この距離のままでいいのに
すいません。本文は千葉と久住の視点が繰り返されるので読みにくい箇所があると思います。
一人称で判断できると思うので、お願いします。
二月の終わりは、朝と昼の境界がまだうまく馴染んでいない。
昼前だというのに外の風は刺すように冷たく、オフィスのガラス越しには薄く白い光が貼りついている。
バレンタイン商戦がひと段落して、コンビニの棚は早くも「春の新作」に模様替えを始めていた。けれど、僕の心はまだ冬のままだった。
プリンターの駆動音が、規則正しく背中を押す。
画面に向かっていると、視界の端で小さな笑い声がした。振り向くほどでもない、でも、耳が拾ってしまうくらいの音量。
久住先輩が、コピー機の前で市川と何か話している。
黒髪はいつも通りにまとめられて、横顔はきれいに整っている。目元が、ほんの少しだけ緩んでいるのが分かった。
――笑ってる。
驚くほど自然に、胸がざわついた。
この感じには覚えがある。焦りでも妬みでもないのに、落ち着かない。胸の内側で小さな波が立って、岸に寄せては返す。
僕はマウスを動かすふりをして、ほんの数秒だけ目をそちらに向けてしまう。
「……で、だから“あの資料の順番”が大事なんですよ」
「なるほど。通す順序で説得力、変わりますから」
笑い声は一度だけで、あとは仕事の話に戻っている。
それでも、さっきの一瞬の柔らかさが、頭から離れなかった。
僕の知っている先輩は、厳しい。隙を見せない。間違いを見逃さない。
けれど、今の横顔は、誰かの話に素直に笑っていて、控えめに頷いていて――ただの、優しい人だった。
「千葉さん」
肩越しに声が落ちて、僕は慌てて画面に視線を戻す。
市川が、コーヒーを片手に覗き込んでいる。低い声で、わざとらしく囁く。
「見すぎっすよ」
「み、見てない」
「いやいや、見てました。三回は見た。最低でも二回は見た」
「数えるな」
「いいじゃないですか。幸せなら、見ときましょうよ」
からかうような笑顔に、僕は言葉を失う。
市川は冗談の扱い方がうまい。これ以上反応したら大事になると察して、僕はトラックパッドを指でなぞるだけにした。
けれど、視界の端で、久住先輩がふっと笑った輪郭だけは、消えてくれなかった。
――見ていたい。
ただ、それだけかもしれない。
それだけのはずなのに、胸のざわめきは、落ち着くどころかじわじわと大きくなっていく。
昼の少し前、席に戻った久住先輩が僕のデスクに一枚の紙を置いた。
「午前の見積、差分チェックありがとう。ここだけ表記揺れが残ってたから、私のほうで直して出しておいた」
「あ、すみません。助かりました」
「“助かった”は私のセリフ」
いつもの調子。少しだけ、淡く笑う。
その笑い方が、さっき見た横顔と重なって、うまく呼吸ができなくなりそうだった。
言葉を探す間に、先輩は踵を返そうとして――ふいに、立ち止まる。
「……そうだ。午後の打ち合わせの資料、構成はこの順で行く。入口の『課題の整理』は、二枚目の数字より先に出す」
「はい。了解です」
「“先に正解を見せない”こと。あなたの企画、最近そこが少し改善されてる。いいと思う」
評価されたのに、胸の奥が熱くなるのに、言葉にできるのは定型句だ。
「ありがとうございます」
久住先輩は、なにも足さず、なにも引かない表情で頷いた。
その横顔を、視線が追いかけそうになったところで――
「千葉さーん。ランチ行きません?」
斜め前から稲毛が顔を出した。
市川もひょこっと立ち上がる。「行きましょう行きましょう。今日、駅前の担々麺が麺大盛り無料らしいっす」
「……最近カロリー気にしてるんだけど」
「大丈夫です。僕も太るので、相殺です」
「なにを相殺するんだよ」
笑いながら上着を取って席を立つ。
ふと、視線の端で久住先輩がこちらを見ている気がした。ほんの一瞬で、確信できない。
僕は軽く会釈をして、三人でフロアを出た。
担々麺の湯気は、鼻に届くまでの距離でいくらか丸くなって、唐辛子の匂いが遅れて追いかけてきた。
