第三十七話 コミュニケーション
間違いない。オレが先程見たジズの正体はこいつだったのだろう。
毬が布団から顔を出して怪訝そうな顔でオレを見つめている。
「どうしたのお父さん。わたし、ちょっと体調が悪くて。何か用?」
「ああ。悪かったな。何でもない。少し様子を見に来ただけだ。ゆっくり休んでくれ」
突然部屋に上がり込んだことを綾に詫びてオレは部屋の外に出た。ああ、しかしなんということだろう。愛しい家族にまさか天の使いが憑依しようとは。オレは悲しみと怒りを隠さなかった。この感情は生馬の体だけではおさえきれずオレは一瞬オオカミのような顔つきになった。表情だけがそうなったのではなく実際の顔つきが狼のようになったのだ。ほんの二、三秒ではあったが。天の使いめ、綾にどんな甘い汁を吸わせて、どんな苦労をさせようと考えているのか。
憑依してしまったものは仕方がないとは割り切れなかった。この家には先に悪魔が憑依しているのだ。コミュニケーションさえ取れれば天の使いをもちろん追い出すつもりではいた。しかし、そのコミュニケーションが問題だ。以前のサタンのように心と心の会話ができるものなのだろうか。それが不可能であれば説得は非常に困難になる。まさか、綾の前で声に出して天の使いと話をするわけにもいくまい。一番簡単なのは殺してしまえばいいのだが、それが可能かどうかも分からない。
何にせよあんな物騒な生き物に我が家の中をウロウロされてはたまらない。何とかして追い出さなければ。
やがて夕食の時間がやってきた。オレはこの時間を首を長くして待っていた。そう、夕食となれば家族全員がダイニングに集まる。その際に天の使いとどれだけコミュニケーションがとれるか試してみようと思っていたのだ。いつものように家族全員がダイニングに集まる。オレは綾だけをいや、憑依した天の使いだけを見ていた。ヤツは綾の頭上で目を瞑ったままクルクルと舞を舞っていた。悪魔が目の前にいるというのに。オレにはヤツのその余裕がとても腹立たしかった。そもそもヤツは目の前のこのオレを悪魔だと認識しているのだろうか。そんな疑問も抱き、オレは心の中でヤツに声をかけてみた。
「おい、天の使いよ。そんなところで一体何をしている」
この問いに対してヤツからの応答は無かった。相変わらず綾の頭上で舞を舞っている。オレはさらに腹が立って強く心の中で問いかけた。
「おい。天の使いよ。オレの大事な娘に何をしようと考えている」
天の使いの態度は変わらなかった。もしかしたらこの方法ではヤツとコミュニケーションが取れないのかもしれない。オレはヤツから目を背け夕食のビーフに視線を落とした。
そのときだった。ほんのわずかな瞬間だったが天の使いの視線をオレは感じた。オレがヤツに目を向けると再びヤツは舞を続けていた。だが、確かに一瞬だがオヤツはオレの方を見たのだ。やはりヤツはオレの声が聞こえていたと確信した。次に確認すべきはオレにヤツが殺せるか否かだ。
綾は夕食後、必ずリビングのソファに座ってテレビを見る。見る番組はその日によって違うが、その習性に変わりはない。その時のタイミングでオレは再びヤツに声を掛けてみた。
「おい、天の使いよ」
返事はなかったがそれはオレの予想の範疇だった。オレは少しずつ綾に近づいた。もう天の使いは手の届くところにいる。オレは天の使いの横に立ち、ヤツを切り裂くつもりで右手で掻いてやった。ところが寸分のところでやつはオレの攻撃をかわした。オレの攻撃もかなりのスピードだったはずだが、ヤツの身のこなしのスピードはそれ以上だった。正直オレにはヤツが攻撃をかわすのを目で追うのがやっとだった。
「お父さん。なにをやっているの?」
オレの行動が綾に気付かれた。当然であろう。
「ああ、悪い虫が飛んでいたから追い払おうとしただけだ」
オレは適当な理由をつけて綾に返事をした。天の使いの滅殺には失敗したが、ひとつ分かったことがある。ヤツには悪魔を攻撃するだけの能力は何もない。持っていれば確実にオレに反撃をしてきただろう。しかし、攻撃する能力はなくとも、オレの攻撃をかわすことには長けている。オレの攻撃をかわしたあのスピードは尋常ではなかった。これでは綾が目を覚ましているときの攻防は無理だと悟った。夜になり彼女が深い眠りについたときにもう一度ヤツに挑戦しなければならない。




