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第七十九話 あなた。助けて

 

「もうこれ以上喋るな。」


反射的にそう心の中で叫んだ。


以前毬に向かって、


「文彦との結婚は諦めろ」


と言った時より大分強い口調で指示をしたと思う。直後に美佐子は右手で口を押えて激しく咳き込んだ。何かを口から吐き出しそうなくらい激しい勢いで咳き込んだ。右手を口から離した時、その手は真っ赤な血で染められていた。血はそれを塞いだ手では止まることを知らずに彼女の口元から流れ続けた。それが相当に苦しかったのだろうし、あまりに突然出来事で驚いてしまったのだろう。美佐子の表情は先程までの毅然とした態度とは打って変り、強く怯えた顔をしてオレに手を差し伸べてきた。


「あなた。助けて」


そう訴えているのはよく分かったがオレにはどうすることもできないのだよ。美佐子は口を大きく開きながらオレに向かって、


「苦しい。痛い」


と訴えかけている様だった。オレは美佐子の頭を抱え込んで耳元で囁いた。


「大丈夫だ。すぐに良くなるよ」


 別に美佐子を励ます為だけに言ったわけではないつもりだった。美佐子の口が塞がれるのはほんの一瞬のことであるとオレはそう思っていたのだから。

 美佐子はオレにしがみ付いて嗚咽を繰り返した。何かを伝えようとしているか、それともただ泣いているだけなのかも区別がつかない。


 特に美佐子のことを不憫だと思った記憶はない。自業自得なのだよと思っていた。お前がオレにたてつくからこういうことになるのだよと。しばらくは声を出すことは叶わないと思うが辛抱してくれ。そしてオレに刃向ったことを大いに反省してくれ。オレのいうことに従わないとこういう恐ろしい目に遭うのだよ。


腹の中ではそう考えながらも、オレは美佐子を心配して、彼女と一緒に恐れおののいているかのような態度をとって見せた。彼女を抱き締め、口元の血をタオルで綺麗に拭ってやり、彼女の唇にオレの唇を重ねた。大丈夫だ、オレが一緒にいるから心配するなと口にした。美佐子は何かを握り締めてその手を耳にあてるような仕草をした。ああ、電話をしろと言っているのだな。すぐに理解した。


オレはテーブルに置いてあった携帯電話から百十九番にダイヤルして救急車を呼んだ。ものの十分もしないうちに救急車は我が家に到着した。その様子に気が付き毬と綾が二階の自室からリビングに駆け足で降りてくる。


ああ、そうか。ふたりには美佐子の異常を伝えていなかったな。その程度にしか思わなかった。玄関のチャイムが鳴り、扉を開けるとふたりの救急隊員が飛び込んで来た。患者さんはどちらですか?と大きな声で問いかけてくるのでオレはふたりをリビングに案内した。オレももう少し慌てた様子を見せた方が良かったのか。救急隊員は美佐子の横に立膝をついて、大丈夫ですか?具合はどうですか?と質問攻めにする。阿呆か。オレは百十九番した時に嫁が急に声を出すことができなくなったと伝えたであろうが。救急隊員は美佐子の手を引き、救急車に誘導した。


「旦那さんも一緒にお乗り下さい」


 大変かったるかったがそれに従わざるをおえなかった。毬と綾も慌てて車に乗り込んだ。オレも救急隊員もそれを制することはしなかった。


 車の中で救急隊員はできる限りの問診をしようと試みるが当然美佐子は喋ることなどできはしない。必然とやつらの質問はオレに向けられた。対応するのはとても億劫だったが、ここは悲劇に巻き込まれた夫を演出するしかない。オレは可能な限り事細かに美佐子の声が出なくなるまでの経緯を説明した。何も隠すこともごまかすこともない。只々ありのままを細かく説明してやった。オレ達を乗せた車は他の車の列をかき分けて総合病院に辿り着いた。そこは毬の顔に大きな傷が付けられた時に搬送された病院と同じ病院だった。

 

診察はすぐに行われたが担当した医師は首を傾げることしかできない。美佐子の口内にも喉にも特に異常は見られないと言う。ふたりの娘はとても心配そうに医師の話を聞いている。お願いだから母の異常を治してあげて欲しいと嘆願する。せめて異常の原因だけでも突き止めてあげて欲しいと声をあげる。医師は懸命に触診を続けるがやがて我々家族の方を見て悲しそうな顔で首を横に振る。オレはそれを予想、いや確信していたわけだがふたりの優しい娘達は医師の反応を見て泣き出してしまった。オレはまだ心のどこかで美佐子のことを憎々しく思っていたからであろうか、ふたりに気の利いた言葉を掛けてやることもできなかった。


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