第八十話 握りなおした手
救急車というものは不便なもので、病院まで運んできてはくれるが帰り道は自分でタクシーでも拾って帰れと言う。仕方がないので病院の玄関前にてタクシーの送迎を依頼する電話を掛ける。タクシーが到着するまでにふたりの娘は美佐子の身を案じて色んな言葉を投げ掛け続ける。母の体調を心配する言葉、元気づけるように励ます言葉、母に笑顔になってもらう為に少し下らないジョークなども織り交ぜながら母に語りかけ続ける。美佐子はふたりの気持ちを察していたのだろう。全ての言葉に笑顔で頷き、娘の頭を撫でたり抱き締めたりしていた。
「お母さんは大丈夫よ。必ずすぐに良くなるわ。励ましてくれてどうもありがとうね」
声にはならないけれどそんなことを伝えたいような優しい笑顔でふたりに接していた。そしてしばらくしてから美佐子はオレの腕に自分の腕を絡めてすり寄って来た。オレがそれに気が付くと腕を離してオレに向かって深々と頭を下げた。オレには美佐子が何を伝えようとしているのか全く分からなかった。そして美佐子はオレの手を握り軽く上下に振った。その時の美佐子の顔はいつもの愛らしい彼女のそれだった。つい先ほどまでオレに見せていた強気の態度は微塵も感じさせなかった。やはりオレには美佐子が何を言いたいのかは見当もつかない。しかし、オレ達のやり取りを見ていたふたりの娘達には美佐子の言いたいことが手に取るように分かるようだった。
「お父さん。お母さんはお礼を言っているんだよ。ついさっきまで言い争いをしていたのに、お父さんがいつもの優しいお父さんに戻って急いで病院まで連れて来てくれたことをありがとうって言っているんだよ」
毬にそう伝えられたが、どうにもそれは信じ難い話だ。オレ達はつい先ほどまでいがみ合っていたのだ。少なくともオレは美佐子の存在そのものを鬱陶しいとまで思っていたのだ。だからこそ美佐子は今こんなに苦しんでいるのだ。今のオレは美佐子のことを愛しているなどとはこれっぽっちも想うことなどできやしない。
それでも、美佐子はオレに感謝の気持ちを示そうとしていると言うのか。そんなことは、にわかには信じられないがオレは美佐子の手を両手で握り締めてみた。美佐子はにっこりと微笑んでそれを握り返してくれた。その時初めてオレは自分のしてしまったことの愚かさに気が付いた。美佐子は悪魔であるオレに初めて愛情というものを教えてくれた尊い存在ではなかったのか。オレは美佐子が与えてくれる愛情にどっぷりと浸かり、幸せを感じていたはずではないのか。今夜美佐子が激しく主張したことも娘の毬のことを十分良く考えて口にしたことなど明白ではないのか。オレは自分のしたことを後悔もしたし、恥も感じた。
つい先程まで、偉大な悪魔がたかだか一匹の人間の言葉を奪ったことくらい何のことはないと開き直っていた自分が惨めに感じられて仕方がなかった。たかだが人間と口論をしたくらいで安易に悪魔の能力を使ってしまった自分が醜い存在だと考えてしまった。