昼どきの店内は賑やかで、食券機の前には数人の列。
カウンターに並んで腰かけ、箸で麺を引き上げると、スープの赤がしたたり落ちた。
「で、千葉さん」
開口一番、市川がニヤつく。「さっきの“視線”、なんすか」
「なんの話」
「見てたの、久住先輩ですよね。コピー機の前の」
稲毛が丸い目をさらに丸くする。「え、そうなんですか?」
「いや、違うって」
「嘘だ。僕は見てた。千葉さんが見てたのを見てた」
「ややこしい」
「いいなあ。青春って感じ。――で、どうするんです?」
「どうもしない」
僕はレンゲでスープをすくって口に運ぶ。舌の上が少しだけ痺れて、じんわりと汗が滲んだ。
市川は、からかい半分に見えて、その実、よく人の心を見ている。
適当に笑い飛ばせばいいのに、できないのは――自分でも、もう、薄々認めているからだ。
「“見てたいだけ”って、けっこう正しくて、けっこうずるいですよね」
市川が小声で言う。
湯気の向こうで、彼の目は冗談半分の色を消していた。
「近づきすぎると、たぶん怖い。でも、遠くにいると、もっと怖い」
箸の先から、麺がするりと落ちた。
返事を用意する間もなく、稲毛が空気を軽くするように話題を変える。「そういえば、来週のアポ調整で――」
話はすぐに別の方向へ転がっていく。
けれど、僕の胸の奥では、まだ“さっきの笑顔”が、静かに波紋を広げていた。
***
午後。
フロアの空調は少し強くなって、窓の結露はほとんど消えていた。
電話が二本重なり、メールが五通、タスクに積み上がる。
数字を追い、差分を埋め、言い回しを整える。そうやって“いつも通り”に没頭していれば、ざわつきは自然と沈む――はず、だった。
廊下の先、給湯スペースの入口で、千葉くんと富浦さんが話しているのが見えた。
富浦さんは経理寄りの業務をしている、穏やかな女性社員だ。
先週、伝票処理のことで千葉くんがさりげなく助けたのを私は知っている。
彼は見返りを求めない。それが、良いところでも、歯がゆいところでもある。
「ほんと助かって……。あの、缶コーヒー、これでよければ」
「いや、そんな、いらないですよ」
微笑む声に、富浦さんの表情がほぐれる。
私は、足を止めたつもりはないのに、歩く速度がほんの少しだけ落ちていた。
自分で気づいた瞬間、苦笑が漏れる。――なにをしているの、私。
視線を外そうとして、外れない。
胸の内側に、わずかに熱いものが広がる。
別に、気にすることじゃない。仕事の会話。お礼の缶コーヒー。職場ではよくある、健全なやり取り。
それでも、彼の横顔を目で追ってしまう自分に、私は少し驚いていた。
(……ほんと、なに考えてるんだろ、私)
誰にも踏み込ませないと決めている。正しさを保っていれば、関係は澄んだままでいられる。
“期待させない”ことは、優しさの一つだと信じている。
なのに。
千葉くんが笑う。その笑いは、抑えた音量で、静かに人を緩ませる。
それを見て、私は少しだけ息が詰まる。
――自分の“特別”にはしてはいけない。けれど、“誰かの特別”にも、なってほしくない。
矛盾に気づいた瞬間、顔に出さないことだけは、得意だった自分を褒めたくなる。
「久住さん?」
背後で声がした。松戸だ。新婚の彼は、柔らかい笑顔を貼り付けて、スケジュール表を指差す。
「先方、来週の午後イチ、時間ずらせるって。で、第二候補の――」
「わかりました。調整、お願いします」
私は画面に視線を戻し、メールの下書きを開く。
指は規則正しく動く。
心は――ほんの少しだけ、乱れていた。
夕方前。
窓の外の光は薄く金色に傾き、フロアの床に細長い影を落とす。
小さな達成と、小さな失敗が、いつものように交互にやってくる。
私は仕事を畳みながら、ふと、斜め前の席を見た。
千葉くんが、一つ深く息を吐いた。
メールを一本送信して、背もたれに体を預ける。目を閉じて、数秒だけ天井を見る。
――疲れている。けれど、折れてはいない。
この数ヶ月で、彼の中の“粘り”は明らかに増えた。
