第六話 支店長からの依頼
「おはようございます」
そう言いながら。オレが事務所に入るとオレの所属する課の人間の視線が一気にオレに集まった。オレは何か不備があったかな?そう思いながら自分のデスクに腰を掛けた。すると隣の席の部長に鋭い声で、
「おい。ネクタイはどうした。」
そう言われた。ああ、そうだ。あまりの窮屈さに外したのを忘れていた。オレは慌ててポケットからネクタイを取り出し身に付けた。それにしてもだ。このネクタイをしていないだけで、こんなにもきつい一言を浴びせられるとは思ってもいなかった。恐らくオレが事務所に入って来たときに視線を集めたのもネクタイのせいだろう。先日の夜はこの部長も生馬とともに何ひとつ気兼ねがないように振舞っていたくせにネクタイひとつでやかましいわと言った感じである。部長の名前は志茂田という。はっきり言って営業成績は生馬の方が上回っている。それなのにあんなに偉そうな口調でこのオレに意見をしてくるとは正直納得がいかなかった。人間の社会はある程度格差社会で、ピラミッドの下位の者が上位の者に意見される場合は、かなり侮辱するような態度をとられてもやむを得ないというのは理解していたつもりだが、このときはいささか腹が立った。近いうちに志茂田をぎゃふんと言わせてやろうというのがこのオレの最初の目標になった。いかにも悪魔的な発想であろう。
わが組織には部長の志茂田がおり、その下にオレを含め6人の営業担当者がいる。そして志茂田の上には吉本という支店長がいて、こいつが事実上のトップだ。オレがこれまで見てきた限りでは吉本と生馬はかなり仲が良い。他の営業担当者とくらべても特に生馬は可愛がられているようにオレには見えた。しばらくしてからその吉本支店長に声を掛けられた。
オレは吉本に促されるまま、応接室に入っていった。まだ何か不備があったかなと疑問に思っていたが、吉本がオレを呼び出した理由は全くオレが想像していたものとは違っていた。
「おい。今月もまた絶好調らしいじゃないか」
おそらく営業成績のことを言っているのだろうが、オレにはこう答えるしかなかった。
「いや。まだまだでございます」
別に謙遜しているわけではない。今月の人間生馬は営業成績、つまり売上という実績の面ではなんの成果も残していない。それがどうして絶好調と言われるのかオレにはわけが分からなかった。
「実はな。お前に相談があるんだが、お前の後輩の藤井なんだが。やつももう入社して3年になるんだよな。しかし、まだまだ営業とは何か、どうすれば会社の数字に貢献できるかということを知らないでここまで来たようなんだ。生馬、お前が教育担当者として藤井に営業のあるべき姿というものを見せて、教えてやって欲しいんだ」
そんなことも言われてもあなた目の前にいるのは、昨日までの、
「有難うございました」
を連呼できる人間生馬とは違うのだぞ。営業経験でいえば、オレが一番若いのだ。吉本支店長はそんなことは知るはずもなくオレに頭を下げてきた。
「お断りします」
はっきりとそう答えてやった。こっちは悪魔には無縁の営業活動とやらを今日から行わなければならないのだ。入社何年目の何て奴だが知らんが他人についてこられては正直足手まといであるのだ。
「まあそう言わずに頼むよ、生馬。後輩の面倒を見られる甲斐性のあるやつなんてうちの部署にはお前くらいしかいないのだから」
笑いながら吉本支店長はそう言った。そこまで言われてはまあ仕方がないとするか。オレが観察してきた頃から生馬と支店長は相当仲が良いことは分かっていた。生馬は支店長の期待に応え続けてきたことはよく知っている。ここで、波風を立てても、今後支店長とどう接したら良いのかもわからないのでこの件はしぶしぶ了解することにした。
「吉本さん。オレの仕事を見て藤井がやる気をなくしても知りませんよ」
わはは、と笑って吉本支店長は応接をあとにした。しかし、これは本当にやっかいに巻き込まれたもんだ。その藤井と言うやつが生馬の中身が入れ替わったことに疑問をもったら面倒くさいことこの上ない。そんなことになれば死んでもらうしかないかとオレは考えていた。