私は聖女じゃない
なんとかお金は手に入った。
けれど、金が私の暮らしていた世界以上に貴重なものだと知り、改めてここが異世界なのだと実感する。
それにしても──
シルが、あまりにも頑なに黙ったままだ。
宝飾店を出てからずっと、一言も発していない。
なにかおかしいとは思っていたが、さすがに気になってしまった。
「ねえ、シル。どうしてさっきから喋らないの?」
不意に問いかけると、彼は足を止め、私の耳元に顔を寄せて小さく囁いた。
『……気づいていなかったのか、君は。
俺はこの人界の者たちと、意思疎通ができない』
「えっ……」
思わず声が漏れた。
『言葉が、通じないんだ』
まさか、そんな。
だから一言も発さなかったのかと、ようやく腑に落ちる。
じゃあ、これからは私が──
全部、前に立たなきゃいけないということ?
異世界で生きるなんて、私だって初めてだ。
でも、それはシルにとっても同じはずで。
(……大丈夫。私のほうが、少しだけ年上なんだから)
そう自分に言い聞かせ、胸の内で気合を入れた、その時だった。
『視線を感じる。悪意はないが』
「え?」
『とりあえず、路地裏に入ろう』
シルに手を引かれ、私たちは人目の少ない路地へと入る。
少し奥まで進んだところで、彼が不意に立ち止まった。
『そこに誰かいる』
指差された先に、気配が揺れる。
私は一歩前に出て、声をかけた。
「……誰かいるなら、"出てきて"」
しばらくの沈黙のあと、ゆっくりと姿を現したのは、
十歳にも満たない、小さな少年だった。
拳をぎゅっと握りしめている。
なにかを必死に堪えているような、その姿に、私は思わず駆け寄った。
「どうして私たちを追いかけてきたの? なにかあった?」
「……ぼく、見たんだ。お姉ちゃんたち、あの宝石のお店から出てきたの」
「うん。でも、それが理由じゃないよね」
少年は視線を伏せ、しばらく黙り込んだあと、小さく頷いた。
──ああ。
きっと、そうだ。
言葉にしなくてもわかる。
彼は助けを求めている。
「名前、教えてくれる?」
「……ヴァン。七歳」
「そっか。私はことは。こっちはシル。
事情があって話せないけど、怖い人じゃないからね」
ヴァンはゆっくりと頷いた。
「お家、わかる?」
「……うん」
「じゃあ、一緒に行こう。送ってあげる」
そう言うと、シルが静かに私を制した。
『……いいのか。どう見ても、訳ありだ』
わかっている。
でも、それでも──放ってはおけなかった。
「大丈夫。行こう」
私はヴァンの手を取った。
彼は一瞬驚いた顔をして、それから、そっと握り返してくる。
───────
案内されたのは、街の中心から外れた、古い集合住宅だった。
壁はくすみ、ところどころにひびが入っている。
「……ここが、ぼくの家」
その言葉と同時に、ヴァンは堰を切ったように泣き出した。
「ごめんなさい……。迷子じゃない。
お姉ちゃんたちに、助けてほしかったんだ」
やっぱり、そうだった。
「……お母さんが、病気なんだ」
彼は震える声で続ける。
「お薬が必要なの。でも、お金がなくて……
もう、十日も飲ませてあげられてない」
「ヴァン」
私はしゃがみ込み、彼と目線を合わせた。
「ちゃんと“言って”。何に困ってるのか」
その瞬間、ヴァンは声を上げて泣き出した。
「助けて……! お母さんを、助けて……!」
小さな体を抱きしめる。
その震えが、胸に痛いほど伝わってくる。
助けることは、できる。
お金もある。手を差し伸べることもできる。
──でも。
脳裏に、あの光景がよぎった。
聖女ではないと断じられ、追い出された私。
「……私は、助けられない」
「え……?」
「正確に言うね」
私はゆっくりと言葉を選んだ。
「これは取引。
私たちを助けてくれるなら、私もお母さんを助ける」
「ぼく、なにもできないよ……」
「できるよ。しばらくここに住ませて。
この街のこと、いろんなことを教えてほしい」
しばらく迷ったあと、ヴァンは小さく頷いた。
「……うん」
「取引成立、だね」
立ち上がろうとした、その時。
『……いや。ひとつ、試してみないか』
「え?」
『君の言葉だ。俺にしたように』
胸が、少しだけ高鳴った。
「……効果、あるかな」
ヴァンに導かれ、奥の部屋へと向かう。
そこには、痩せ細った女性が、静かに横たわっていた。
私はそっと近づき、彼女の手を取る。
「大丈夫です」
彼女の目をまっすぐ見て、私は言った。
「……治ります」
その瞬間、
彼女の瞳に、確かに光が宿った。




