第六十三話 結婚願望
ある日の晩、オレはリビングで新聞を読んでいた。正確には新聞を読んでいるふりをして退屈な時間を潰していた。少し前までは新聞というものに多少の興味はあった。人間どもがどんな事件を起こしたり、どんな思想を持っているかの情報が詰まったこの紙の束は興味深いものであった。しかし何故か最近は人間の所業というものにまるで興味が湧かない。人間界というものに飽きがきてしまったのか。そういう部分もあるかもしれない。最近は仕事に行くのも億劫だ。毎日毎日、顧客回りをして同じような商品を売りつける。これが人間の所業であれば売りつけるという言葉は適切ではないかもしれない。やつらは顧客の機嫌をとったり、時には提案書などを作って営業活動をしているらしい。オレはと言えば商品を買って貰いたいときには顧客の脳に買えと訴えるだけだ。それに毎日販売の実績を残す必要もないのだ。そんなときは顧客のつまらない会話に適当に相槌を打って笑顔を絶やさなければ、それで一日の仕事を十分こなしたことになる。人間生馬に憑依したばかりの頃は他の人間と会話をするのもそれなりに楽しく刺激的であったのだが、今ではもうそんな新鮮な気持ちは無くなってしまっている。
新聞にも毎日同じようなニュースしか掲載されていない。やれどこぞで殺人事件が起きただとか、政治の世界がどうとか、経済の状況がどうだとか。それが一体どうだというのか。もしかしたらオレの生活にも深いところでは何か影響があるのかもしれないが、オレには直接的にはなんの関係もないとしか思えない。今では新聞を読むのは暇つぶしにしかなっていなかった。オレは日常生活を退屈に感じるようになっていたのだ。
オレが新聞を読んでいるふりをしている時、リビングには他に誰もいなかった。美佐子は風呂に入っているし、綾は自室に閉じこもっていた。オレがひとりでいるのを確認したかのようなタイミングで毬がオレの腰かけているソファの隣に座って小声で話し掛けてきた。
「ねえ、お父さん。あの話考えてみてくれたかなあ?」
ああ。文彦と結婚したいというあの話か。正直そんな話は忘れていた。オレはてっきり毬はオレの力によってその話は諦めてくれたものだと思い込んでいた。どうやら、まだオレの能力をも超越するくらい毬の意思は固いのだろう。以前のオレならここで慌てふためいていたかもしれない。何故オレの言うことが聞けないのかと。だが、先日そらから人間の意思というものが時には悪魔の力を上回ることがあるということを学ばせてもらった。それでも繰り返し悪魔の能力で脳に指示を出し続ければ、いつかは人間はそれに従うということも聞かされている。だからオレはいつもやるように毬の目をじっと見つめ、
「文彦と結婚することは諦めろ」
と唱え続けた。だが、毬の意思というものは余程固いものなのであろう。オレを強い視線で見つめ返して話を続けた。
「ねえ、どうかな。わたしは真剣だよ。本気であの人と結婚したいと思っている。その気持ちはちゃんとお父さんには伝わっているのかな。本気でそう思っているけど不安なの。あの人はもちろんわたしと結婚したいと言ってくれると思うけどあの人のご両親がね、どう思うか。だからちゃんと誓約書で縛り付けたいの。わたしと結婚してわたしとおなかの子供を面倒見ることだって立派な責任の取り方のひとつだよね。あの人のご両親のことは誓約書で無理やり縛り付けてもいいと思っている。だけど、お父さんとお母さんには心からあの人との結婚を認めて欲しいし、祝福もしてもらいたいの。だから、お父さんは今どう思っているのかなって気になるの。
わたしね。この間あの人にちゃんと聞いてみたの。わたしと結婚してわたしと子供を幸せにする気はあるのかって。あの人は躊躇せずに答えてくれたよ。もちろんだって。ちゃんと真面目な顔ではっきり答えてくれた。だからもしも必要ならお父さんもあの人と話をして欲しいなって思っているんだけど、どうかな?」
もう一度毬の脳に語りかけた後、今度は声に出して毬に答えた。




