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第八十六話 手話

 夕食後、毬と綾が二階の自室に戻った後、ソファでボーッと時間を潰しているオレの横に美佐子が座ってオレの膝の上に一冊の本を置いた。その本のタイトルは、


「誰にでもできる手話入門」


声を出せなくなってから美佐子は何か話がある時は、用件を簡単に紙に書いてオレに伝えてきた。だが、今はそうはしなかった。ただ、オレにその本を渡しただけで。

 声にはならなくとも美佐子の言いたいことは十分オレに伝わってきた。


「手話を使ってあなたと色々お話できるようにするね」

 

その言葉にならない言葉が十分過ぎる程オレの胸に響いた。更に何かを伝えたいのだろう。美佐子はオレに手話で一生懸命に何かを繰り返し訴えかけてきた。何を言いたいのかがオレにはよく分からない。美佐子は本をパラパラとめくり、あるページを開いて指さしてオレの目の前に突き付けた。


「愛しています」


 そのページの見出しにはそう書かれていた。オレはたまらず美佐子を強く抱き締めた。そして彼女の耳元で、


「オレもとてもお前を愛しているよ」


そう伝えた。美佐子は喋ることは叶わなくても、人の声を聴きとることは可能なのだ。オレの言葉を聞いて彼女はそっとオレの身体に手を廻した。それを感じてオレは確信を持った。この愛すべき家族を天の使いなどの汚らわしい悪意に染めさせることなど絶対に許される筈もない。


 数日後、オレは会社を欠勤した。吉本支店長には妻の具合が悪いからとだけ伝えた。支店長は気を悪くする様な態度は全くとらずに、しっかり美佐子の傍にいてやるようにとだけ言ってくれた。誠に有り難いことだった。オレは心の中で何度も支店長に礼を言った。しかしオレは家族にはその話を正直に話はしなかった。明日から長い出張に出ることになるので今日はその準備の為に会社を休むのだと伝えた。誰もその言葉を疑う者などいない。今回の出張では四、五日は家に戻れないのだと美佐子に伝えると、彼女はオレの身支度を揃える手伝いを率先してやってくれた。万が一に備え七日分の下着やワイシャツを揃えて丁寧に畳んでキャリーバッグの中に詰め込んでくれた。オレが何も頼みもしないのにそんなことを黙々とこなしてくれる美佐子のことがとても愛おしくてオレは彼女を後ろから強く抱き締めた。美佐子はそれに驚く様子も見せずに静かにオレの頭を撫でてくれた。オレはさらに力強く美佐子の身体を抱き締めた。美佐子はオレの唇にそっと手を当ててきた。美佐子がどんなつもりでそんな行動をとったのかは分かる筈もないのだが、オレは美佐子の唇に自分の口を強く押し当てた。これまでにしたことの無いくらい激しいキスをした。オレの舌は美佐子の口の中を激しく舐めまわして、それから彼女の首元、胸元へと舌を移動させた。これまでなら美佐子はここまですればとても艶っぽい声をオレに聞かせてくれたはずだ。だが、今の彼女にはそれができない。そして、それを不可能にさせてしまったのはオレ自身なのだ。そう思うとオレの行為もそれ以上には進められなかった。オレに寄りかかるようにしている美佐子をそっと引き剥がし、オレは美佐子に言った。


「愛しているよ。いつまでも。どんなことが起ころうとも」


 美佐子はとても哀しそうな顔をしていた。こんなオレともっと愛し合いたいと思っていてくれているのだろうか。本当はオレだってそう思っているよ。しかし、これ以上ふたりが重なりあってしまえばオレは旅立てなくなってしまう。最後にオレは彼女の首元に軽くキスをした。


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