5.狂信の手を取り、狂愛に溺れ、狂気と踊って死ぬがいい
ふと、意識が浮上する。
柔らかいベッド、その中で軋む身体を横たわらせたまま。
脳裏に残った残像を、閉じた瞼の裏に描き。
――何か、懐かしい夢を見ていた、と。
濁った意識で、それでもわたしは気がついた。それが夢で、今から数えてみるとかなり昔の話だと。今の自分はもう誰かの弟子ではないし、出てきた彼とも長く会っていない。
夢は、あの師の屋敷であった細々した日常。師との交流、師の孫娘との交流。故郷を飛び出してから寂しさを抱えていたわたしにとって、あの生活は『幸福』の一つだった。
セドリック、君は今、何をしている。
君はどこまで進んだのだろう。
なぁ、セドリック、君の忠告は無意味だったようだ。
夢で笑っていた、あの懐かしい金色を思う。わたしにとって、彼との出会いはいろんな意味を孕んだ不思議なもので、きっと簡潔に言うならば『運命』だったのだろう。
逢いたい、けれど逢いたくはない。こんな無様な姿を見せたくはない。
彼は同胞だった、仲間だった、友人だった。才能の差は歴然だったけれど、それでもライバルと呼んでみたい相手だった。そんな彼に、あのセドリックに、見せたくないのだ。
結局わたしは、ダメだったのだから。
「ナズナ、起きている?」
声がする。部屋の外。
扉をノックする音はないままに、静かにわたしを呼ぶ――どこか、か細い声だ。
「……起きてる、何かあったのか?」
不安によるゆらぎを隠せない声でわたしを呼ぶのは、もう遠い昔に死んだ『親友』を模した青年の形をした一体のドール。わたしの願望を詰め込んだ、悪夢そのものだ。
扉が開く、その向こうに彼が立っている。
見た目は同じだ、わたしが恋をしていた彼と同じ。内面もそうだったら、そうあってくれたらどれだけ。言っても無駄なことだ。本当はわかっていたんだセドリック。わたしはこれでも人形師だ、だからわかっていたんだ。自我がある以上、同じにはならないと。
それでも求めたことは罪だったのか。
こんな罰を受けるほどの、罪だったというのか。
夢の終わりにあったのはおぞましい悪夢。
わたしが育てた悪夢が、わたしを食いつくす光景と情景。喚くように啼いて、苦しむようにもがいて、逃れるために名前を呼んで、そうして全身で悦ぶ浅ましさを描く夢を。
もたらした彼は、今日もいつも通りの体をしている。
仕事は至って順調だ。
わたしの専門分野はコアの作成にある、要するに技術職だ。上質な、いろんな音色を収められる類のコアは需要が高くて、わたしもそれなりの『売れっ子』であると思う。
叡智も今のところわたしを見放さず、わたしはかろうじて魔女のまま。
けれど力関係は、レンとの関係性は崩れたものだ。
崩れて、そして爛れている。
だけどわたしの心は悪夢を振り払えないまま、今もこんな調子だ。あと一歩を踏み出すだけでわたしの全てはレンが作る悪夢に沈むことができて、そして楽になれるのに。
この身体はギリギリのラインで、じっと踏みとどまっている。
「今日はこれを着よう、あなたにとても似合う色だ」
どこからか衣類を持ちだして、それを差し出すレンが笑う。わたしが知る、わたしが知らない笑顔を浮かべて。レンが差し出すのは、装飾が控えめの白いワンピースだ。
それを受け取ろうと腕を伸ばす中、レンは重ねるように要件を告げた。
「ナズナに、お客さんが来てる」
「……客?」
珍しいことだ、こんなところまで客が来るなんて。ほとんどレン一人で対応できるというのに、おかしいことだ。わざわざ呼びに来た理由が、寝起きの頭じゃわからない。
追い返せと、言いかけたわたしの喉を締め上げる。
「セドリック・フラーチェ――そう名乗る魔人が来ているよ、ナズナ」
それは言葉を奪い、意識から眠りを殺す一言だった。
■ □ ■
逢いたくないのに、目の前には黒がいる。
黒衣を身につけたあの頃と変わらない、天才が座っている。
「久し振りだね、ナズナ。近くに来たから顔を見に来たんだけど……」
だいぶ、まいってるみたいだね?
