4.言葉の代わり
深夜のリビングにて二つの影が揺れる。
ほのかなランプに照らされる、金髪の少年と、長い銀髪の男。
二人は、アルヴェール秘蔵の酒を酌み交わしているところだった。彼らのパートナー二人はそれぞれすでに眠っている、はずである。少なくとも、どちらもこの場にはいない。
「相変わらずなんだねぇ、キミは」
からから、とグラスを鳴らしながら、セドリックは笑う。シンプルなグラスは無色透明のガラスで作られていて、中には卵ほどの大きさの氷が一つ、酒の海に浮かんでいる。
「愛するものを貪るのは、そんなに罪なことかい?」
「……お前」
「ボクは、キミが羨ましい。ボクには、そんなことできない。叶わないから」
セドリックが、何より大事にしている存在は『生物』ですらない。それは、彼女の身体を作りあえげたアルヴェールなら、わかるはずだ。セドリックが羨ましいと告げる意味を。
「いいじゃないか、血肉をすする愛があっても。そういう奇妙な愛でも」
「……酔ってるのか、お前」
「酔ってない」
どこがだ、とアルヴェールは、赤い顔をした友人を眺める。
「本人が違うというんだから酔ってない。ボクは下戸じゃないからね。あぁ、それでね。酔ってもいない友人を酔っ払いと決め付けるキミに、一つ頼みがあるんだよ」
「……またか」
「そう、また、だ」
セドリックはグラスの中身を、一気に飲み干してから。
「カティを頼みたい……ボクがいなくなった、その後」
「いったい、何百年先の話だと思っているんだ」
「魔人といえども、血肉はヒトのままだ。事件事故でぽっくり逝くかもしれないよ?」
「引きこもりの分際でか」
「だって、ボクは不死ではないからね」
ゆえの願い。
セドリックという主がいなくなった後の、彼女の安全。そのボディは、もうアルヴェールでなければどうにもできない代物だ。万が一にも壊れた場合、彼以外には直すこともできない。
だから、彼に託す。
最愛の彼女を。
何かを考えるように黙っていたアルヴェールは、グラスの中身をあおる。からん、と液体の失せたグラスの中で、少し溶けて丸くなった氷の塊が音を立てた。
彼はそれをテーブルに残し、立ち上がった。
「大事なものぐらい、自分で守れ」
酔っ払いの戯言は忘れてやる、と。
アルヴェールは彼の金髪をぐしゃぐしゃと撫で、リビングを後にする。
残されたセドリックは、しばらく不満そうに酒をあおっていたが。
「ったく、素直じゃないヤツに言われたくない」
ぼそりとつぶやき、少しふらつきながらリビングを出た。目指すのは二階の、彼が寝泊りする客室の一つ。そこにいるはずの愛しいドール。彼が何よりも愛し、守りたいと思う存在。
早く、その身体を抱きしめたかった。
抱きしめたく、なった。
■ □ ■
アルヴェールが寝室に戻ると、すでに彼女は眠っていた。
彼が入る部分をあけて、ベッドの隅っこで少し丸くなっている。昔から、彼女はネコのように身体を丸めて眠ることが多かった。すっかり見慣れた姿に、けれど彼は目を奪われる。
思わず触れたのは、やわらかい髪だった。
次に頬に触れ、指の背で撫でる。
いくら寝入っていても、さすがに触れられれば目が覚めたのだろう。
「……あ、る?」
うっすらと開かれたまぶたの向こうに、緑色の瞳が覘く。
どうしたの、とかすれた声。まだ意識がはっきりしていないようだ。普段、寝起きがいい彼女にしては珍しいように、アルヴェールは思う。いつにもまして、今夜の彼女は幼く見えた。
身体を起こそうとする彼女を、そのままベッドに押し倒す。
とはいえ、客人もいるし――今夜は、何かをするつもりはなかった。アルヴェールは開いているスペースに入り込むと、未だぼんやりしている彼女を、そのまま腕の中に収める。
こうして、ただ抱きしめるのもどれくらい振りか。
――わたくしを食し、どうか永遠を手に入れてくださいませ。
彼女はそう言って、己の立場を変えた。最初は抵抗を試みたが、次第に現実を知る。権力も何もないアルヴェールには、彼女を守る術がない。戦うことも、隠すことさえできないのだ。
唯一の武器は、彼女がもたらす永遠。
そして決めた――永遠を喰らい、そして彼女の傍にい続けると。
だから、彼は愛を語ることをやめた。あのドールの少女に告げたように、彼には愛するものを喰らう趣味などない。だから、これは――この腕の中にいるのは、愛する人ではない。
必死に言い聞かせ、二人の間に線を引き。
そして二人は、元夫婦という関係すら名ばかりになった、奴隷と主人になった。
間違っていたとは、思わない。
実際、アルヴェールの時間は有限だ。何もしなければ、彼女を一人遺してしまう。そうなった後のことを想像すると、やはりこの方法しかなかったのだと何度でも思う。
きっと彼女だってそれがわかっていて、だから。
だけど、だけど。
「マルグリット」
腕の中にいる、彼女が少し身じろいだ。
薄暗い中、その耳が少しだけ赤く染まっているように見える。
「俺は」
言いかけて、止まる。何を言えばいいのか、考えていないことに気づいた。愛してる、ずっと一緒にいたい。そんな言葉を、無意識にでも言おうと思ったのだろうか。
けれど、今更認められるわけもない。認めたら、手にした永遠を投げ捨てそうになる。彼女のためといいながら、守るためといいながら、実際は自分のためかもしれないと。
もし、そんな本音が胸のうちにあって、それに気づいてしまったら。
「……アル、どうか、しましたの?」
腕の中から声がする。不安そうに少し揺れた、彼女の声。
――愛するものを貪るのは、そんなに罪なことかい?
理想を追いかける、友の声が耳の奥に浮かぶ。
彼はきっと、こう言いたかったのだろう。
――愛するものを貪れることは、そんなに不幸なことなのかい、と。
実にヤツらしい。どこか歪な考え方だ。
だが――それを好ましい、と思う自分もまた、どこか歪なのだろう。
ではまず、最初の一歩から始めようか。いきなり近づくと、きっと彼女は怖がる。常に穏やかであるように見えて、一番の怖がりなのが彼の――アルヴェールの『妻』になった女性だ。
まぁ、その分一度決めたことは絶対に曲げない頑固者なのだが。
「いや……ただ、俺は」
また悩み、やはり言葉にできず。
「ずっと、言いたいことがあったんだが、まだ口にできそうにない」
だから態度に、示そうと思った。
身体ならばきっと、頭よりは簡単に言うことを聞く。そして、直接の愛をどうしても告げられないならば、もっと違う言葉にして伝えればいい。彼女に、ちゃんと届くように。
「おやすみ、マリー」
数百年ぶりに、彼女の名前を――愛称を声にした。
ぴくり、と腕の中の『妻』が震える。
泣いているようだ。
名前は呼んであげられるのに、声にならない『泣かないで』を伝えるために、アルヴェールは彼女の華奢な背中を優しく撫でる。縋るような指先に口付け、さらに強く腕に抱いた。
抱きしめて、抱きしめられて。
そして『夫婦』は眠りに落ちていった。




