第四十五話 mother appeals
翌日、オレは出社するやいなや営業に出掛けると言ってすぐに会社を出た。もちろん、ひとりで。少し考え事をしたかった。毬のことを考えたかったのだ。どうすれば美佐子も毬も傷つけずに穏便に今回の件を済ませるのだろうか。おそらく美佐子か毬のいずれかが辛い思いをするだろう。できるだけ傷は浅く済ませたい。毬の相手の男やその家族に多少の責任は取らせるつもりだ。そのことは悪魔の能力を持ってすれば簡単なことなのだが。しかしオレの能力で何とかできるのはそこまでだ。愛する家族を幸せに導いてやれない自分の無力を呪った。
大きな市民公園の一角ベンチのベンチで缶ビールと煙草をやりながらオレは物思いにふけった。もう考え事をしているとは言えない程、酒に酔った。
その晩は夕食を家族全員でとれるように早めに帰宅した。とても静かな晩餐だった。時々、毬の方に視線を送ったが毬は食事をすることも非常に辛そうな様子であった。無理やり食事を口に運ぶがそれを呑みこむのが困難であるように見受けられた。だが、オレは敢えて何も口に出したりはしなかった。そうして息の詰まるような空気で晩餐は終わった。普段は食事を終えたら毬も綾もすぐに自分の部屋に戻って行くのだが、オレは毬にその場に残るように伝えた。オレの放つ雰囲気がいつもとは違うことを綾は感じとって何も言わずにすぐに二階の自分の部屋に戻って行った。美佐子も同じように何かを感じ取っていたのだろう。何も喋ることなく黙々と台所で洗い物を始めた。オレにその場に残るように言われた毬は落ち着きなくダイニングの食卓の前の椅子に座っていた。時々頭を抱え込んだり、両手を自分の胸の前で組んで俯いたりしていた。 その怯える子供に向かってオレは静かに語りかけた。
「なあ、毬。お前オレ達に何か隠し事をしているんじゃないのか。お前の様子がおかしいことはオレも美佐子もちゃんと気が付いているのだぞ」
毬は両手を胸の前で組んだまま黙りこくっていた。美佐子も何も言わず洗い物を続けていた。オレは眉ひとつ動かすことなく毬に向かって尋ねた。
「毬。お前の体調が悪いことはもう分かっている。そして、それが風邪や病気にようるものではないことも気が付いている。オレは確信している。お前妊娠しているんじゃないのか?」
ガシャンという食器の割れる音がした。美佐子が驚きのあまり手にしていた食器を床に落としてしまったのだ。そして怯えるような声でオレに問うてきた。
「あなた。何をおっしゃるのですか。毬が具合が悪そうなことはわたしも気が付いていましたけど、まさか妊娠しているだなんて。毬に限ってそんなことはあるはずもないでしょう」
そのときの美佐子の顔は強張っていた。だがオレは知っている。美佐子も毬の妊娠を疑っていることを。敢えて美佐子のことを無視してオレは毬に向かって話を続けた。
「別に隠すことはない。お前の様子を見ていればそんなことはいずれ分かることだ。安心しろ。そんなことでオレは怒ったりはしない。相手はどこの誰なんだ。その相手はお前がこんなに大変な状態になっていることを知っているのか?」
毬よりも美佐子の方が慌てていた。彼女は青い顔をして毬の隣の椅子に座った。
「ねえ。毬。そんなことないわよね。お父さんの勘違いよね。お母さんは信じているわ。あなたがそんな悪いことする子ではないってことを。あなたの体調が良くないことはお母さんも気が付いていたわ。きっと疲れていたのよね。あなたは勉強も部活も頑張る子だから少し無理してしまったのよね」
美佐子は娘の手を握り締めながら詰め寄った。不思議なものだ。美佐子は心の底では娘が妊娠していると疑っている。だが、そのことを認められない自分もいるのだろう。信じたくない自分もいるのだろう。娘の口から、そんなことはないよ。安心して。という言葉を聞きたいのだろう。美佐子は何やら必死だった。オレはその姿を見ることが辛かった。だから毬に対してオレのでき得る限りの優しい声色でもう一度尋ねた。
「なあ毬。オレを信じろ。オレは決してお前を責めたりしない。お前と関係を持った男をも責めたりしない。そしてお前の腹の中にいる子供を忌み嫌ったりも絶対にしない。だから正直に話してくれないか」
美佐子はオレにすがるように反論した。
「あなた。お願いだからそんな怖ろしいことを言うのは止めてください。毬がそんなことをする子なわけがないじゃありませんか。この子は昔から優しい子だったじゃないですか。親を困らせたり、悲しませたりするような子ではなかったじゃないですか。一時の感情にまかせてそんなことをする子ではないじゃないですか。」




