第八十七話 最後のキス
旅立ちの用意が全て整うとオレはすぐに家を出ようとした。もう満足していた。玄関先まで見送りをしてくれる美佐子に向かって、
「じゃあ、行ってくるよ」
最後のキスをしてオレは玄関の扉を開いてオレは外に出た。
今日はいつもとは違い車に乗らずに駅へ歩いて向かう。駅までの道のりがやけに長く感じた。駅に着いたら目的地までの切符を買う。ここからの道のりもまだまだ長いのだ。JRで約一時間、その後私鉄に乗り継いでま一時間程。ずっと窓の外の景色を眺めながら目的地までの道のりをボンヤリと過ごした。随分と田舎の駅まで来たものだ。こんな駅で下車する者はオレ以外には誰もいない。車掌に切符と電車賃を払ってプラットホームに降り立つ。見渡しても見渡しても人の気配などまるで無い。眼前に広がるのは緑色に染まった山ばかりだ。目的地まではここからかなりの距離があるが、当然タクシーなどは見当たらない。まあ、いい。どうせ誰の目につくこともない。
少し足に力を入れて悪魔本来の脚力を使えば二,三十分もあれば目的地にたどり着くことができるだろう。周囲に多少気を配りながらオレは駆け足で山の中へと向かった。
鬱蒼と木々が茂る山道を進む。ここまでくると道路も大分狭くなり、斜面も急になってくる。蝉やら鳥やらの声がやたらとでかく聞こえる。人間生馬を観察している時も、憑依してからもこんな景色を見るのは初めてだ。この世の中にこんな世界があったのか。人間の匂いも気配も微塵も感じられない。大分山の奥までやってきたものだ。おそらく七合目あたりまでは登って来ただろう。いつの間にかオレの足元も舗装された道路ではなく砂利道に変わっていた。周りはもう完全に木々に囲まれていた。随分と幹も枝も太い木々だ。相当な時間を掛けてここまで大きく育ったのだろう。もしかしたらこいつらの寿命というものは悪魔と同じくらいか、それよりも長いかも知れないな。
聞いたことも無い動物の鳴き声がたまに耳に入ってくる。鳴き声と言うよりも咆哮に近いものだと感じられた。何かを威嚇しているような。もしかしたらこんな所にやってくる妖しい人間、オレに向かって咆えているのかもしれないな。
もう、このあたりでいいか。砂利道から離れて足を山の中の方向に向け直して進んで行った。この時にはもう悪魔の持つ脚力は自然と使わなくなっていた。普通の人間と同じ速度で、オレの胸の高さ程にまで育った雑草を掻き分けて中へ中へと。