そんな言葉に何を言えばいい、わたしにはわからない。
稀代の人形師セドリック・フラーチェの話は腐るほど聞いた。マスター・エンゲルスの弟子の中でも最高傑作とさえ言われ、彼の技術を更に発展させた功労者の一人。当然ながら魔人となっているし、しかも魔人の中でも相当に若い年齢でそこに至ったバケモノだ。
わたしとて若い段階で魔女と成ったが、功績といえるほどのものはない。
セドリックとは比べようもない、わたしがしていることなど児戯に等しかった。
彼と親しかったなんてことは言えない。
マスター・エンゲルスの弟子であることすら、公にできないでいるのに。
言えない言えない、この程度の魔女と知り合いなんて言ったら。あの人の弟子であることを公表したら。わたしの体たらくが、彼らの眩いほどの経歴に深い傷をつけてしまうのではないかと、わたしはそのことをひどく恐れていた。憧れたからこその恐怖だった。
だってわたしは、結局魔女にはなったけれど、願望には潰された。
みるがいい、さぁみるがいい。
わたしは結局、この程度だったんだ。
天才と一言にしても、そこにも絶対的な差があったのだろう。
わたしと彼は、あまりにも違った。
無様にも自分のドールに組み敷かれて囲われて、長らく外も見ていない。調律する時に壊せばいいのにそれもできない。拒否できるのに許してしまう、なんて無様なことだ。
わたしは、醒めたはずの夢の中で、まだもがいているのだ。
「ナズナ、ボクはキミに問いたいことがある」
ソファーの上に座って、膝を抱えたわたしを見たセドリックが口を開く。
覗き込めない赤が、きっと無様さを笑っているのだろう。いや、そんなことをする人じゃない、彼はそういうことを好まない。わかっている、だけど空想は嘘を描く。
そこにあるのは嫉妬と羨望。
いいな、いいな。
わたしは叡智には手を伸ばせたというのに、一人に手を伸ばせなかった。
いいな、彼はいいな。羨ましいな。
好きを言える、愛してるを伝えられる、いいな。
そんな感情を飲み込んで、何、とわたしは答えた。抱えた膝で表情を隠す、この様はまるで怒られた子供がしているかのようだ。レンに言われるまま、だらだら伸ばし始めた髪がカーテンみたいに周囲を覆い隠して、目を閉じなくてもわたしの視界は闇に染まる。
「これを問う残酷さを承知で、あえて問おうか」
キミだけを愛し、キミだけを求め、キミなしには生きられず、自分すら保てない。生きることすらままならず、息をすることもできないほど、依存してくる誰かを愛すること。
そんな存在に、狂気のような愛を捧げられる、この現状。
縛られて囚われて、二度と開放されない世界だと、わかっていて、それでもなお。
「キミは今――幸せかい?」
淡々とした、鋭い切り口を作るような問いかけ。
幸せ、とはなんだったのか。
自らが作ったドールに、支配されることをそう呼んでいいのか。
わたしは、答えられなかった。
「ナズナ、キミは結局誰を愛したいんだい?」
「……だれ?」
「現実にいたレンなのか、今、キミを心から愛するレンなのか」
ボクはどっちでもいいと思うよ。
突き放すような言葉。
あぁ、とわたしは息を涙を零す。あふれたものでいろんなものを濡らしながら、自分の手で首を絞めるようにして、顔を上げ、唇を震わせて、肩をこわばらせて、小さく。
「わた、わたしは」
「うん」
「こんなわたしを、それでも愛してくれる彼を……好きになりたくなかった」
自然と溢れる答えに、セドリックはかすかに笑ったようだった。
理由は尋ねられないけれど、もう理由を探す必要もない。
怖かった。
ドールのレンに近寄るのが、いつの間にか怖くなっていた。
だってだって、レンはわたしを愛してくれる。彼は愛してくれなかったけど、レンはわたしだけを愛してくれる。傅いて、愛でて、抱きしめて、いろんなことをしてくれる。
彼と彼は違う。わかっている、だからこそ耐えられないんだ。
愛されないことに耐えられないんだ。
愛された今は、それがないことに耐えられない。
