第十一話 酒
時刻はまだ夕方6時になったばかり。人間生馬を観察している間、やつは9時前に家に帰ったことがない。これからどうしよう少し考えた。突然あまり早く家に帰っても妻や娘達に驚かれそうだ。今日は人間としての初の夜である為、少し夜遊びというものをしてみたかったという気持ちも正直あった。そうだ。生馬の大好きだった酒というものを飲みに行こう。会社の連中との飲み会などには決して行きたくは無かったが、ひとりゆっくり酒の味を楽しんでみたいと思った。
オレはタクシーに乗り飲み屋の多い繁華街へと向かった。折角だから安っぽい大衆食堂のようなところは避けた。だからと言ってやたらと値段が高そうでもない、それでいてちょっと品のある古民家風の飲み屋に入ることにした。先客は年配の男性客が二人だけ。これなら騒がしいこともあるまい。
取りあえずオレは人間生馬にならって生ビールというものとつまみを何点か頼んだ。運ばれてきたビールを一気に口に流し込む。ああ、悪くはない味だ。体の中にアルコールが注入されていくのが分かる。それと同時に血管が広がり、血流がよくなる。これは確かにいい気分だと思えた。しかし、ビールの味は悪くないという程度で決して美味いとは思えなかった。何より味が薄すぎる。独特の苦みがあってそれが美味さをひきたてているのだろうが、オレにはその苦みが物足りなく感じた。試しにもう一杯ビールを頼んでみた。やはり苦みが足りない。続いて運ばれてきた料理に手を付けける。肉じゃが、小エビのサラダ、茄子の焼き物、ほっけが運ばれてきた。肉じゃがは甘い出汁が肉とじゃがいもに程良くしみ込んでいて中々美味だった。それにビールと良くあった。ほっけもこれまたビールにあう。なるほど、ビールというのは単品で飲むものではなく何か付け合わせと一緒に飲むのが正しい飲み方のようだ。二杯目のビールを飲みながらオレは煙草に火をつけた。
血流のよい状態で吸うたばこはシラフのときに吸うそれより格段に美味かった。頭が軽くクラッとするくらい気持ちがいい。しかし、オレが一番うまいと感じたのは茄子やサラダといった野菜の類だった。茄子は苦みの中にほのかな甘みがあってその香りもオレを楽しませてくれた。そしてこれまたビールによくあう。サラダはレタスやトマトといった生野菜の盛り合わせのようなものだが、これはビールとの相性云々よりこのまま頂いてもめっぽう美味いと感じさせてくれる食べ物だった。オレはまたビールをお代わりした。ビールというのは不思議なものだ。単体では旨みが物足りないくせに、こうして色々な食べ物と合わせて飲むと二倍も三倍も美味くなる。最高の料理の引き立て役だ。味が薄いとか何とか文句をつけながらもビールを中ジョッキで三杯も飲んでしまった。それでもまだ人間生馬のように陽気な気分にはなれそうもない。オレは今度は日本酒を飲んでみようと思った。生馬は苦手だったらしいが、だからこそこの酒であれば酔いが回ってくるのではないか。日本酒をオーダーする時に、
「冷やですか、熱燗ですか?」
と尋ねられた。どちらがどうだかは分からないがオレは冷や酒を頼んだ。冷たい飲み物が好きなのだオレは。ついでにネギのみそ焼きと牛タンとピッツアマルゲリータを注文した。
程なくして日本酒のトックリとチョウシが運ばれてきた。正直、チョウシを使ってチビチビと飲むのは性に合わない為トックリを直接口にあてて酒を流しこんだ。日本酒は香も良く、味も悪くなかった。思っていたよりさっぱりしていて口に流し込むと甘い後味が口内に広がる。また、ネギのみそ焼きと肉じゃがにもよくあった。食べ物の持つ後味を日本酒を飲むことによってより味わい深く感じさせてくれる。
調子に乗ったオレは日本酒を一気に四合追加した。さすがにここまで来ると何だか気分が良くなってきた。これが酒に酔うと言う感覚か。頭はくるくる回り、いつも気が大きいオレがさらに大胆な気分になってきた。しかしこうなると今度は話し相手が欲しくなる。気分がいいので色んな話しを聞いたり話したりしてみたい。人間のことをもって知りたいと思っていたオレには当然の欲求だったのであろう。誰かこのオレに付き合ってくれる人間はいないか。そう考えたとき藤井の顔が頭に浮かんだ。早速オレは携帯電話で藤井に連絡をとった。
「藤井か。今どこで何している?」
「まだ会社にいますけど」
「そうか。それなら飲みに出て来い。だが他の奴らには悟られるなよ。今日は仕事の話なんかしたくないんだ。お前と飲みたいだけだから早く出て来い」
「分かりました。そう言って頂けると嬉しいです。場所はどこですか?」
オレは場所を伝えて電話を切った。頼むから余計なやつにばれるなよ。
二十分程で藤井がやってきた。ひとりきりで。肩で息をしているところをみると余程急いで来たのだろう。そんなやつをみて少し可愛げを感じた。
「取り敢えず何飲む?」
「ビールを頂きます」
ビールと日本酒で乾杯した。乾杯したときのオレの手にはチョウシではなくトックリであったことに藤井は驚いた。
「生馬さん。トックリで日本酒飲んでいるんですか?ていうかそこにあるトックリ一人で全部空けたんですか?」
オレの脇には3本のとっくりが置いてあった。オレはそこで初めて気が付いた。オレの飲んでいる分量は人間としては飲み過ぎだということに。ちなみにビールも三杯飲んだ事は内緒にしておいた。生馬は確か酒に弱かったはずだから。飲み過ぎている理由を適当に考えた。
「今日は飲み過ぎてもいいんだよ。お祝いの日だから」
「なんのお祝いですか?」
「馬鹿。新商品の受注のお祝いに決まっているだろ」
この答えに藤井は納得したようだった。
「それなら支店長や部長もお祝いしないといけないって言っていましたよ。僕だけじゃなくて皆と飲みに行けば良かったのに。生馬さん、相当褒められると思いますよ」
「大勢で飲みに行く気分じゃないんだよ。お前とふたりで丁度いいんだ。お前は新規受注の立会人みたいなもんだからな。今日はお前とふたりでいい」
「そう言われると嬉しいけど、なんか恥ずかしいですね」
オレはかなりの酒を飲んだし、食べ物も食ったがまだ物足りない。悪魔の食欲とは旺盛なものだ。ただし、基本的には何も食わなくても平気なものである。食いたい時に食いたいだけ食えばいいのだ。今日は人間というものがどんなものを食っているのか知りたくて飲み屋に来た為もっともっと食って、飲んでやるつもりだ




