3.けれど現実は嘘を吐かない
そしてナズナは、レンを作った。
恋い焦がれた彼を模して、そのドールを作り上げた。簡単な動きしかできない、赤子ほどの大きさしか無いボディに収めたコアは、決して上等なものではなかったけれど。
レン、と名づけたそのドールは、ナズナの想い人を模したものだ。
見た目はまぁ、髪色ぐらいしか似ていない。
けれど考え方や口調、音色に寄る部分は精一杯似せたと思う。さすがに本人と比べることはできないから、これは所詮『ナズナという存在を通して見たレン』でしかない。
だが、それでいいと思う。これ以上の慰撫はないと、思う。
その心地よさは、今はとても欲しい物だった。
「それで、君のお姫様はどうなったんだ、セドリック」
最新の研究資料を読み耽る、見慣れた金色に問いかける。
さぁね、と意味深に笑う彼の肩には、手のひらに乗るほどの小さい人形がいた。眠るように目を閉じたそれは、肩に付く程度の長さをした黒髪の少女の形。
これは、セドリックの理想を注いだドールだ。
持ち歩くならこれくらいがいい、と子供サイズのボディから移したのだという。小型だが質のいいコアが手に入ったというのも、彼にとっては幸いだなとナズナは思った。
あまり大きいと、旅をするには不向きだから。
すっかり荷物が減ってしまった、セドリックの部屋を惜しむように見る。天井まで届くほど大きな本棚は空っぽで、床を覆うほどに散らばっていた書物や資料も存在しない。
一週間ほどかけて、この部屋は掃除された。
理由はとても簡単なもの。
あと数日で、彼はこの屋敷からいなくなるのだ。
セドリック・フラーチェとナズナ・ヒオ、この二人の『天才』がマスター・エンゲルスのところに来て数年、セドリックはここを離れる旅立ちの時期を迎えている。
というのも調律師は、基礎以外は基本的に独学だ。いうならば、基礎の上に積み上げる技術が人形師の『売り』になる。ある程度を学んだら、独り立ちするのが普通だった。
セドリックの場合は、師であるマスター・エンゲルスが調律専門ではないというのもあっただろう。師はコアやボディを作ることに長けた人形師、調律は専門外なのだ。
それを目指すセドリックは、やはりここを巣立たなければいけない。
一方、ナズナはコアの作成の方に向いていることがわかり、そっちに専攻を変えてしまっている。手先が元々器用だったのもよかったのだろう。もう数年ここにいる予定だ。
けれど結局、いつかは巣立っていくのだ。
二人を慕う師の孫娘は、泣いてしまうかもしれない。
「質問したいのはボクの方だよ、ナズナ」
ぱたん、と本が閉じる音。
セドリックは物を片付けたテーブルに、それをおいて振り返る。
「キミはどこまで、そのドールを愛せそうかい?」
「……あい、する?」
「ヒトは愛し愛されるものだ。一方的な恋情は、ただの執着だからね。キミが『オリジナルのレン』に、どうやっても愛されなかったのと同じことだ。ヒトの心は柔軟だから片思いに耐えられるし、見切りも付けられるけど、ドールはそう調律しないとずっと抱える」
誰かが終わらせなければ、彼らに成長はないんだから。
その言葉に、ナズナは視線を床へと落とす。
「……しってる、けど」
自分の傍らに座り込み、死んだように動きを止めた一体のドールを見る。
レンは今、機能を落としている状態だ。何も聞こえず、見えない、眠っている状態と言っていい。だからこの会話を聞かれることはない。だが声をどうしても潜めてしまう。
だってレンは主を愛するものだ。
そんな彼に『愛せない』という言葉を、いうことはさすがにためらいがある。
セドリックは、けれど追求をやめる気はないようだった。よく他の弟子の神経を逆撫でていたあの意地の悪い笑みを浮かべて、足を組み替え、ナズナをじっと見ている。
あぁ、そうだ、ナズナはレンを持て余していた。
そこに詰めた、現実に反したありとあらゆるものを。
ドールのレンは、ナズナのことを好きといってくれる。ニッコリと笑って、油などで汚れて荒れ気味の指先を握って、俺は主が大好きです、と言葉とココロを捧げてくれる。
ありがとう、と答えることが苦痛になった。
これはレンじゃない、『彼』じゃない。
だけど愛される喜びに、いつだってナズナは満足した。
満足する自分を、時々……ほんの一瞬。
殺したいと、そう思う。
じゃあこれを壊せばいいじゃないかと、きっと人は言うだろう。
耐えられないなら消せばいい、相手は所詮消耗品だ。次は苦痛を感じさせない、しかし自分への慰撫はこなすドールを作ればいい。簡単なことだと笑うだろう。
――それができれば、わたしは最初から叡智など望まない。
手放せないし壊せない、そして調律を重ねて消すこともしないのは結局、彼が吐き続ける嘘が真実にならないかという、そんな子供でもしないようなくだらない『願掛け』だ。
夢が、見たいだけだ。
