第一話 ありがとう
「有難うございました」
人間の世界では感謝を表す言葉だということだけれども、この男は一日に何度この言葉を発せば気が済むのであろうか。気が済むとかそういう問題ではないのかもしれない。もはや口癖になっているのではないかと思えるほど男は繰り返しその言葉を使った。口癖であるから心の底から有難いなどとは思っていないのだ。そうでも考えないとこの男は誰に対しても、何に対しても感謝し、有難いと思っていることになる。そんな人間は存在しない。仮に世界中のどこかにそんなやつがいたとしてもこの男だけは絶対その類ではない。何故なら男は必ず、
「有難うございました」
の後に「フーッ。」と大きなため息を毎回のようにつくからだ。それからして、
「有難うございました」
が心の底から出たものではないことが分かる。ため息をつくくらいなら言わなきゃいいのではないか。いつもそう思うのだ。なんとなく思っていたのだが、男の職業が営業マンということが関係しているのではないか。他の営業マンという人種を見ても、やつらはやけに腰が低い。若いのから、それ相応に年をとっている者でさえほぼ全員と言って良い程低姿勢なのだ。
ところで、男に、
「有難うございました」
なんて言われたやつにしても、相手から感謝されたと認識している者はまずいない。
「有難うございました」
は帰り際の挨拶くらいにしか思っていないのだろう。営業マンというのは何と虚しい職業であろうか。