4.赤に沈む
ディアナの行為は、数年経つとさらに悪化していた。
ほんの少しでも時間があれば、ところかまわず義兄を求めた。それはもはや、狂気とも言えるほどの執着で、傍目にもあの兄妹はおかしいのでは、と思われるほどになってきた。
そうなるとさすがに、ヴィクターも放置はできなくなる。
世間体というものは実に、実に面倒なものだ。
だが、長年に渡って義兄を貪ることに慣れてしまっていた彼女は、逆にその義兄の命令しか聞かなくなっていた。彼がダメといえば、ガマンする。まるで調教された動物だった。
けれど、その関係性自体は、さほど気に留めることではなかった。
むしろそうなってから、ディアナの暴走は落ち着いて見えた、少なくとも傍目には。義兄を欲しがるのは自宅だけになったし、それでさえ、義兄が断れば渋々だが引き下がる。
これはこれで、よい関係性のようにヴィクターは思った。
結局、セドリックという天才さえ、手元にあればよかったから。
彼ほどの優良物件を手放す愚行は許されない。
セドリックはもうじき学校を卒業し、なんと義父の弟子になるという。すでに一部の手伝いを任せていて、実にすばらしい成果を上げていた。やはり、自分の目に狂いは無かった。
しかし、そうなると少し心配になる。実験の手伝いにディアナの相手、さらに当分続く学校生活。この三つが入り乱れた生活は、少々ハードすぎはしないかとヴィクターは思ったのだ。
幸いにも基礎はすでに叩き込んだから、一度もっと大きな町に――《都》にでも修行に出してしまうのもアリかもしれない。学校を卒業したら、それについて一度話し合うべきだろう。
あぁ、それにしてもよい縁に恵まれた、とヴィクターは自画自賛する。
彼の中には輝かしい未来があった。あの日、ディアナの母とめぐり合うまでは必要ないと思っていた家族という繋がりは、多くの恩恵を彼にもたらしてくれている。
愛する妻に愛する娘、そして優秀な娘婿。これまで《魔人》として長く長い時間を生きてきた中で、これほど充実で濃密な日々というのはヴィクターにも覚えが無い。
もしもこの日々に名を与えるならば、それは『幸せ』という言葉以外に無いだろう。
そんな時だった。
ディアナが行方不明になり――そして、遺体で発見されたのは。
■ □ ■
悲しみを抱いたまま、色あせた時間を流す。
実験は思ったように進まないのに、今はそれに対する怒りすら出てこない。そんな余裕がまだ戻っていないのだろうと、ヴィクターはまるで人事のようにぼんやりと考えていた。
今日など実験を行う気すら沸かず、書斎で読む気も無い本を開くだけだ。
そこにやってきたのは、義理の息子にして弟子のセドリックだ。
「義父上、少し話があります」
そういったセドリックは、淡々とした声で言う。
数ヶ月前に学校を卒業した彼は、義父の手伝いをする日々を送っていた。けれど、見るからに元気をなくした姿は、周囲の人々に不安と心配を与えている。
彼の義妹であるディアナが死んで、半年。
その亡骸に縋って泣いていた彼の表情は大人びて、けれど同時に笑顔も失せた。実の父以上にショックを受けている彼は、どこか今にも消えそうなほどの儚さを感じさせている。
「少し、世間を見て回りたいと思うのです」
「それは何故かね」
「義父上も旅を続けていたのでしょう? そして、ディアナの母君に出逢い、この地に住むことを決めたと聞いたことがあります。同じようにボクも、世界を見て回ってみたい」
「……そうか」
ぱたん、と本を閉じて、それを机に置く。立ち上がって、セドリックと向かい合った。年齢の割にはずいぶんと小柄というか、幼く見える。その赤い瞳に、強い意志を感じた。
ヴィクターはしばし迷い、けれど彼を世界へ送り出すことを決めた。
そうして、いろんなものを吸収し、いつかはここに戻ってくるように伝える。
セドリックは荷物をまとめ、次の日には屋敷を出ていった。どこか落ち着けたら手紙を送るようにと約束し、こうしてヴィクターの屋敷はずいぶんと静かな場所へと変わった。
地下では相変わらず悲鳴が響き、彼の研究は進んでいく。娘や息子の目を気にしなくて良くなったせいだろう。積み重ねる犠牲はグっと増えた。むしろ消費に供給が追いつかない。
複数の業者から『犠牲』を買い漁り、それでも足りない時は誘拐する。
娘を失った悲しみは、かつて愛妻を失った悲しみに繋がった。
悲しみは、彼女らを救えない現状への憎しみとなり。
