街が色づく日、僕も少しだけ
二月の朝は、街の方がよく喋る。
駅までの道。コンビニの入り口にはハートのポップと季節限定チョコの山。温かい肉まんの湯気よりも、箱に印刷された金色の“期間限定”の方が、ずっと存在感を主張している。エスカレーターを上がると、デパートの大きな垂れ幕が視界いっぱいに広がった。世界は丁寧に“バレンタイン一色”に塗られていて、僕の気持ちだけ、まだ冬のままだ。
(まあ、毎年のことだし)
そう思って足を速める。吐く息は白いのに、街の空気は甘くて、どこか落ち着かない。けれど――落ち着かないのは街であって、会社ではない。少なくとも、うちのフロアは。
自動ドアが開くと、プリンターの規則的な音と、電話の呼び出し音の合間に、薄いコーヒーの匂い。誰かが盛大に騒いでいるわけでも、イベントの話で一色になっているわけでもない。日常に、ほんの少しだけ色が足された感じ。そんな程度だ。
「千葉先輩」
声の方を向くと、市川が紙コップを二つ持って近づいてきた。
「ブラックでいいですよね。今日のは薄いんで、二杯いけます」
「その自慢いらない」
「いやあ、街はもう“愛だの恋だの”で埋め尽くされてますねぇ。俺は現実的に“義理の算術”を組み上げたい所存」
「義理の算術って何」
「総獲得数と、ホワイトデーの投資対効果を踏まえた予算編成です」
「働け」
僕が肩をすくめると、市川はニヤリと笑った。斜め後ろから、さらに軽い声が割り込む。
「そこに“新婚補正”という最強バフが入りましてね」
マグカップを片手に、松戸さんが自席から振り向いた。新婚一年目、二月生まれ。本人が言うまでもなく、奥さんからのバレンタインは“確定演出”だ。
「今月、俺誕生日だからさ。去年から宣言されてるんだよ。“バレンタイン&バースデーの二段重ね”って。怖いわ。嬉しいけど」
「いいっすねぇ……勝ち組……!」
「いや、プレッシャーもあるのよ。ホワイトデー、俺も全力返ししないと家庭内の相場が崩れる」
「株価かよ」
軽口を交わしつつ、僕はコートをハンガーに掛ける。そのとき、視界の端で、久住先輩が少しだけ顔を伏せ、画面に向かったまま手を止めたのが見えた。こちらの会話を“聞いている”のだと、なんとなくわかる。けれど彼女は振り向かない。いつものように、背筋をまっすぐにして、タスクをひとつずつ片づけていく。
(こういうの、くだらないって思ってるんだろうな)
そう思いかけて、口の中で苦笑いした。たぶん、昔の僕ならそう決めつけただろう。でも、最近の彼女は――その“くだらない”の中に、少しだけ笑いを見つけていることがある。気づく人は少ないけれど。
「で、千葉先輩。去年は?」
「ゼロ」
「潔い」
「ゼロはゼロだよ」
「今年は更新目指していきましょう。“ゼロからイチへ”」
「プロジェクト名つけるな」
市川の冗談に、後ろで松戸さんがくすっと笑い、僕はPCを立ち上げた。今日の午後は、久住先輩と二人で顧客訪問。事前に整えておいた資料の最終確認をする。街の色に浮き立つほど、僕には余裕がない。
それでも――ホーム画面の時計を見て、ふと窓の外に目をやる。デパートの垂れ幕が風に揺れて、朝の光を返していた。
世界は勝手に、僕の外側で動いている。
その事実は、どうしようもなく心細くて、ちょっとだけ心強い。
***
昼を少し回った頃、僕らは先方のオフィスを出た。打ち合わせは穏やかで、宿題も明確。大崩れしないかわりに、派手な手応えもないタイプの商談だ。
駅までの道すがら、冷たい風が頬を撫でる。交差点の向こうには、ここにもバレンタイン特設の小さなポスター。街は律儀だ。二月になったら、ちゃんと二月の顔をする。この前まで正月気分だったはずなのに。
「……バレンタインって、もらう側は何話すのが正解なんですかね」
信号待ちのタイミング、つい口が先に動いた。久住先輩が、横目でこちらを見る。表情は、いつも通り淡々としている。
「“正解”は、ないと思います」
「ですよね」
「でも、もらった相手に気を遣わせないことは、大事かもしれません」
「なるほど……難易度高いな」
「普段通りでいいんじゃないですか」
普段通り、か。僕の“普段”は、ずっと頼りなくて、いつも誰かの後ろに隠れていた。最近は少しずつ前に出ようとしている。それでも、足元はおぼつかない。
「久住先輩は、誰かに渡すんですか?」
聞いた瞬間、しまったと思った。こんな話題、彼女は好まないかもしれない。でも、返ってきた声は平坦で、少しだけ柔らかかった。
