってほしいと、願わなくもない存在がそこにあって。
だけど、今にも壊れてしまいそうなのだから。
あぁ、ボクは彼女を壊す音色を求めていたのかと、絶望すら感じていたね。
彼女っていうのはキミさ、カティ。だけど、ボクはヒトと見紛うドールを欲しているわけなのだから、そこには当然恋心も含まれるわけで。ドールにそれは、それはあまりにも大きすぎたんだろうかと、そんなことを考えて軽く目の前を暗くしてしまったんだ。
恋の病、などとよく言ったもので。彼女の場合は、その恋心は紛れもない病巣だ。彼女という存在を歪ませる、ノイズ、なんて生易しいものじゃない。
それはつる草で、そのうねるような四肢で、大輪の花で、蕾のようで。
美しくもあり、醜くもある。
一晩、猶予を貰った。少しだけ考えたかった。結論は出ていたんだ、勇気が少しばかり足りなくてね。ボクはほら、ちょっとだけ臆病なところがあった、昔はね。
朝早く、ボクは仕事に行く前の彼女に言った。
今から取引を持ちかけるから。
その心が望むキミだけの決断をボクに聞かせておくれ。
それは夕方でいい。キミの調律をする時、ボクにだけ聞かせてくれればいい。一日、どうか真剣に考えてほしい。そう、キミは確かにお人形だけれど、その感情は間違いなくキミのものなんだから、どうかその思いを、大事に取り扱ってほしいとボクは願った。
一呼吸。
ボクは自分が彼女に施すことを、簡潔に、わかりやすく伝えた。名ばかりのメリットを伝えてから、途方無く膨大なくせに実にあっけないデメリットも伝えた。
そして、すべてを聞き終えた彼女は小さく頷き。
――セドリック様、それが。
まるで、もうずっと前から決めていたかのように、その場で口を開いて。
――それがわたしの身の丈にあった幸福だと、思うのです。
だからどうぞ、そのお心のまま。
どうかわたしを『止めてください』と。
そう言って、まるで涙を零すように微笑んだ。
ボクはね、カティ。ボクは。
今ならボクは、もっと違った形を示せただろうと思うくらい、悔いるくらい。その笑顔を好ましいものだと思ったんだ。そう、そうだ、もしもボクにキミがいなかったなら。
その笑顔で、恋の病を移されたんじゃないかって、恐れるほど。
キミに同じ笑顔を浮かべてほしいと、願うくらいに。
ねぇ、カティ。
それを守れたんだって、彼女の恋を守ったんだって。全部失われるより、彼女の恋を叩き壊してしまう前に、それがおぞましい狂気と殺意に変わってしまうその前に。
綺麗なままでいられるよう、ボクは守ったつもりだった。
もしかすると、ボクはそう思い込みたいだけなのかもしれないね。
あぁ、今なら思うんだ。
あの時の彼女は、もしかしたらって。
■ □ ■
ありふれた恋物語だろう、なんてセドリックが小さく笑っている。
その手が残酷な幸福と、甘やかな不幸をもたらしたと知っていながら。
身を乗り出して甘えるように、カティに軽く寄りかかって。
その頭を撫でながら、カティは話の続きを促すように、それで、と言った。結局、彼は取引の内容を口にしていないのだ。そこが大事なところだろう、と非難の目を向ける。
「ボクは彼女の、あの瞬間を基礎設定にした」
「設定、ですか?」
「人格等の下地、土台だよ。要するに、主を慕っているドール、という設定に書き換えてやったんだ。限りなくあの瞬間の彼女を留めるように。その上で記憶機能を消した」
よくある話さ、とセドリックは口を開く。
そう、物語という空想の中に、すこしばかりの現実に、よくある話。
「彼女はその日の記憶を、次の日にもっていけない」
呪いのような、病のような、ごまかしのような。
セドリックはドールの恋を半永久的に壊す、そんなギミックを仕込んだ。本人がそれを望んだからという免罪符は、人によっては酷くて最低な行為に見えるかもしれない。
現にカティも、少しだけ残酷なことを、と思った。
それしかないと知っていても、そう思ってしまうのだ。
「他人って身勝手だからね」
くっく、と笑う。
そう、身勝手だから人はきっとセドリックのしたことを避難する。
ひどいひどいかわいそう。
だけど、じゃあ放っておけばよかったのかというと、誰もそれには答えない。放置すればいずれ彼女は狂った。自壊するかもしれない、誰かを殺すかもしれない。
そう、例えば恋敵を――殺すかもしれないというのに。
壊れるかもしれない彼女を、止めることも壊すこともできない。
選べるのは一つだけ。
その中で、選ばれたのが現状というだけの話なのだ。
「人間も好きや嫌いで狂うといいますが、ドールもそうなるのですね」
感情に振り回されるのは、人間だけだと思っていた。
ドールのそれは、所詮仮初だから。そこまでの力はないと、思っていた。いや、信じきっていた。人間のようになってほしいと願われる、カティでさえ、ずっとそう。
「この子を狂わせた、狂わせようとしたのは、そんな単純なものじゃないよ」
「セドリック?」
「好きだとか嫌いだとか、そういうのはひどく理論的な構造をしている。適当に理由を並べて成立するものだ。こうこう、こう思うからこう、ってね」
まるでそんなふうに理由を添えなきゃ、口にもできないようじゃないか。
だけど、と唇を震わせるように、笑みをこぼす。
「恋ってそういうものじゃないでしょ? ボクはそんなツマラナイものに、突き動かされて高嶺に手を伸ばした覚えはないし、その程度に叡智が掴めるわけもないのだから。あの人が作り上げた音色が、その程度に狂わされるわけがないじゃないか、ボクの師だよ?」
それを狂わせるのは『恋』だ。
文字通り、気が触れるほどの『恋』が、音色を歪ませた。
好きという言葉は、そこに添えるにはあまりにも、あまりにも軽すぎる。綿毛のように軽いそれは不釣り合いだと、セドリックは言う。そんな言葉はお呼びじゃないよ、と。
そう言って、セドリックがカティに手を伸ばしてくる。
「ねぇ、ボクがキミに捧げたものは、そんな安っぽいものじゃない。わかって」
カティの手をとって、その指先にキスをして。
そして目を細め、無邪気と狂気を混ぜた色をした顔をした。
■ □ ■
仕事は、滞り無くおわる。
数日後には、二人は再び船の上にいた。
出発を見送った屋敷の主が言う。
「彼女は本当に、よく使えてくれるいい子なんです」
ドールだとか関係なく、彼女はとても、いい子なんですよ、と。
その言葉を聞いた時にセドリックがどんな顔をしたか、カティは見ていない。彼のことだから、いつもの様にへらりと、しかしどこか得意げに笑っていたんだろうと思う。
その奥で、泣いていたんだろうとも、思う。
そこに慰めは要らないことも、求められてもいないことも。カティは、愚かではないからわかっていたけれど。客室に入った瞬間に、後ろから主に寄り添うように抱きつく。
このお話は、きっと誰も悪くない話だ。
恋をした彼女も、恋をさせた彼も、それを違う形にした彼も。
――だから、セドリックは泣いたりはしないのです。
泣くようにただ、笑う。




