第五十二話 体の震え
どうしたことだろうか。彼はさらに激しく手を震わすばかりでいっこうに書面にサインをすることがない。彼の震えは尋常ではなかった。次第に手ばかりではなく体ごと震え出した。どうしてしまったことだろう。毬も、文彦も奇異な目で谷田部父を見つめた。何ごとが起こったのだろうと。当然オレも彼らと同じような視線を送った。どうしたことだろうか。これまでオレの指示に従わない人間など存在しなかった。まさかオレの指示の意味が理解できないわけではあるまい。そんなに難しいことは要求していないのだから。それともこいつの脳は他の人間より性能が悪いのだろうか。だからオレの指令が理解できないのか。そう疑いオレは谷田部父の頭を睨みつけて全く同じ指令を改めて送った。
ようやっとその指令が理解出来たのだろうか。谷田部父はボールペンの先端を書面に押し当ててそこに自著を始めた。しかし、あまりの手の震えの為かあまりに文字が不細工だ。いや、オレ達は彼の名をしっているからこそ、なんとか解読できたのかもしれないが、彼の名も知らない第三者が見てもそこになんと書かれているのかは分からないのではないかと思われる程酷かった。
彼は書面にサインをした後、ソファにもたれ掛って一息ついた。大きなため息が聞こえた。しかしまだオレの指令を完遂したわけではない。この内容を全て受け入れる返事と押印がまだ済んでいない。何度目になるだろうか、オレは彼の脳に繰り返し指令を送った。間もなく彼は立ち上がり別の部屋から印鑑を持って現れた。そしてそれを丁寧に書面に押し付けた。今度は淀みのない動作だった。そして書面をオレに差し出して重たかった口を開いた。
「ここに署名、押印をした通りです。ここに書かれている内容全てを了承し、遵守することをお約束致します」
大分手間を掛けたが、ようやくオレの要求が了承されたのだ。ただやはり署名の文字があまりにも不細工であったことが気になった。人間の世界ではこの手の書面での約束事が非常に重要視されることはオレも仕事を通じて理解している。書面へのサインと押印は非常に大切なものだ。だからこそオレは谷田部父に確認の意味で問いかけた。
「そちらが我々の要求を了承し、誠意ある対応をして頂けることは十分承知した。しかし、このお父さんの署名があまりに不鮮明すぎる。後日、この書面と同じ内容のものを持って再度お邪魔するがその際には改めてご対応頂けるのでしょうな」
谷田部父は即答した。
「誠に申し訳ない。あまりに動揺してしまってそのような不適切な署名になってしまいました。ご足労をお掛けして大変申し訳ないがその際には適切に署名致します。もちろん、この書面に書かれている内容についても何もこちらから意見することはありません」
「そういうことであれば今日のところはこれで失礼する」
オレは先程までと変わらずぶっきらぼうに言い捨て立ち上がり、そして玄関へと向かった。