あの人に愛されたことがあるという、夢。四肢に絡みついて離れないその夢はまるで水飴のようにねっとりとしたもので、甘い泥沼のような形をしている。ナズナが描いたものだというのに、夢は自立するようにナズナすら飲み込み、囚え込んでいくようだった。
きっかけは友人から届いた近況報告。
そこにあった、故郷にいる『彼』のその後に付いてだった。
恋人と普通に結婚したという彼は、彼女と家族を作って、それらの『所有物』になってしまった。無謀と知りつつ高嶺を望むほどに焦がれ、愛を求めた想い人はもういない。
ナズナだけのものだった彼は、どこにもいないのだ。
それが、かつてはあんなに許せなかったのに。
今は、普通なのだからそれでいいのではないかとさえ、ナズナは思う。今も好きなままのはずだけれど、あの頃の激情はもういない。いいことか悪いことか、わからない。
ただ、そう強いて言うなら。
自分で作ったはずの『彼』がとても、そう、とても恐ろしくなった。彼と同じ見目と声をしながらも、人格すら性格に流し込んだはずの音色さえ、何かが違うようで。
――わたしは現実に、『嘘』、をばらまいている。
気づいてしまった。気づいていたものを、気づかないふりをしていたことを。夢に酔いつぶれて酩酊していたけれど、現実をたたきつけられて目が覚めてしまった。
ぽつぽつと語ってしまった心情に、セドリックは赤い目を細める。
なるほどね、と小さく彼はつぶやいて。
「そう思うなら、歩いている道を変えないといけないよ、ナズナ。現状のキミが歩いている道は、まぁ、確かに普通に考えれば決して間違ってはいないのだろうとは思うけど」
「……けど?」
「キミの場合は、相手が悪い」
いいかい、とセドリックは言う。
「ボクの理想はボクだけの世界、ボクしか認識しないものだ。そして、彼女のことはボクにとってはすべてが未知で、今も知らないことが多い。けれどね、キミの場合は現実に存在したものだ。どう抗っても君の中にはオリジナルとの記憶があるだろう? 人格はある程度なら模倣できる。ヒトのココロなんて大まかだがパターンがあるものだからね。声のトーンに見た目、それからしゃべり方や好みなんかは、それこそ簡単なものだ。でも」
記憶はそうもいかないだろう?
セドリックの言葉に、ナズナは小さく息を呑んだ。
「キミの中にしかない彼の記憶と、いまキミのそばにいる彼の存在。そのズレも、ボクとしては無視しがたいものだけど、最大の難点は――現実は、どう足掻いても真実しか語らないことさ。いいかいナズナ、ボクが言うことじゃないのは百も承知で言うよ」
息を、吸い込む。
「現実の『レン』はキミを愛したりしなかった、それが『現実』だ」
わかっていることだとは思うけどね、と。
少し低い、淡々として切れ味のいい言葉がナズナの心をえぐる。
痛みに息を小さく飲みながら、ナズナは耐えた。
そう、レンは愛してくれなかった。人間の、親友だった彼は愛してくれなかった。誰より側にいたのに愛してくれないから逃げ出した、欲求が満たされないことが苦しくて。
それが始まりだ。
ナズナ・ヒオの人形師としてのキャリアの、すべての始まりだった。
「けれどドールの『レン』は、きっとキミだけを心から愛してくれるだろう、それはぞっとするほど盲目的に。だからそのズレを許容できないんだよ、キミは高潔だからね」
身に沁みた現実と思い描いた夢、その差異。
だから苦しいんだよ、と彼は言う。その違いを許容できない高潔さが、キミを夢の中へと沈めきってくれないんだろう、身を委ねさせないんだろう。
けれど偽りでも虚像でも、それはキミが臨んだ『未来』なのだから。
「だから苦しんでいるんだよ」
哀しいね、と呟く声に、ナズナは何も言えないままだ。
これが哀しいことなのかすら、もうわからないくらい頭が死んでいた。
「いつか、自分の願望に食い尽くされるよ。ナズナ、ボクはそれが心配だ」
彼の忠告に、ナズナはやはり何も考えられない。
けれど、心は静かに同意をしていた。
わかっていた、全部わかっていた。ナズナはそこまで夢見がちにはなれない。夢に踊って酔いしれる心を持てない。逃げ出したがゆえに、ナズナは現実に囚われているのだ。
「――あぁ」
口元にふわりと、自嘲が滲む。
そうだな、と小さく答えた瞬間にナズナの夢は醒めた。
以降、ナズナはレンと名づけたそのドールを、ありふれたただのドールとして扱うことを己に課すようになる。師の元を離れて遠い異国で暮らし始めてもなお、レンはただのレンという名前のドールとして扱い続けて、しかしそれでいて『彼』に似せることだけはやめることができないまま、ナズナは叡智を掴み魔女となって、長い時間を生きて。
「ナズナ、あなたを愛している」
――だからあなたが欲しい、あなたを欲したい。
彼に似た顔で、彼と違う目をして、彼と同じ声で、彼が言わなかった言葉で、ナズナという名の、魔女を求めるドールに。その日、浅ましさも欲望も夢も、貪られたのだ。




