第五十四話 願い
谷田部家を訪れてから数日後の夜。オレは書斎でひとり物思いにふけっていた。特に何か考え事をしているわけでもなく、ひとりで静かに赤ワインを飲んでいた。毬のこともあり我が家族を取り巻く空気は重苦しいことが多かった。家族全員が毬の出産に協力するとは言ってはいるが、それぞれに不安に思うことも多いのだろう。みな口数が少なくなっていた。その重苦しい空気を吸うのが嫌でオレは最近ひとりでこの部屋で時間を過ごすことが増えていた。
オレ自身は不安なことも怖れることも何もない。むしろ、毬が出産することを心から喜んでいたし楽しみにもしていた。だが、他の家族三人はそう楽観的には受け止めてはいないらしい。我が家族に限ったことではないのだろうが、どうも人間というものは物事を悲観的に捉える傾向が強いようだ。オレは毬が子供を産み落とすことがとても明るく幸せなことだと確信している。だからこそ赤ワインは非常に旨いものだと感じられたし、気分もかなり良かった。しかし、やらねばならぬこともある。改めて誓約書に谷田部親子の署名を貰わなくてはならない為、オレはその用紙を再度印刷機からプリントアウトをする準備をしていた。
丁度その時、書斎のドアをノックする音が響き渡った。
「誰だ?どうした?入りなさい」
恐る恐る書斎のドアを開けたのは毬だった。やはりその表情は硬く、強張っている。書斎の中に入ってきたのはいいが、中々用件を切り出せないでいる毬を急かすようなまねはせず、できるだけ笑顔で彼女が話を始めるのを待った。踏ん切りがついたのか、彼女は小さな声でポツリポツリと語り始めた。
「あのね。まずはお礼を言わなきゃと思って。わたし、子供産みたいとは思っているけど不安なこともたくさんあったの。やっぱり子供産むのも育てるのもお金が掛かるじゃない。お父さんとお母さんにいっぱい迷惑掛けるなあって心配だったの。それに文彦君に子供のことを知らんぷりをされちゃうんじゃないかなってすごく不安だったの。
だけど、お父さんがそんな心配を全部取り払ってくれるような誓約書を作ってくれて、文彦君とむこうのお父さんを説得してくれたことがすごく嬉しくて有り難かった。ああ。わたしは安心しておなかの子を産んでいいんだなって思えるようになったの。ちゃんとお礼を言うのが遅くなってごめんね。どうもありがとう」
「毬。そんなことでわざわざお礼なんて言わなくていい。自分の娘がお前と同じような立場に立たされたのならどこの父親だってそのくらいはするさ。娘が安心して子供を産める環境を整えてやることは親として当たり前のことだろう」




