仕事の相棒と、静かな準備
三月の朝は、少し乾いている。
駅前のショーウィンドウは白と水色のリボンで隅まで埋まり、ガラス越しのクッキー缶が角度を変えるたび、小さく光を返した。甘い匂いは通路の端だけ春めいて、私の胸の内はまだ冬のまま、温度の上げ方を忘れている気がする。
ビルのエントランスは、まだ人がまばらだ。自動ドアの前で軽く息を吐いてから、中へ。空調の風が頬を撫でる。エレベーターの天井灯に映る自分の顔は、いつも通りに見えた。
出社して、私は机にバッグを置く。
今日の予定はぎゅっと詰まっていて、余白はほとんどない。メールを三通返し、午前の会議の資料を開いたところで、隣から控えめな声。
「おはようございます」
「おはよう」
千葉くんは、前より“やる前提”の顔になった。様子見より先に準備、確認より先に提案。最近の彼は言われる前に能動的に動く。
席に腰を落ち着けるより早く、彼はメモ帳を開き、キーボードを叩き始めた。指先の速度が、以前より少しだけ速い。
会議室。ホワイトボードの前に立った流山課長が、少し崩れた字で素早く書く。マーカーのキャップを指でくるりと回す癖は、相変わらず。
「年度末 会食調整/xx商社。うちは久住と千葉、あと俺。店は“銀座〇〇亭”を押さえた。先方の部長さん、日本酒が相当好きで、合図は“まずは生”だそうだ」
「了解です」
配席と流れを頭の中で組み直す。入口の挨拶、差し出す話題、締めのひと言。そこに、千葉くんがすっと手を挙げた。
「相手部長への乾杯のふりは僕からしますね。移動と手土産、会計も受けます。地酒のラインナップは先に店へ確認します」
視線が自然に彼へ向く。大げさじゃないのに、頼りがいがある。“任せる”が私の中でまた増えた。
課長は書き足しながら言う。
「先方は“昔ながら”。席順・注ぎ方・挨拶回りはきっちり、肩書きも大事にするタイプ。……でも、こっちは“無理はさせない”が原則。そこは守る」
「はい」
“昔ながら”。言葉を転がす。礼は守る。でも古い作法ぜんぶに従う必要はない。その線引きは、私の役目だ。
解散しかけたとき、ドアのところで松戸さんが顔をのぞかせた。
「千葉くん、ちょっといい? 接待相手の部長の東成さん、昔ちょろっと持ってたことあってさ」
廊下に出ると、蛍光灯の白さの中で、彼はポケットから小さなメモを抜き出した。
「部長さん、“若いころは外回りで鍛えられた”って武勇伝をよくする人。名刺は丁寧、肩書きは最初きっちり。雑談は“季節→飯→仕事”の順で入ると機嫌がいい。釣りの噂もあったけど、最近は地酒の話のほうが乗るらしい」
「めちゃくちゃ助かります……!」
「最初の一言は“今日は寒いですね、熱燗が恋しくなる日です”くらいの当たり障りないやつで。そこで“いや、冷や一本派でね”って返ってきたら勝ち筋。新潟・山形の名前を二つ出せれば十分」
「覚えます!」
たわいもない話が続く。
「ところで、ホワイトデーどうします? 奥さん、喜びそうなのあります?」
「うち? いやあ、最近は家でプリン実験中。固さの沼にハマってる。カラメルの焦がし度合い、1%で戦争」
「難易度高い……。僕は実家に焼き菓子でも送ろうかなって」
「親孝行〜。……あ、そうだ。“まずは生”のときはグラスの高さ、相手に合わせる。昔の流儀だけど、相手が気持ちよくなるから」
「承知いたしました!」
廊下の角で会話が途切れる。二人の背中が同じリズムで揺れていて、思わず小さく息を吐いた。こういう連携はありがたい。仕事は、ちゃんと回る――少なくとも、彼らとなら。
昼。席でサラダを食べながら承認を回していると、市川くんが通りすがりに手をひらひら。
「久住さん、さっきの見積作成、僕やっちゃっても良いですか?千葉さんの方、」
「助かる」
最短距離で十分。言葉は少なくていい。
