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第六十六話 逃げ出した雨

 人間というものの怒りとはどんな感情なのかを理解するにはオレには頭が足りなかった。それはあくまで敵に対して向けられる感情だと思っていた。怒りと憎しみはほぼ同意語であると思っていた。いいや、今でもそれは変わらない。実は人間の怒りというものは、相手を思いやる気持ちが強すぎるときにも湧いて出るものであることなど知らなかった。


オレは毬に対して強い怒りを感じた。何故だったのだろう。


反射的に手が出た。右手で強く毬の顔を叩いた。景気のいい音はしなかった。違和感を感じた。やりすぎたかと思うくらいかなりの力で叩いたはずなのに。毬の顔を見つめる。涙が流れている。しかし、流れているのは涙だけではなかった。大量の血が顔の左半分から流れていた。オレは自分の右手を眺める。爪が尋常ではないくらい伸びていた。まずいと思いすぐそれを引っ込めた。


「お母さん。助けて!」


悲鳴に近い甲高い声で毬は叫んだ。もう一度大きな声で叫ぶ。


「助けて!誰か助けて!」


風呂場から勢いよく美佐子が飛び出してくる。バスタオル一枚を羽織って。髪の毛はびしょびしょに濡らしたまま。


「毬!どうしたの?」


リビングに飛び込んでくるなり美佐子は大きな悲鳴を上げる。階段を駆け下りる音がする。


「お姉ちゃん!大丈夫!?」


綾は毬の顔を見て立ちすくむ。あまりの驚きと恐怖に動けもしない。

危機を感じた。オレ自身の。そして、家族の。人間生馬に憑依して初めて感じる危機だった。


「お母さん。助けて」


毬は美佐子の胸に飛び込み顔を埋めた。美佐子が体に巻いている白いバスタオルが見る見る赤く染まる。美佐子はそんなことは全く気にせず毬の頭を抱え込む。毬が大きな声で泣き出す。オレは静かに我に返った。


しかし、どうしていいのか分からない。先程まで感じていた毬に対する怒りなどとうに無くなっていた。誰もオレの方など見てもいない。落ち着いているつもりだったが、手が震えた。なんだこの感覚は。この気持ちは。本能的にオレは立ち上がり部屋を出た。そして家の外に逃げ出した。この場にいるのはまずい。この感情のままでいるのはまずい。取り敢えず逃げ出したい。


 気が付いたときには、近所の公園でウイスキーの瓶を片手に握ってベンチに座っていた。何故そんなものを握り締めていたのだろう。そうだ、オレは酔っぱらいたかったのだ。ビールでは物足りない。こいつを原液で腹の中に流し込めば少しは落ち着くと思ったのだろう。実際それを四分の三程飲み込んだ時にやっと我に返った。足元には煙草の吸殻が数本散らばっている。やっとそれに気が付くことができた。ああ、オレは取り返しのつかないことをやってしまったのだな。もう一度ウイスキーの瓶を口に当てがってからまた煙草に火を付けた。大きく吸い込んで大きく吐き出す。ふと思った。そうなのか?オレがやってしまったことは果たして取り返しのつかないことなのか?いや、決してそんなことはないではないか。あれを無かったことにするのは困難なことではないだろう。家族全員の記憶を消してしまえばよいのだ。文字通り無かったことにすればいい。毬の文彦と結婚したいという意思をひっくり返すのは難しいことだったが、これはそれほど労力のいることだとは感じなかった。


思い立ったら今すぐ行動に移すべきだと感じた。可能性は低いかもしれない。もしかしたら家族が警察でも呼んでいるかもしれない。そんなことになっていたら面倒だ。警察官の記憶も一緒に消してしまえばいいだけだが、誰かが我が家に警察官がやってくるのを目撃しているかもしれない。幾らなんでも不特定多数の人間の記憶を全て消し去るのは面倒くさい。


 僅かでがあるが、ポツリポツリと小雨が降り始めていた。

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