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第七十三話 晩酌

 毬の顔の手術から二週間程あったであろうか。我が家には全く新しい明るい光が降り注いでいた。いや、オレがこれまでその眩い光に気付いていなかっただけなのだろうか。家庭内には温和で柔和な空気が漂っていたと実感している。


毬本人も美佐子も綾もとても穏やかな顔色をしている。それを見ると自然とオレ自身も暖かな気分になることができた。しばらくはそんな穏やかな日が続くものだと思っていた。だが、それはある日突然やってきた。

 

いつもはオレが会社から帰ると笑顔で出迎えてくれるはずのふたりの娘はそれぞれの部屋に閉じ困ったまま出てこなかった。その時点で不穏な何かが我が家を支配していることは理解した。いつもと変わらず振る舞ってくれるのは美佐子だけ。美佐子はオレが風呂からあがると普段と変わらず暖かい食事と冷たい瓶ビールを用意してくれた。毬と綾に何かあったのか?オレは美佐子に尋ねた。特にいつもと変わりありませんよと彼女は答えた。


美佐子がビールをオレの手元のグラスに丁寧に注いでくれた。オレがそれを一気に飲み干すと、最近はお酒がよくすすむのねと笑顔で言いながら美佐子は空のグラスをまたビールで満たしてくれた。そして小鉢に入れたオレ好みの野菜中心の料理を次々にカウンターテーブルに並べてくれる。生馬が人間だった頃とは大分食の嗜好は変わっているはずだ。人間生馬はどちらかというと肉や魚を好んで食っていたはず。ところが美佐子は生馬の趣味、嗜好が変わったことにも敏感でオレが何も言わなくても食卓には野菜をメインとした料理を並べてくれる。


それにしても今日はオレの好みの食事ばかりがテーブルに並ぶのでオレは何か不自然すぎることに勘付いた。食事を作り終えた美佐子はカウンターテーブルのオレの隣の椅子に腰掛けた。手には小さなグラスを持っている。そのグラスをオレの前に差出しこう言った。


「ねえ。わたしにもビールをちょっとだけ下さる?」


 美佐子は滅多に酒を飲まない。飲むのはオレが勧めた時だけだ。人間生馬を観察している時もそうだった。


「ああ。たまには酒でも飲んで酔ってしまえよ」


 そう言って美佐子の持つグラスにビールを注いだが、美佐子から何かしらの話があるのだろうということはある程度想像はついていた。父親が仕事から帰っても自室に閉じこもっている娘達、普段は全く飲まない酒をねだってくる嫁。これで何かを予感しない悪魔も人間も存在しない。だがオレからは何も尋ねたりはしない。あくまで美佐子が自主的に話し掛けてくるのを待った。美佐子は注がれたビールを一気に飲み干し、オレは空になった彼女のグラスに再びビールを注いだ。彼女は継ぎ足されたビールを一口飲んだ後に大きなため息をついた。


「お食事中にごめんなさいね。ちょっとだけお話を聞いてもらってもいいかしら」


 何か話があることは分かっていたが、その内容までは全く想像もつかない。ただ、愉快な話ではないことくらい想像はついていた。(20250823第七十二話 晩酌)


第七十三話 驚かないで聞いてくださいね


「今日ね。毬が学校から帰って来た時に相談を受けたの。わたしはびっくりしちゃったのだけどどうか驚かないで聞いて下さいね。


あの子、谷田部君、あの子を妊娠させた彼と結婚がしたいって言い出したの。わたしはあの子がそんなことを考えているなんて想像もしたことがなかった。ついこの間あなたがあの子が不自由なく子供を産んで育てる為に必要なことを誓約書にして谷田部君とお父さんに了承をもらってきてくれたでしょう。


わたしはあなたが書いてくれた内容で十分だと思っていたし、きっと毬も安心したし満足してくれたものだと思っていたの。だけどあの子はひとつだけ肝心なことが抜けていると言ったの。それは谷田部君が結婚できる年齢になり次第、自分と結婚することだと言うの。わたし信じられなかったわ。


だって毬は彼に心も体も傷付けられたという認識しかなかったのですから。毬自身もそう感じているものだと思っていたわ。だからわたしは毬の言うことに反対したわ。あなたはまだ若すぎるのだから。本当に愛することができる相手を見つけるのにはもっともっと色んな男性と出会って、色んな経験をすることが必要なのよって」


 毬のやつ。オレを口説き落とすのは無理であることを悟ったのか、今度は美佐子を味方につけようというつもりか。美佐子の話を聞く限り、毬はどうやらこの話をオレに何度もしたことは母親には伏せているようだ。オレもそんな話は初めて聞いたという態度で美佐子の話を聞き、返答をした。


「ああ。そうだな。君の言う通りだよ。毬の年齢ではまだ生涯の伴侶を決めるなんてことは早すぎる。おそらく毬は谷田部君のことが好きなのだろうな。それもかなり情熱的に。そうでもなければ子供をつくるなんて行為はしないだろうかな。


あの子は決して一時の感情なんかに流される考えの浅い子ではないと思うよ。だから心から彼を愛していたのだろう。だが、盲目的すぎるよな。毬も今は焦っているし、頭も興奮した状態なのだろう。しばらくすればオレ達の話も分かってくれるさ。だから君もあまり気にし過ぎないことだ」


「あなたならきっとそう言うと思っていたわ」


 美佐子はグラスのビールを再び飲み干して、空になったグラスをオレの方に差し出してきた。いつもは殆ど酒を飲まない美佐子なのだが今日はやけに酒が進む。余程毬の我儘に頭を悩ませているのだろうな、とその時は思った。オレは大きな勘違いをしていた。


「あのね。大事な話はここからなの」


改めて言うまでもないがオレは美佐子を心から愛していた。彼女の心に何か引っかかるものがあればそれを取り除いてやりたいし、望むことがあれば何でも叶えてやりたいと思っていた。


「あなたの言う通り毬はまだまだ子供だわ。それにやっぱり今は頭が熱くなっている状態よね」


 オレも手元のビールを飲み干した。美佐子はすぐにビール瓶を手に取って空になったオレのグラスにビールを注いでくれた。おそらく美佐子はどのように、何という言葉で毬を諭してやろうかを悩んでいるものだとオレは思い込んでいた。しかし、美佐子の口から出た言葉はオレの想像の範疇を超えものだった。


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