返信の合間、スマホを一度だけ開いて、すぐ閉じる。妹の「今週、行っていい?」に返事を打ちかけてやめた。来られても片付いていない。来られなくても、きっと同じ。私の部屋は、仕事の荷物と静けさで埋まっている。
(平気。……大丈夫)
そう結論づけるのは、もう癖みたいなもの。弱音は、誰にも預けない。預け方を忘れた。
顔を上げると、千葉くんがメモを差し出していた。紙は端がきれいに揃っていて、字は落ち着いている。
「“橋渡しメモ”です。――松戸さん情報で、部長さんは“まずは生→日本酒”が定番。名刺は丁寧、肩書き呼び重視。雑談は“季節→飯→仕事”。地酒は新潟と山形が好きらしい。入り口の問いを三つ用意して、合図は僕が出します」
「細かいね。いいと思う」
紙越しに、指先に少しだけ熱が戻る。こういう瞬間だけ、私の温度計はちゃんと動く。仕事が進むことは、たぶん私にとって一番の“安心”だ。
午後の合間。千葉くんが地下の菓子売り場へ手土産を見に行き、戻ってきた紙袋は、落ち着いた紺の包装紙に小さな銀の箔押し。
「個包装・常温・A4バッグに収まる厚み。フィナンシェとフロランタンの詰め合わせにしました。ショップカードは外側、領収書は会社名・但し書き“御礼”で」
「完璧」
口に出すと、喉の奥の緊張がすっとほどける。細部に気を配る人と組むと、呼吸が合う。
夕方、最終確認。集合は十分前、タクシー二台。乾杯はビール。会計は部屋付け。席はコの字で、部長の正面に私、左に千葉、右に課長。注ぎ足しの動線、目礼のタイミング、話題の切り替え……締めるべき要点を並べて、うなずく。
「任せる。細かいとこは、お願い」
「はい」
言いかけて、飲み込む。――今日は少し頭が重い。そう言えばよかったのかもしれない。代わりに、ディスプレイの角度を少しだけ直した。画面に映る自分は、いつも通り。何も漏れていない。
課長が帰り際、デスクの縁を指でとんとん叩いて言った。
「寒いから、上着持っていけよ。……明日はよろしく!」
「はい。よろしくお願いします!」
***
三月の白い紙袋が街を歩かせる。僕はデパートの地下でショーケースを一周。個包装、常温、相場の少し上。箱は紺、リボンは白。レジで受け取り時間を指定して、会社に戻った。
動線、配席、話題の入口、会計、雨天の移動。緊張はもちろんあるけど、“任された”手応えのほうが勝っている。
給湯室でコーヒーを淹れていると、松戸さんがマグカップを片手に寄ってくる。
「あ、おかえり。無事に手土産買えたみたいだね。あ、あと砂糖いる?」
「ありがとうございます。ブラックで大丈夫です。会話の流れもありがとうございました。」
「でしょ。最初から仕事入れると“若いのはガツガツしてる”って古いレッテル貼られるから。まずは今日の寒さを共有、次に“この店の焼き魚うまいらしいですね”で飯、そこで部長の機嫌が上がると、仕事が楽」
「なるほど……。名刺は丁寧、肩書き呼び、グラスの高さは合わせる、ですね」
「完璧。あとは笑いすぎない。ニコニコはいいけど“笑ってるだけの人”に戻らないこと」
「……気をつけます」
デスクに戻ると、先輩のモニターの光が横顔を薄く縁取っている。
「乾杯は僕から。“一杯目はビール”の合図、僕が出します。先輩は交渉と要点の締めに集中してください」
先輩は一瞬だけ目を丸くして、やわらかく笑った。
「……ありがとう。そうして」
笑顔はやさしいのに、どこか薄い。輪郭だけ残して、奥行きがないみたいだ。言葉の端に“疲れ”がうっすら混じっているのに、本人は気づかないふりをしている。
午後は、メールと電話の合間に、接待の流れを決めていく。
(季節の入り口:「今日は空気が乾いてますね」→飯:「この店、焼き魚が評判だとか」→仕事:「実は今日ご相談したいのが——」)
問いは相手が主語。僕は聞き役。メモの最後に、小さく書き足した。
――“笑っているだけの人”に、戻らない。
