第五十一話 署名
オレは持ち込んだ鞄から一枚の紙とボールペンを取り出して谷田部父の前に差し出した。
その紙にはオレの手書きで「誓約書」と書き込んであり、三つの約束事が綴られていた。
ひとつは毬の腹の中の子を文彦が認知すること、そしてその事実について文彦の両親が責任を持つこと。ふたつ目は金に関する内容だ。出産までにかかる費用、産まれてくる子の養育費の七割を、子供が十八歳の誕生日を迎えるその日まで支払い続けること。そしてみっつ目は産まれてくる子供の生活、教育等に関して一切の口出しをしないこと。
「これをよく読んでおふたりに直筆のサインと実印の押印をお願いしたい」
オレはボールペンを文彦の前に突き出した。誓約書に目を通し、毬の方に視線を送った。先程とまるで変わりなく毬は力強く鋭い眼差しで文彦を見つめている。睨みつけたという方が適切かもしれない程の圧力がオレにも伝わってきた。
もう毬は文彦のただの女ではなく母親の顔つきになっているのだ。その顔を見て文彦は改めて自分の置かれた状況を認識したのだろう。ボールペンを掴み取りオレが指示した場所にしっかりとサインをして、その紙を自分の父親の前に差し出した。父親は渋い顔をしながらゆっくりと誓約書の内容を確認した。それこそ舐めるように。そして、その紙を一度テーブルの上に置き静かに目を閉じた。そして腕組みをしながら何かを考え込んでいるようだった。文面に何か気に入らないことでもあるのだろうか。まあ、それはあるだろう。我ながらにこの誓約書は我が家族だけに都合のいいことがうたってある。谷田部一家にはかなり厳しい内容であることはオレだって重々理解している。しかし、それでもこちらの要求を呑んで貰わなくてはならないのだ。我が娘はそのくらい大きな傷と責任を負わされることになったのだから。
少しの時間オレは谷田部父を観察していた。少々不謹慎かもしれないが彼がどんな結論を出すのか楽しみに感じている部分も正直あった。父親と呼ばれる人間がこんな時にどういった態度を示すのかを。ただ彼は2分経っても4分経っても眉ひとつ動かす気配が無い。気の短いオレはさすがに飽きてしまった。これ以上待ってみたところでこの頭の悪い父親からは気の利いた返答は帰ってきそうもない。耐えかねてオレは谷田部父の脳に指令を出した。
「この誓約書に納得したと言い、そこにサインと押印をしろ」
それから少しの間を置いて、彼はボールペンを手にした。その手は震えていた。さあ、さっさとサインをするのだ。ところが、彼はボールペンを握り締めて書面の真上で未だに手を震わせている。随分と時間がかかるな。頭が悪すぎてオレの指令が理解できないのかとも思った。オレはもう一度同じ指令を彼の脳に送った。




