第四十二話 母の嗅覚
最近いやに毬が明るい。何かあったのか聞いてみても答えはいつもあいまいだ。まあ、辛い目にあって気分が塞いでいるよりはいいが。
しかし懸念するのは毬の幸せが自分で手繰り寄せたものなのか。使いによるものかということである。美佐子はもちろんだが。毬も綾もオレを癒す十分大切な存在になっている。今から考えると、人間の家族と言うものはなんと美しいものだろうか。お互いに存在するだけで、頼もしくも思い勇気づけられもする。そして癒される存在であるのだ。
オレは最近人間界というものが阿呆ばかりの集まりではない、中には十分存在価値のあるものも存在していると実感していた。そう思えるようになったのも、我が家の家族のおかげだが。
それにしても毬の様子がおかしい。ただただ、幸せなだけではないことをオレにも感じさせた。しばらく、リビングに顔を出さずにいると思ったら走って便所に駆け込んだりしている。腹でも壊しているのだろうか。外で何かよからぬものに手を出しているのではないか。オレには正直、なにをそんなに便所に飛び込むのか想像が難しかったが、実は美佐子はあることを疑っていたらしい。ある晩毬と綾が夕食を食べ終わってそれぞれ自分の部屋に戻った後、美佐子はソファで新聞を読んでいるオレの横に神妙な面持ちで近づいてきた。
「ねえ。あなた。最近毬の様子が少しおかしいと思うんだけどどうかしら」
「ああ、そうだな。なんだか調子が悪そうだ」
「ちょっとわたしには心当たりがあるのだけれど。」
美佐子は非常に真剣な表情をしてオレを見つめて続けた。
「驚かないで聞いてくださいね。わたしね。あの子妊娠しているのじゃないかって思っているの」
「まさか」
オレは新聞に目を通したまま、美佐子の顔を見返すことなく返事をした。
正直、妊娠というものが何なのかよく分かっていなかった。人間生馬を観察し続けていた時も、この体に憑依してからも聞いたことの無い言葉だった。美佐子は続ける。
「これは女だから気が付くことなのかもしれないけれど、わたしが妊娠したときも今の毬と同じような感じだったのよね。食欲の減退、急に催す吐き気。毬は最近よくトイレに駆け込むでしょう。あれってお腹を壊しているとかではないと思うのよね。わたし気になって聞き耳を立ててみたことがあるのだけれど、どうやらトイレで吐いているようなのよ」
オレは返答に困った。美佐子はとても真剣だ。オレだって彼女の話を真剣に受け止めたいが、肝心な妊娠と言う言葉の意味が分からない。その言葉の意味は夜中にでも辞書でもインターネットででも調べればいい。今は少しでも美佐子の心の負担を軽くしてやればいい。
「気にしすぎじゃないか。何もトイレで吐いているからと言って妊娠しているとは限らないだろう。ただちょっと体調を崩しているだけなのかもしれないじゃないか」
「それならいいんですけど。何か悪い予感がして堪らないんですよね」
美佐子は非常に落ち着きが無かった。「妊娠」というものはかなり深刻なものなのだろう。急いでその単語の意味を調べて、毬の体調の核心を掴まなければならないようだ。
オレは美佐子にもう少し毬の様子を伺うことにしようと告げて、寝室に入りパソコンで「妊娠」と言う単語を検索した。




