第八十一話 舞い
病院の玄関前に姿を現したタクシーに全員で乗り込んだ。こんなに気分の悪い夜は初めてだった。だが、何故こんなにも気分が悪いのかは未だオレは理解していなかった。
それから五日が経過した。美佐子の喉は全く回復する気配すらなかった。だが彼女はこれまで以上に明るい笑顔を見せる時間が多くなり、オレもふたりの娘も少しは安心してしまった。オレはあの日以来毎日できるだけ早く会社から帰宅するように心掛けていた。そして、これまでよりもずっと長い時間を美佐子と過ごすように心掛けてきた。美佐子は話をすることができないのだ。その代わりオレがたくさんの話を彼女に聞かせてやりたいと考えていた。美佐子は明るい話が大好きだった。だからオレは一日をできるだけ愉快に過ごすことを心掛けた。オレが愉快な体験をしないと美佐子にそれを伝えてやることもできやしない。美佐子は本当に嬉しそうにオレの話を聞いてくれた。勘のいい彼女のことだ。オレが彼女を喜ばせようとしていることは分かっていたのだろう。だからだろうか、美佐子が声を失ったあの日のあの話を蒸し返そうともしてこなかった。
その日もいつもの時間に美佐子と一緒に寝室のベッドに横になった。ふたりは別々のシングルサイズのベッドで寝ているのだが、オレがこの体に憑依するまではふたつのベッドの間には今より大きな空間があった。オレがこの体を支配するようになってから、オレの提案でふたつのベッドを並べるようになったのだ。美佐子の寝息すらも聞こえてくるくらいにふたりの距離は近かった。その晩、それぞれのベッドに潜って、さあ眠ろうかと思っている時に美佐子がオレの手を握り締めてきた。オレはそっと体を横向きにさせて美佐子の顔を見つめた。美佐子もこちらに顔を向けていた。眠っていたのかどうかは分からなかったが、彼女は目を閉じていた。しかし、その目からは涙が流れているのを容易に確認した。オレ達は寝る時には部屋の明かりは全て消して寝ることにしている。美佐子からしてみたら自分が泣いている姿などオレに見えるはずがないと思っているのだろう。しかし、オレには泣き顔がはっきりと見えている。オレは言葉を発することはせず美佐子の手を軽く握り返した。
ああ。やはり美佐子はいい女だ。いや、人間としても非常に愛おしい存在だと思えた。やはりオレは美佐子を愛している。この間はオレの頭がどうにかしていたのだ。こんなにも美しく、優しく、気持ちの良い人間を傷付けてしまうとは。オレは再び激しい後悔の念に襲われた。そして、同時に疑問に感じることもあった。いつまで美佐子の口は塞がれたままでいるのだろう。確かにオレはあの晩美佐子に向かって、
「もうこれ以上喋るな」
とは指令を出した。だがオレは一時的に美佐子の口を封じるだけのつもりだったのに。こんなにも長い時間彼女を苦しめるつもりなど無かった。オレの意思とオレの能力がどこか噛み合っていない気がする。そもそも、何故オレはあんなにも感情的になってしまったのだろうか。冷静に考えればあの日の美佐子を黙らせる方法などいくらでもあったはずだ。あの日に限ったことではない。最近のオレは激しく冷静さを欠いているような気がする。
よくよく思い返してみれば、可愛い毬の顔に大きくて深い傷を負わせてしまったのもオレだ。さらにもっと前に公園で遊んでいた薫とかいう餓鬼に対して食欲を抑えられなかったことも今となっては不思議でならない。これまで人間を喰いたいと思うことなど全くなかったはずだ。心音のことは例外として。今のオレは怒りも興奮も食欲も制御することが困難になっている。オレがオレでなくなる瞬間があるのだ。オレに訪れる異変はひとつひとつはたいしたことがない。人間のような脆弱な生き物であれば身体や心に小さな異変が起きれば、その行動にも異常をきたすこともあるだろう。しかし、オレは優秀な悪魔であるのだ。そうそう簡単に異常行動をとるような愚かな生物とはわけが違うのだ。そもそも悪魔の身体や心に異変など起こり得るだろうか。
ゾッとした。心が凍えるような感覚。心の臓が冷たい氷の固まりに閉じ込められてしまったような冷たい感覚。オレの頭に浮かんだ小さな可能性があまりに恐ろしいものであったから。思わずベッドから身を起こした。そして改めてもう一度目を瞑った。そのまましばらく暗闇の中に身を置いて気持ちを落ち着かせた。そして思い切って目を開いて自分の頭上を見つめた。目に悪魔の力を十分に込めて。そこには小さな身体をくるくると回しながら気味の悪い笑顔でこちらを見つめているヤツがいた。ついこの間まで綾に、毬に付きまとっていた忌まわしい天の使いが。間違いなくオレの頭上にいる。間違いなくこのオレに憑依している。




