第九十二話 生馬と悪魔の死に際
正直に言おう。オレだって多少は死に対して抵抗はあった。もう少し使いが気の利いた言葉を発すれば考え直すこともあり得た。だから最後にヤツと話をする必要があったのだ。ただやはりこいつらは下等生物だ。結局死ぬのが嫌なだけらしい。オレにはその気持ちがよく理解できない。死ぬべき時が来れば死ねばいいではないか。
もういい。ヤツと話をするのももう飽きた。そろそろ逝かせてもらおう。オレは耳にヤツの声が入らないように調整した。ただ、その姿だけは見えるように目にだけ力を入れておいた。オレも興味があるのでね。死の際でオマエがどんな表情を見せるのか。
神木の枝に先程引っ掛けたロープの輪に自分の首を引っ掛けた。神木にはしっかりと手書きの遺書が打ち付けてある。オレが何者かに発見されれば、間違いなく自殺だと分かってもらえるだろう。その為に首吊りのように見せかける演出までしているのだから。後の段取りは非常に簡単だ。
「オレの命よ。閉じて、消えて無くなれ」
そう唱えればオレは死ぬ。それを念じてからオレの命が尽きるまでどのくらい時間が掛かるのかは分からない。数十分掛かるのかもしれないし、瞬時に意識ごとなくなってしまうのかもしれない。未練がないと言えば嘘になる。オレが天の使いなどに憑依されてさえいなければもっともっとこの人間の世界というのを有意義に暮らしてみたかった。愛する家族ともっともっと色んな経験を積みたかった。未練が残るのは仕方がない。死とはそういう味のするものなのだから。
オレは静かに瞳を閉じた。大きく息を吸い込んだ。瞼の裏に焼き付いて離れないのはやはり美佐子と毬と綾の笑顔だった。それに答えるようにオレも少しだけ笑みをこぼし、吸い込んだ息を大きく吐き出しながら心の中で呟いた。
「オレよ。死ね。この世から消えて無くなれ」
目を閉じたままオレはその時を待った。やたらと長い時間に感じられたがものの数十秒後に急に強烈な眠気が襲ってきた。非常に心地良い気分だった。悪魔に睡眠など必要無い為、あまり眠りについたことの無いオレだが、この時の感覚は夢の世界に堕ちて行くのと全く似たような気持ちの良さだった。頭の中がふわふわとした感覚になる。小難しいことは何も考えられない。ある程度決意を持って死の呪文を唱えたつもりだったが、その決意も今は頭の中には存在しない。心は無になり、体は宙を舞っているような感覚だ。そんなオレに話かけてくる何かがいた。いつかどこかで聞いた声だ。ついこの間聞いたばかりの声のはずなのに声の主が誰なのかを思い出すのに多少時間が掛かった。その声はオレのことを呼び続けた。意識が朧で何と呼ばれていたのか覚えていないが。生馬と呼ばれたわけでもなく、悪魔と呼ばれたわけでもなかった気がする。ああ。思い出した。そらの声だ。相変わらず美しくて優しい声をしている。オレを呼ぶ声に返事を返した。聞こえているよと。そしてすまないね、と謝罪した。せっかくそら自らがその手で造り出してくれた体を粗末にしてしまって。
謝ることはない、それはあなたの命なのだからあなたの好きなように使うとよいと優しい言葉を返してくれた。ただ、自ら死を選ぶことは悔いのない決断なのかと問い掛けてきた。
「悔いなどないさ。オレは最善の選択をしたと思っている。オレにとって今一番大切で守るべきものは我が家族だと思っている。だが、悲しいかなオレは天の使いに心も体も乗っ取られてしまった。この状態では家族に迷惑や悲しくて、辛い思いをさせてしまうのは明白だろう。幸いオレに憑依した天の使いはオレから離脱することが出来ないと言う。それならば、オレの身体ごと天の使いを葬りさるのが最善だと考えただけさ」