そもそも彼はもういない、もう死んだ。わたしが言えなかったこの恋を、愛を知らないまま死んだ。ナズナ・ヒオがどれだけ君を愛していたか、彼は知らないままだ。
結局、一度も墓参りできていない。
墓の前で何を言えばいいのかわからない。
好きだったとか、愛していたとか――気づいてほしかった、とか。
不毛な言葉だけが溢れそうで、友人の、親友の仮面が壊れそうだから。
だけどレンは違う。欲しがれば欲しがるほどに与えてくれる。
拒んでいたのは怖かったからだ。底が見えない沼に引きずり込まれるようで、自分のタガがはずれてしまいそうで、今の自分が壊されるようで、だから必死に抗っていた。
いくらモデルがいても、そこにはどうしてもわたしの願望も入り込む。わたしはそれも恐ろしかった。自分の夢に溺れていくのが、その醜悪さに嫌悪すら感じていた。
レンが、わたしの『愛』を音色の端々で求めていると気づいても。
答えられなかったのは結局、自己嫌悪から逃げただけ。
だけど――もういい。
わたしは幸せになりたい、楽になりたい。
あたまを空っぽにして――甘ったるく愛されたい。
ちゃら、と揺れるアンクレット。これはレンからの贈り物だ。すっかり温もりが移ったその感触に、口元が自然とほころんでいく。自分でも分かった、今わたし笑っている。
あぁ、セドリック。我が同胞、わたしの『親友』よ。
わたしは今、最後の一歩を踏み出したようだ。底のない沼の淵に立って、それは断崖絶壁のようで、下では手招くようにレンが待っていて、しかしわたしは足を踏み出すんだ。
そして飛び降りるように、彼の悪夢に沈む。
笑顔を浮かべて。
――なぁ、セドリック。
声をかける。
ソファーに座る旧友が、なんだい、と優しい声で答えてくれる。
「わたしは一生の恋をした、恋をしたんだセドリック」
「奇遇だね、ボクもだ」
「わたしはこの恋に殉じていこうと思う、わたしにはもう、レンがいればそれでいい。レンが一緒にいてくれるなら、わたしはそれだけで『幸せ』だと笑えるから」
「そうだね、それでいいんだ。ボクもキミも、そうやって生きればいい。素晴らしいことだと思わないかい、ナズナ。ボクらは一生の恋を、ずっと抱えて生きて死んでいける。やっぱりボクらは根っこが同じだ。枝葉は違えたけれど、つける徒花はどうやら同じだね」
所詮これは不毛な恋さ。モデルがあろうとなかろうと、ボクらは自分の中にある幻想に恋をしている。キミの言うとおりの『一生の恋』を、彼や彼女に捧げている。
「だからね」
ボクは幸せだ、と呟くセドリックの向こう。
ソファーに座らず、背後に立っている黒髪の少女を、わたしは見た。金色の、宝石か月のように美しい瞳をした、よく出来た人形のような美貌を持った、華奢な少女を。
それはかつて、セドリックが語った彼の理想によく似ていた。
■ □ ■
セドリック、と問いかけられる帰り道。
黒髪の少女が、傍らの少年を見た。
月のように艶めく金色の瞳が、セドリックを探るような動きを晒す。
「なぜ、彼女の狂気の背を押すようなことをしたのですか?」
「背を押したってほどじゃないよ。ボクは彼女に選択肢を一つ見せただけさ」
「あれが、幸福であるとはわたしは思いませんが」
無償のおせっかいは珍しいですね、少女が言う。
セドリックは少し言葉を止めて、苦笑するような笑みを浮かべた。
「……理由としては、単純さ。ボクは彼女を嫌いじゃなかったんだよ、マスター・エンゲルスの弟子の、同期の中では一番好ましいと思っていた。そんな彼女がまだ苦しんでいると聞いたからには、もう楽にしてあげるしかないじゃないか。それがどれだけ歪でも」
だけど、彼女は幸せだと泣くように笑っていた。
幸福に満ち溢れた笑みを浮かべ、今頃ドールの腕の中にいるのだろう。
「いいじゃないか、これが二人のハッピーエンドなんだから」
ボクもほしいなぁ、と呟いたセドリックは、少女の方を意味深に見る。人間味のない顔をした彼女は、数回まばたきをして、鬱陶しそうなため息を混ぜるようにして言った。
「――善処します」
「つれない言葉だね、カティ。だけどそれでこそボクの理想だ」
赤い瞳を細めて、彼は幸せそうに笑う。




