第五十五話 わがまま
それを聞いて安心したのか毬はいつもの柔和な顔つきを取り戻した。
しかし、それはほんの一瞬のことだった。可愛らしい笑顔は瞬く間に消え去って再び何やら不安そうな表情に戻ってしまった。まだ何か不安に感じることがあるのだろう。それがどんなに小さなものであっても取り除いてやるつもりでいた。だから、オレは毬に向かって尋ねた。
「どうした?まだ何か不安なことがあるのか?何も言わなくても顔に出ているぞ。遠慮することはない。なんでもオレに話してみろ」
毬はすぐには口を開かなかった。両の掌を握り合わせて俯いたままもじもじと体を揺らせていた。慌てることはない。言いにくいことなら何も今ここで言う必要などない。オレはそれ以上のことは口にせず、静かに毬の次の行動を見守った。
自分を奮い立たせるように毬は大きな深呼吸をした。空気を吸い込む音がはっきりと聞こえた。そして、吸い込んだ息を吐き出す勢いに乗せて毬は勢いよく話を始めた。
「あのね。物凄く言いづらいんだけど、あの誓約書にもう一項目付け加えて欲しいの。それがね。文彦君が結婚できる年齢になったらすぐにわたしと結婚することって約束を付け加えて欲しいの」
さすがのオレも驚いてしまった。
「毬。本気で言っているのか。お前はあの男と結婚したいというのか。そんなにあの男に惚れているのか」
「ごめんね。びっくりするよね。わたしだってちょっとは自覚しているよ。おかしなことを言っているなって。お父さんはこの間の夜初めて文彦君を見たんだもんね。確かにあの日の文彦君は子供っぽくて、頼りなくて、惨めな男の人に見えたと思う。そもそも、そんな子供のくせしてわたしのおなかに子供を生みつける無責任な人だと思う。だけどね。信じて欲しいのだけどあの人本当に真面目な人なの。勉強とか運動とか、そういう問題じゃなくて人のことを真剣に想ってくれる人なの。だからわたしはあの人のことを好きになっちゃったの。わたし達が付き合ってから彼はもの凄く優しかった。わたしの言うことにNOということなんて一度もなかった。わたしの意見を何よりも尊重してくれたし、どんな話も真面目に一生懸命聞いてくれた。
文彦君はわたしのこと愛しているっていつも言ってくれたの。普通、そんなこと言わないじゃない。恥ずかしいし照れ臭いしさ。だけどあの人は何度も何度もそう言い続けてくれたの。そしてそれは今だけの話じゃないよって。わたしのことを一生愛しているからねって言ってくれたの。自分達はまだ幼い子供だけれどこれから何があってもどんな未来が待っていいようともわたしのことを愛してくれるって。わたしだってそんな言葉、最初は信じていなかったよ。わたしのご機嫌をとるためにお世辞を言っているだけなんだろうなって。だけどね。今はその言葉を信じているの。なんでかは分からない。今までいつも一緒にいた時は気が付かなかったけど、こうして少し距離を置くようになってあの人の言っていることは真剣だったんだなって感じるの。わたしを抱いたことだって決して一瞬の欲求ではなかったと思うの。わたしと一緒に愛し合いたかったんだなっていうあの人の気持ちが今は凄くよく分かるの。
あの日の別れ際だってあの人はごめんなさいばっかり繰り返していたけど、わたしのことを愛しているよっていう気持ちはやっぱり伝わってきたの。ねえ、お父さん。我儘ばかり言って申し訳ないのは十分分かっているつもりだけど、わたしあの人と結婚したい。生涯のパートナーになってもらいたい。そして、このおなかの中の子と一緒に幸せな家庭というものを築きたいの」
娘が真剣なのはよく伝わった。気の迷いなんかではなく娘なりに懸命に考えて出した結論だということは理解した。だが、さすがにこればかりは容認するわけにはいかない。親として、オレ個人として決して受け入れられない。文彦の、あの情けない餓鬼の誓った愛の言葉なんて信じる方がどうかしている。確かにオレは娘の望むことを何でも受け入れて、叶えてやると思っていたしそう言ったかもしれない。しかし、これはさすがに例外だ。ただ正面から娘の願いを否定することは好ましくはなかった。だからオレはいつもやるように娘の脳に指令を出すことにした。娘の意思をオレの力で捻じ曲げることになんの躊躇いもなかった。それが娘にとって最善であると思っていたのだから。




