第五十六話 worry
「文彦に対して嫌悪感を持て。あいつはお前を傷付けた男だ。結婚などしたいと考えるな」
オレが娘の目を見つめてこう娘の脳に向かって語りかけた直後に、娘はうな垂れて黙りこくった。今、娘の頭の中の思考は新しいものに書き換えられているのだろう。お前が文彦に対して真剣なのはよく分かった。だが、結婚だけは認めるわけにはいかないのだよ。無理に脳と心を書き換えてしまって悪かったな。オレは娘の次の言葉を静かに待った。
「お父さん。お願い。これが本当に最後の我儘です。わたしひとりじゃおなかの子を育てられない。この子にも父親が必要なの。お父さんみたいな。そしてわたしにも必要なの。わたしを愛してくれる人が。わたしが愛する人と一緒にいたいの」
何を馬鹿なことを言う。オレは心底驚いてしまった。オレのいうことが聞けないのか。それともオレの言うことが聞こえていなかったのか。オレは後者だと思い込みもう一度娘の脳に向かって先程と全く同じ指示を出した。
「文彦に対して嫌悪感を持て。あいつはお前を傷付けた男だ。結婚などしたいと考えるな」
しかしオレの意思、指令に反して娘はオレにしがみついて懇願を続けた。
「お願い。わたしはあの人に期待しているの。きっと誓約書なんて書かなくてもわたしと結婚してくれると信じてはいる。でもきっとそれはとても障害が多いの。お父さん、お母さんに認めてもらうのも、もちろん簡単なことではないと分かっている。あの人のご両親だってきっと簡単には認めてくれないと思う。だからこそ誓約書であの人を縛り付けて欲しいの。お父さんはわたしに凄く優しいから尚更ちゃんと分かって欲しいの。あの人がどれだけいい人なのかを。
お父さんとお母さんさえ納得してくれたなら、あの人の両親なんて誓約書でがんじがらめにしてしまっていいと思っている。あの人は本当に心の底からわたしのことを愛してくれたの。何度も何度もわたしに将来は必ず一緒になろうねって言ってくれたの。それが真剣な言葉だったことくらいわたしにだって分かるつもりよ。だからお父さん、お願い。わたしとあの人の愛を認めて欲しいの。わたし、あの人と一緒じゃなきゃ怖いの。あの人と一緒じゃなきゃおなかの子を正しく育てる自信が無いの」
毬が文彦を愛してしまっていることはよく分かった。そして文彦がどれだけ娘のことを愛しているのかも何となくオレにも伝ってきた。しかしオレはもっと別なことに気がいってしまっていた。何故娘にはオレの力が通じないのであろうか。いや、良く考えればこの力が通用しないのは初めてのことではない。先日、谷田部家を訪れ父親に対して力を使ったときも何度か同じ操作を繰り返さなければ男の脳を操ることができなかったことを思い出した。
何故だ。オレの悪魔としての能力が低下してしまっているのではないかとも疑った。しかしそんなことは考えにくい。悪魔の力というものはそんなに脆弱なものではない。人間ごときの思考を操ることなど悪魔にとっては最低限度の能力なのだ。恐らく稀有な事例が重なっただけであろう。谷田部父も結局最後にはオレの指令に従ったのだ。もう一度娘の脳にしっかりと語りかければオレの指示も確実に届き、その通りに動くに違いない。自分自身にそう言い聞かせオレはもう一度娘に向かって無言の指令を出した。今度は娘の目を見つめることよりも、脳に向かってオレの声が届くように意識して指令を送った。直後に娘はオレの顔を見つめて語りかけてきた。
「ごめんね、お父さん。急に無理なお願いをしちゃったね。だけど、今すぐではなくてもいいの。いつかわたし達のことを認めてくれればそれでいいの。だからお願い。せめてあの人と少しでも多く会話をしてみて。本当に時々でいいから。あの人はすごく引っ込み思案だから中々本音を表さないかもしれない。でも、ちゃんと伝えてくれると思うの。わたしのことをとても愛しているって。きっとあの人が本気でわたしを愛しているって、わたしのことを幸せにしてくれるってお父さんにも伝わると思うから。ちょっとずつでいいからあの人と向き合ってみて」
これはオレの指示が娘の脳に伝わったものだと捉えてよいものだろうか。娘は一方的な自己主張を続けることを止めはしたが、完全に文彦のことを諦めたわけではなさそうだ。オレは多少困惑していたが、これ以上娘に何を言っても無理で、無駄なような気がしたので娘の願いを聞き入れるふりをすることにした。
「ありがとう。お父さん。ごめんね、我儘ばかり言って」
娘は無理に笑顔を作ってオレに礼を言い、書斎から出て行った。最後は娘が一歩引く形で面談を終えたが、オレはどこか腑に落ちない気分で娘の後ろ姿を見送った。