まるで研究することに囚われるように、ヴィクターは日々をそれに捧げていった。
息子という監視者を失い、名医という名の《狂人》の暴走は続く。
そしてセドリックが出かけて数ヵ月後。エクルストン家に多くの人間が、当主であり名医として名をはせているヴィクターを捕らえに押し掛けた。罪状は、殺人や人身売買など。
ヴィクターは少し考え、すぐに『実験』のことだと気づく。
だが罪の意識は、微塵として芽生えない。
――ただ、若い娘を百人ほど、実験のために消費しただけではないか。
どうせ身を売る以外に先などない娘だ。ならばこの偉大な魔人ヴィクター・エクルストンの研究、その礎になる栄誉を味あわせてやろうという、彼なりの温情であり愛でもあった。
無為に散るよりは、はるかにすばらしい死だと。
言い放った彼を、周囲は驚愕を持って受け止めて――嫌悪の剣で拒絶する。
けれどヴィクターは、なおも言い連ねてみせた。
己が、己の一族が続けてきた研究は、いずれ世界を変えるものだと。
この研究はいずれ大輪の花となり、もしかすると世界の新たな理にすらなりえるものであったというのに。もはや、夢の中にさえも出てこない、儚く散った未来予想の一つとなった。
この研究を研究を続けた先で、あらゆる病を根絶できたかもしれない。
ズタズタに引き裂かれた神経も、千切れ飛んだ手足も。
元通りに、いやそれ以上にできたかもしれない。
神の如き所業――ヒトを生み出す、という行為すら叶ったかもしれない。
彼の研究が咲かせるはずだった花は、あっという間に手の届かない場所に浚われた。
エクルストンが代々繋いできた、ありとあらゆるものが消えた。残されたのは失われたこれまでの日々への妄執と愛情、すべてを奪い去った『密告者』への憎悪だけ。
ある日、警察にもたらされた『名医の闇』。半信半疑だった警察は、調べるほどに黒くなっていくその疑惑に絶句したという。誰もが慕っていた名医は、とんでもない悪魔だったのだ。
世間は彼を声高に糾弾し、絶対的な牢獄へ繋ぐように叫んだ。
誰一人として、彼に味方するものなどいない。
それでも、ヴィクターにはまだ『希望』が残っている。
最愛の娘に添わせるために引き取った、義理の息子セドリック・エクルストン。
あの日、修行をかねて一人立ちした義理の息子にして弟子が、自身の――エクルストンのすべてを受け継いでくれていることだけを願い、彼は薄暗く何もない牢獄へと押し込まれた。
密告したのが誰なのか、どうやって知ったのかはどうでもいい。
唯一つだけ、ヴィクター・エクルストンは感謝していた。
――アレが手元を離れた後でよかった。
セドリック。セドリック・エクルストン。最愛の息子であり弟子。今頃、どこで何をしているのかはわからないが、おそらくはこの一件のことを、そう遠くない未来に知るだろう。
あの性格を考えるに会いに来ることはない、とヴィクターは思う。最後に成長した姿を一目見ておきたいと思うが、それよりも《魔人》へと至り、エクルストンを守ってほしい。
――心配せずとも、アレは間違いなく高嶺の花を掴むだろう。
くく、と肩を震わしながら《狂人》ヴィクター・エクルストンは笑っていた。
■ □ ■
最愛の一人娘を失い、息子にして弟子となった少年を送り出し。
二度と出られぬ牢獄で過ごして、数百年。
かすかに聞こえる終焉の足音に耐える、彼の前に――セドリックは現れた。死んだ娘と似たような色を持っている、生気を感じさせない一人の少女を伴って。
「相変わらず、あなたは傲慢で尊大だ」
幼さが残る少年の声。記憶にあるものより、わずかに大人びて聞こえる声。実に質素で硬い寝台に腰掛けたまま、男は格子の向こう側に立っている、声を主を見た。
彼は義父を見つめて微笑む。
それから振り返って、少し後ろに立っている少女に、受付に戻るよう告げた。じゃあなぜ連れてきたんですか、と少女が不満そうにするが、彼女は一礼すると案内役と共に去る。
残されたのは二人の《魔人》。
稀代の人形師と、名医と呼ばれた狂人。
数百年の時を超えて、二人はついに再会を果たした。
「久しいな」
「えぇ……お久しぶりですね、義父上」
「あの娘は、誰だ。まさかついにヒトを生み出すに至ったか」
「いいえ、残念ながら。あの子――カティは」
ボクの『理想』なんですよ、と。
実に楽しそうな声で、何もかもを霧の向こうから引きずり出した。