定時少し前、プリンターへ。人の気配が少ない通路で、先輩がスマホを見つめて止まっていた。親指が文字を打っては消し、打っては消す。そのまま画面を閉じる。未送信の文面が一瞬だけ見えた気がした――『今日はちょっと——』で途切れていた。
声はかけない。かけたら、ほどけてしまいそうだったから。代わりに紙づまりを直して、先輩の分まで出力する。戻ると、先輩が目だけで「助かった」と言った。
久住先輩と会社を出ると、風はまだ冷たい。駅までの道、並んで歩く。信号待ち、先輩の横顔が街灯に照らされる。
「昔、接待って嫌いだった。正直に言えば、今も得意じゃない。正しさとは、少し違うから」
「……そうなんですね。」
「でも、正しさだけじゃ、届かない相手もいる。私はそれを、仕事で何度か思い知った。だから、場そのものをつくる人がいるのは、ありがたい」
横顔は相変わらず凛としていて、でも、言葉の端が少しだけ素直だった。
「僕は……笑ってるだけの役は、やめます」
「知ってる」
短く、迷いのない声だった。
「最近のあなたは、“やる”前提で話すから。そういう人には、任せられる」
横断歩道が青に変わる。二人で歩き出す。足並みは自然と揃って、会話はそこで一度途切れた。駅の入口が近づくにつれて、別れるべき動線が見えてくる。
「明日の集合、十七時四十五分に会社前で」
「了解」
「松戸さんから“最初は季節の話で様子見て”ってアドバイスもらいました。僕、合図出します」
「頼もしい」
改札の手前で足が分かれる。先輩が小さく会釈して、短く言った。
「ありがとう、千葉くん」
「いえ。……明日も、ちゃんとやります」
別々の階段を降りる。ホームの風がコートの裾を揺らした。胸の中の古い扉を、今度は自分の手でノックできる気がする。
(“相棒”でいることと、あなたの空白に触れることは、同じじゃない)
でも、明日は“相棒”として最高の準備をする。それが、いまの僕にできること。
***
千葉くんと駅で別れて、どこにも寄り道せずに帰宅。玄関の灯りが自動で点く。部屋は静かで、冷蔵庫のモーター音だけが規則正しく続く。
コートを掛け、湯を沸かし、マグにティーバッグを落とす。湯気が立ちのぼるのを見ていると、さっき飲み込んだ言葉が、もう一度喉に戻ってきた。
(今日は少し頭が重い)
言えなかった。言い方を探すより先に、黙る癖が出る。
明日の接待のことを考える。コの字配置、乾杯の段取り、話題の入口。準備は確実に整っている。心の中は、まだ少し、冬のままだ。
スマホの画面を開く。妹の吹き出しが並んでいる。「今週、行っていい?」の下に、返事の入力欄が白く光る。指が動きかけて、止まる。
(来られても、来られなくても、片付いていないのは同じ)
そう結論づけて、画面を閉じた。弱音は、誰にも預けない。預け方を忘れた。
机の上のマグから立つ湯気が細くなっていく。
明日、私は“正しさ”と“場”のあいだで、もう一段、うまく歩けるだろうか。
思考の端を切り上げるみたいに、マグを一口。温度は、さっきよりほんの少しだけ、上がっていた。
***
帰宅後、簡単にシャワーを浴びて、PCを立ち上げる。自作の段取り表の余白に、小さな走り書きを足した。
(相手の主語を増やす/肯定で返す/笑う回数は三割で十分)
デスクライトの光が、紺の箱のリボンに当たって、細い影を作る。
スマホが震えた。先方の部長からの返信――「当日、楽しみにしています。まずは生でいきましょう」。句点と“まずは生”の並びに、時代の匂いが少しだけ混じっていた。
画面を伏せる。怖さがまったく無いわけじゃない。けれど、怖さよりも、やりたい気持ちが勝っている。
マウスを置く。深呼吸。胸の奥で、一度だけ小さくノックする。
(大丈夫。準備は、できてる)
三月の夜は静かだ。やるべき段取りの音だけが、小さく心で鳴っていた。