少しずつ、静かに、でも確実に。
気づけば、私は、また目で追っていた。
吸い寄せられるように。
そして、慌てて視線を手元に戻した。カレンダーアプリの予定を確認するふりをして、心の中で深呼吸をする。
(落ち着いて。これは、ただの観察。仕事上の……)
自分に言い聞かせる声が、最後まで言葉にならないうちに、流山課長の声がフロアに落ちた。
「お、みんな、お疲れ。今日は早めに区切れるやつは上がっていいぞ。今月残りはバタつくからな」
ざわ、っと空気が緩む。
定時まで、あと十五分。
私は手元のチェックリストに印をつけ、PCを閉じた。
帰り際、何気なく視線を上げると、ちょうど千葉がコートに袖を通すところだった。
私は、少しだけ迷ってから声をかける。
「……一緒に駅まで、行く?」
自分でも驚くくらい、自然に言葉が出た。
千葉くんは一瞬、目を丸くして――それから、嬉しそうに笑った。
「はい。お願いします」
自動ドアをくぐると、外は冷えていた。
夜の手前の空気は、まだ冬の匂いを含んでいる。
ビルの足元に落ちた光の四角を踏み、歩道に出る。車の音と、信号待ちの人の群れ。
並んで歩く。距離は半歩ぶん。近すぎず、遠すぎない。
「寒いですね」
「手袋、忘れた」
「僕、カイロ持ってますよ。いります?」
「いらない。……ありがとう」
断り方が、冷たいわけじゃないのを知っている。
私はマフラーの端を指で整えながら、誰にともなく言う。
「明日、朝早い?」
「いえ、普通です。久住先輩は?」
「午前に一本、アポイントがあって外出する。午後は資料作り」
「そうなんですね。もし良かったら、打ち合わせのフィードバックください。次の案件の参考にしたく」
信号が赤に変わる。横断歩道の前で立ち止まる。
私は、視線を彼の横顔に滑らせる。
街灯の光が、頬のあたりに薄く乗る。
言葉を選ぶ前に、彼が先に口を開いた。
「先輩って、けっこう他の人と話してるとき、楽しそうですよね」
不意打ちだった。
私は少しだけ眉を上げる。「そう?」
「なんか……“そこにいる”感じがするなって」
「それ、どういう意味?」
「僕といるとき、たまにちょっとだけ……どこかに心が行ってる気がして」
胸の奥が、静かに音を立てる。
図星ではない。
けれど、まったくの外れでもない。
私は言葉に詰まって、視線を前に戻した。
「……考えごとしてるだけ」
短くそう言う。
彼は「すみません、変なこと言って」と頭をかく。
私は首を横に振る。
信号が青に変わった。
人の流れが動き出す。私たちも歩き出して、二歩目で、彼が小さな声で付け足す。
「でも今は、ちゃんとここにいますよ」
足が、半歩だけ遅れた。
私は、横を向かない。向いたら、表情が崩れる気がした。
代わりに、吐く息を整えながら、前だけを見る。
「……そう」
短く返す。
歩幅が合う。
沈黙は、気まずくはない。むしろ、落ち着く。
私は、マフラーの端を指先で摘み直して、ゆっくりと息を吐いた。
「あなた、最近、言葉の選び方が少し変わった」
「え?」
「相手の“今”を見るようになった。――たぶん、それ、仕事でも効く」
正面を見たまま言うと、彼は少し照れたように笑う。「そうだといいんですけど」
「いい、じゃなくて、するの」
「……はい」
横断歩道を渡りきる。
駅のアーケードが見えてくる。
コンビニの入り口に、まだバレンタインの名残のポップが半分だけ残っている。
次の季節が、すぐそこまで来ている。
けれど、私の中の季節は、たぶん、今ようやく動き始めたところだ。
改札への分岐点が近づく。
私と彼は、いつも通り、ここで別々の路線へ向かう。
分かっているのに、足が、少しだけ遅くなる。
「じゃあ、また明日」
彼が言う。
私は頷きかけて――ふと、立ち止まる。
「千葉くん」
名前を呼ぶと、彼が目を丸くする。
私は、言葉を手探りで拾い上げる。
「……さっきの。私といるときに、心がどこかに行ってるって、言ったやつ」
「はい」
「たぶん、あなたのことを考えてる」
