特別だと言われた日
二月の終わり。
吐く息はまだ白いのに、街灯の下を通るとふっと春の匂いが混ざる。
会社を出て、駅前の横断歩道の信号が変わるのをぼんやり待っていたときだ。
「……隼人? おい、隼人だよな!」
背中に届いた声に振り向く。黒いジャージの上下、肩にスポーツバッグ。頬はうっすら赤く、呼吸が少しだけ弾んでいる。
大学同期の勝浦太陽。高校時代はサッカーの“神童”と呼ばれ、いまは一流企業で営業しながらもセミプロでボールを追いかけている男だ。僕の知り合いの中でもピカイチに中心にいる人物。
太陽は昔から僕を名字で呼ばない。
正確には――大学二年の春、ある日を境にいきなり「隼人」になった。きっかけは覚えていない。ノートを貸した日だったか、部室前でボールを拾った日だったか。はたまたただの宅飲みだったか。本人の中では何かスイッチが入ったのだろう。
気づけば、学内で僕を名前で呼ぶのは太陽だけになっていた。その事実は、むず痒くも、どこか嬉しかった。
「なんでここに?」
「フットサルの試合帰り。たまたま駅が同じだったんだよ。……なあ、隼人、このあと空いてる?」
太陽とは、大学卒業後、社会人二年目の夏まで月一くらいのスパンで飲み会をしていた。
といっても、だいたいはサークル仲間の複数人飲みで、僕は“とりあえず呼ばれる枠”。
去年の十月に一度だけ顔を出したのが最後で、それ以降の誘いには、いくつか行かなかった。忙しさだけが理由じゃない。
大きめのテーブルで、会話の端に笑いを合わせ続ける自分に、だんだん違和感が出てきたのだ。
変わろうと決めてからは、その“とりあえず笑っておく”を、少しずつ手放したかった。
うまくやれているフリのまま居続けると、何も変わらない気がして――だから、断った夜が何度かある。
こうして二人きりで飲むのは、大学時代以来だ。
「……まあ、ちょっとなら」
「よし、決まり!」
太陽の勢いに押されるように、駅近くの居酒屋へ入った。
***
乾杯して、最初のビールが半分消えるより早く、太陽は大学時代の話を次々と取り出す。
合宿で深夜に抜け出して食べたラーメン。僕が酔い潰れて介抱された夜。発表資料を一緒に作って、朝焼けを見ながら教室に向かった朝――妙に細かいディテールまで覚えている。
「隼人、あのときもそうだったよな。人が困ってると、さりげなく助けてくれる」
「……そんな覚えてる?」
「覚えてるって。ああいうの、けっこう救われるんだぞ?」
僕は笑ってごまかした。助けたつもりはなかった。ただ、その場でそうした方がいいと思っただけだ。
皿が空くたびに唐揚げやポテトが追加され、冷えたジョッキの水滴が卓上に輪を残していく。大学時代と変わらないテンポが、少し安心させる。
「そういや、隼人はどうなんだ。仕事の方は」
「まあ……普通、かな。やらなきゃいけないことやって、たまに失敗して……それでも、前よりは少しマシになったと思うけど」
口にしながら、自分でも曖昧な答えだとわかっていた。
早く出社するようになったこと。帰宅後に資料を見直す癖がついたこと。
誰かに言いたいわけじゃない。ただ、そうしていないと、自分の中で“何も変わってない”と決めつけてしまいそうで――続けているだけだ。
「ふーん、そっか。ちなみに彼女は?」
「いない」
「なるほどね。気になる人とか、良い人とかはいないの?」
「いや……まあ、特には」
「相変わらずだな。隼人ならすぐ出来そうだけど」
「いやいや。俺みたいなモブキャラは、そんな簡単にヒロインなんか現れないって」
冗談混じりに言ったつもりだったが、口に出した瞬間、自分の声に薄く苦笑いが混ざったのがわかった。
太陽は少し黙ってジョッキを傾け、それからコトンと音を立てて置く。まっすぐ僕を見る。
「……少なくとも、俺にとっては特別だけどな、隼人」
「……は?」
「大学二年の夏くらいかな。俺、あのとき結構しんどかったんだよ」
太陽の視線が卓上の輪を一つなぞってから、言葉が落ちていく。
「俺さ、高校まではマジでサッカー一本でさ。地元じゃ“神童”とか言われて、県選抜にも入った。トップ下で、ボール持てば道が開くみたいな感覚があってさ。試合に出れば点に絡むのが当たり前。日曜の夕方、商店街歩くと知らない人に“勝浦くんだ”って声かけられるくらいだった」
語り口は淡々としているのに、景色が目の前に浮かぶ。
夏の陽射しに白く光るグラウンド。スパイクで芝を蹴る乾いた音。観客席から上がる短い歓声。
誰よりも速く走り、誰よりも正確に蹴り、何度も試合を決めてきた少年の背中――それが、目の前の太陽だった。
「でも大学入って、部のレベルが一段も二段も上がったら、急に通用しなくなった。周りはユース上がりとか、全国常連とかばっかでさ。俺が全力でやって、やっと普通。最初は食らいつこうとしてたけど、練習行くのがだんだんしんどくなってきて……夏には、楽しいより、苦しいが勝っちゃってた」
僕は黙って聞く。
