第六十九話 覚悟
毬はぼんやりと医師の話を聞いていた。まるで他人の顔の話を聞いているかのように。嘆き、落胆しているのは美佐子の方だった。医師の答えを聞くなり大きなため息をついて、目には涙さえも浮かべていた。
悲愴な顔をする美佐子を見つめながらオレは少しばかり後悔をしていた。何故オレは愛おしいはずの毬の顔にあんなに大きな傷を負わせてしまったのだろう。文彦と結婚したいなどという毬の言葉には確かに疑問を感じた。しかし、悪魔であるこのオレがそんなに激怒するほどのことだろうか。オレはいつでもどんな人間の態度でも冷ややかな目で見つめてきた。どんなに下らない発言だとしても、ああ、人間とはこんなに愚かなものなのかと冷めた視線で見つめてきたはずだった。
何故今回に限ってこんなにも激情をあらわにしてしまったのだろうか。自らやってしまったことながら不思議で仕方がなかった。これでは愚かしいと思っていた人間と同じではないか。今回ばかりはオレの力で毬の傷を治してやることは叶わない。だから今は医者というものの力を信じるしかない。毬自身の持つ自然治癒力というものに期待するしかない。自分でこんなことをしていて何だが、オレは毬の傷の回復を心から願っていた。何もしてやることができない自分に苛立ち、情けない気分が湧き上がっていた。
その惨めな想いが顔に出てしまっていたのだろう。毬はオレと美佐子の顔を交互に見つめながら明るい声で我々を奮い立たせるように言った。
「そんなに暗い顔をしないでよ。大きな傷がついちゃったけどわたしは痛くもなんともないし。それに皮膚移植をすれば良くなるってお医者さんも言ってくれているんだから。何よりも傷付けられたのがおなかじゃなくて顔で本当に良かったよ。おなかの子供には何の悪影響もないんだから、それだけでも有難いと思わないと。
大丈夫。このくらいのことでは文彦君もわたしのことを嫌いになったり、ひいたりしないよ。ううん。きっと優しいあの人のことだから、より一層わたしのことを大切にしてくれるよ。わたしを励まして元気な子供を産めるように気遣ってくれるよ」
この娘はこんな時でもあの男のことを想っているのか。オレはやはり毬とあの男の結婚などは認められはしない。だが、毬の態度を見ていると多少は感心せざるを得ない。毬のあの男を想う気持ちは本物なのだろう。人間の意思というものは時にこんなにも強いものであるのか。悪魔ともあろうものが多少人間の持つ力というものに感心さえしてしまった。
「先生。わたしどんな手術でも治療でも頑張って受けます。実はわたしもうすぐ子供を出産する予定なんです。産まれてくる子供をできるだけ綺麗な顔で迎え入れたいんです。ですから先生、わたしの顔が少しでも元に戻るようにご協力をお願いします」
非常に凛とした態度であった。まだ子供だと甘く見ていたが、今まさに毬の小さな口から出た言葉は力強かった。そしてその顔もまた同様に頼もしいものに聞こえた。ああ、こいつは誠に親になるということを強く自覚しているのだな。そしてその為のひとつのステップとして文彦との結婚というものを真剣に考えているのだな。大人であれ子供であれこんなに真剣な顔をする人間を見たことが無い。つい先程までは憎々しくも見えた毬の表情だが、今では力強く頼もしい顔つきだと感じさせられた。