自分でも信じられないくらい、真っ直ぐに言えた。
口に出してから、耳が熱くなるのが分かる。
私は視線を落とし、靴のつま先を見つめた。
「仕事のこと。あなたの提案の“次の一手”。良いアドバイスをしなきゃって。――それで、表情が少し固くなるかもしれない」
「……」
「だから、気にしないで。嫌で考えてるわけじゃない」
彼は、しばらく黙っていた。
電車の到着を知らせる音が、遠くで鳴る。
人の流れが、二方向に割れていく。
やがて、彼は小さく笑った。息が白くほどける。
「はい」
それだけ。
でも、その“はい”に、たくさんの温度が含まれているのを、私は感じ取った。
「また明日」
「また明日」
私たちは、逆方向に歩き出す。
背中に、まだ言っていない言葉がいくつか引っかかったまま。
でも、それでいい。
今は、これでいい。
***
改札を抜ける人の流れに混ざりながら、胸の内側の古い扉が、静かに軋む音を立てた気がした。
押したわけじゃない。勝手に、少しだけ開いた。
“この距離のままでいいのに”って、何度も自分に言い聞かせてきた。
でも、さっきの一言で、その言い訳が急に頼りなくなった。
僕といるとき、先輩の心がどこかに行っている気がして――たぶんそれは、僕のほうを向いていた。
こんな都合のいい解釈は、普段なら笑って否定する。
けれど今は、うまく否定ができない。
電車がホームに滑り込んでくる。
風に煽られた広告がぱたぱた鳴って、列が少し前に詰まる。
僕はポケットの中で拳を握った。
白状しよう。もう、足りない。
この距離で満足できなくなっている自分が、確かにいる。
(でも、焦るな)
自分に言う。
焦って距離を詰めるのは、いちばん簡単で、いちばん雑なやり方だ。
先輩は、“正しさ”で自分を守ってきた人だ。
僕が踏み込むなら、その正しさを壊すんじゃなくて、別の形で支えられるように。
その準備が、まだ僕には足りない。
車両の真ん中、吊り革につかまる。
揺れに合わせて、少し体を預ける。
窓の外に、駅の光が後ろへ流れていく。
胸のざわめきは、もう痛くはない。
ただ、暖かい。
(……ちゃんと、見よう。先輩の“今”を)
誰よりも近くで、ではない。
でも、誰よりも丁寧に。
それが、今の僕にできることだ。
***
改札を抜ける。
階段を降りる人の背中は、どれも日常の重さを均等に背負っていて、見ていて落ち着く。
私は、改札横のカフェの明かりを横目に、少しだけ歩く速度をゆるめた。
(踏み込ませない)
それが、私を守ってきた。
正しさを盾にして、誤解されない距離を保って、期待させない。
そのやり方は、たぶん間違っていない。
でも、彼に関しては、その盾が薄くなっているのを感じる。
さっき言ってしまった言葉を、何度も反芻する。
――たぶん、あなたのことを考えてる。
仕事のことだ、と最後に逃げ道をつけた。
それが本音でもあるし、言い訳でもある。
(あなたは、どうしてそんなふうに気になるの)
自分に問う。
答えは、まだ言葉にならない。
けれど、私が少しだけ柔らかくなれる相手がいることを、今は否定したくない。
盾を下ろすのは、怖い。
でも、ずっと構えたままでいるのは、もっと疲れる。
改札前の花屋に、早咲きの黄色が並んでいる。
春は、必ず来る。
その当たり前に、少しだけ救われる。
(――この距離のままで、いいのに)
そう思った瞬間、胸の奥のどこかが反発する。
“いいのに”じゃなくて、“今は、これでいい”。
言い換えるだけで、景色が少し変わった。
「明日」
小さく呟く。
明日も、私は彼に厳しくする。仕事のことでは、遠慮はしない。
その代わり、彼の“今”を、もう少しだけよく見よう。
それが、私にできる唯一の公平だ。
世界は、まだ冬の背中を引きずっている。
けれど、ふたりの心は、ほんの少しだけ、春の前触れを知った。
“この距離のままでいいのに”。
それでも、足りなくなる日が、きっと来る。
だから今は、焦らないで――目を逸らさないで、歩こう。