高校までの太陽しか知らなかった僕には、その落差が想像以上に深く感じられた。
「で、部活辞めたあと、空っぽになった感覚が消えなくてさ。『サッカーができる奴』って看板が剥がれたら、急に何者でもない気がした。何しても“前の自分以下”みたいに思えて」
太陽は少し息をつき、そしてかすかに笑って肩をすくめた。
「そんなとき、取りあえず仲がいいからって入ったサークルの飲み会で――隼人がびっくりするほど俺のこと褒めてくるんだよ」
胸の奥がちくりとした。僕は当時の自分を思い出す。
元気のない太陽に、思いついたまま、都合のいい言葉を投げていた。
『太陽のプレー、サッカーわかんない俺からしたら、めちゃくちゃかっこいいけど』
『まあ、太陽は太陽だろ』
『次は楽しい方を選べばいいじゃん。誰も文句言わないよ』
それは本心でもあったけど――同時に、そう言っていれば、輪の中心にいる太陽と長く話していられる気がした。
“必要とされている”みたいな温度に自分が包まれるのが、心地よかった。
優しい言葉というより、居場所を守るための柔らかいクッション。あの頃の僕は、そんなものを差し出していただけかもしれない。
「俺さ、あれに救われたんだよ。優しい言葉って、ああいうとき効くんだなって」
太陽が笑ってビールを口に運ぶ。
その横顔を見ながら、胸の奥に小さなざらつきが残った。
――甘やかしただけだ。
相手のためというより、自分のために。
「……そんなの、誰でもするだろ」
「しないって。少なくとも、あのときの俺の周りにはいなかった」
言葉が喉に引っかかって、うまく出てこない。
嬉しいはずなのに、その“特別”が自分の中で形を持たない。
太陽は肩の力を抜いて笑い、わざと軽い話題に戻してくれた。
気づけば終電が近い。
***
改札前で握手をした。太陽の手は相変わらず温かく、力強い。
「また飲もうぜ、隼人」
「……おう」
笑って返したけれど、ホームへの階段を降りながら足が少し重くなる。
特別だなんて、自分には似合わない。
誰かにそう言われるたび、心のどこかで反射的に否定してきた。
けれど今夜だけは、その否定が最後まで口の中で溶けきらなかった。
階段を下りきるころ、いくつかの景色が断片的に浮かんだ。
夏の合宿で、缶ジュースを奢ってくれた太陽。
冬の帰り道、肩を組んで笑っていた太陽。
昼休みに学食の列で、最後の唐揚げを半分分けてくれたこと。
講義をサボってゲーセンに行った帰り、駅前で無駄に写真を撮り合ったこと。
飲み会で先輩に絡まれた僕を、笑いながらさりげなく引っ張ってくれたこと。
試験前、眠気で舟を漕いでいた僕のノートに、赤ペンで落書きを残していったこと。
どれも他愛のない場面なのに、そこには必ず僕がいた。
太陽の輪の中のほんの片隅かもしれないけれど、確かに自分の居場所があった。
その事実が、言葉よりも重く胸に響く。
***
帰宅すると、部屋の空気は外より冷えていた。
コートをハンガーに掛け、バッグをソファへ落とす。スイッチを押すと、電気ヒーターがかすかに唸りをあげる。
無性に温かい飲み物が飲みたくなり、ケトルのボタンを押す。赤いランプが灯り、しばらく点いたまま揺れているのを眺めた。
――俺にとっては特別だけどな、隼人。
照明の下で、その言葉がふいに鮮明に蘇る。
自分では“普通以下”だと思っている部分を、あいつはそう言った。
それだけのことなのに、心の奥の何かが、ほんのわずかに緩んだ気がする。
ポケットに手を入れる。改札で握った手の熱が、布越しにまだ残っているような気がした。
洗面所で手を洗ってみる。冷たい水が指先を冷やすのに、胸の奥の温度だけは下がらない。
テーブルの上のスマホが小さく光った。
グループラインに、今日のスコアと集合写真。相変わらず太陽がグループラインの中心であり、近況報告をしてグループを動かしてくれる。
アルバムを遡ると、大学の駅前で撮った、ピースサインばかりのどうでもいい写真が現れた。
画面の中の僕は、少し気後れしながらも、確かに輪の中に立っている。
「今日はありがとな」と打って、消す。絵文字を付けて、また消す。
結局、何も送らずに画面を伏せた。
たぶん今は、言葉にしないで残しておきたい温度なんだと思う。
太陽も気を遣ってなのか、2人で飲んでいたことをグループラインに書いていなかった。
ケトルが小さく鳴って、湯気が立ちのぼる。
マグに湯を注ぎ、一口飲む。喉を落ちていく熱が、胸の奥の温度と重なった。
ノートPCを開く。明日の資料を一枚だけ見直し、気になっていた一行を直す。
誰にも言わない小さな修正――それでも、画面を閉じる指先は、ほんの少し軽かった。
特別だなんて、やっぱり似合わない。そう思う自分はまだいる。
けれど今夜は、その否定が全部にはならない。
拒絶しきれない温かさが、ゆっくりと内側に染みていく。
もしかしたら、あの言葉を信じられる日が、いつか来るのかもしれない――。
そんなことを、珍しく考えていた。
明日の朝、今日より少しだけ、胸を張れる気がした。