「妹と……総務の浦安さんに。毎年やりとりしてます」
「お二人とも、喜びますよね」
「そうですね、甘いものが好きなので。浦安さんは特にお世話になってますし。」
小さく、そこだけ空気が温まる感じがした。仕事のことを話すときの先輩の声とは違う、生活の匂い。個人的なことをほとんど語らない彼女が、“当たり前の関係”のことを話すときにだけ見せる、わずかな素の温度。
「……いいですね。渡したい人がいるって」
僕の言葉に、先輩は歩幅を変えず、視線だけ先に戻した。
「千葉さんは、どうなんですか」
「もちろん“渡す”相手はいないです。もらえたら、嬉しいですけど」
「素直ですね」
「そういう時は素直でいた方が、正解に近い気がして」
「だから“正解”はないって言ったのに」
わずかに声音が揺れて、口元だけ笑ったように見えた。電車の風が通り抜け、僕らの会話はそこで一度途切れる。いつの間にか、肩の力が抜けていた。
電車のドアが開き、人の波に押されるように乗り込む。吊り広告の一角に、やっぱりピンクの文字。世界はしつこく、でもどこか親切に、季節を教えてくる。
僕は、手すりを握りながら、窓に映る自分の顔を見た。去年の冬と、たぶん少しだけ違う顔だ。
***
帰社すると、フロアの空気はいつも通りだった。電話が鳴り、キーボードが鳴り、誰かが小さくため息をつく。その合間に、“お疲れさまです”と“お願いします”が流れていく。
夕方前、先方への確認メールを打っていると、背中の方から小さなざわめき。振り向くと、女性社員が二、三人で小さな包みを配って歩いている。包装紙の柄は統一されていて、名札シールにマジックで手書きの名前。業務連絡ほどの声量で、「日頃の感謝です」とだけ告げていく。行事というより、所内の“礼儀作法”に近い。
その包みが、僕のデスクにも置かれた。
「……え?」
口から漏れた声に、自分で苦笑いした。義理だ。それはわかっている。けれど、去年はなかった“所内の作法”に、今年は僕の名前も含まれたのだと思うと、妙に胸がくすぐったい。
「先輩、更新おめでとうございます」
PCのモニター越しに市川がこっちを見ながら囁き、親指を立てた。「うるさい」と目で返す。包みをそっとキーボードの右上に寄せ、メールに戻る。打鍵のリズムが、僅かに一定になった。
送信を押したところで、横から視線を感じる。久住先輩が、こちらを一瞥した気がした。こちらが横を向き目が合う寸前に、彼女は視線をPCに戻す。ほんの一瞬だけ、瞼がゆるむのを見た気がした。
それは“笑顔”というほどわかりやすいものではない。けれど、僕の中のどこか、固くなっていた場所に、温かい指先が触れたみたいに力が抜けた。
(見てくれてる)
そう思うのは、甘いだろうか。思い上がりかもしれない。それでも、今の自分には、その思い上がりが必要だ。
***
定時を少し過ぎた頃、松戸さんが椅子を回して、背伸びをした。
「よし、俺は今日はちょっと早めに帰るわ。家で打ち合わせあるから」
「家庭内MTGですか」
「そう。“バレンタイン&バースデー計画”の最終調整。こっちの希望も伝えた上で、予算案の擦り合わせ」
「株価じゃなくて家計の話になってやがる」
「まあ、楽しみだよ。こういうの、ちゃんと話すの嫌いじゃない」
そう言って笑う。新婚の人の笑顔は、見ていて気が抜ける。誰かと生活を合わせていくって、こういうことなんだろうなと思う。僕にはまだ、想像の外側にあるけれど。
松戸さんが帰り支度を始めたとき、デスクの間を小さな声が通り過ぎた。
「久住さん、これ……今日の分の精算書、確認お願いできますか」
「はい。データで送ってください」
変わらない声。変わらない背筋。変わらない日常。そこに、さっきの“僅かな揺れ”だけが残像のように留まっている。
***
夜。コンビニに寄る。レジ横には、朝見たのと同じ特設コーナー。誰かのために、今日も誰かがチョコを選んでいる。僕は缶チューハイと、半額シールの唐揚げ弁当を手にレジへ向かった。決済音が鳴る間、ふと考える。
(もらえたから嬉しい――だけじゃない)
会社の机に置かれた小さな包み。それをくれたのは“女性陣”の連名で、僕個人あてのものではない。だけど、あの瞬間の僕を、誰かが見ていた。目の前で、誰かが確かに、反応を受け取ってくれた。
透明だった自分の輪郭が、少しだけ濃くなる感じ。
家に帰り、弁当の蓋を開ける。レンジの回る音を聞きながら、スマホにメモを開いた。今日の打ち合わせのポイントを書き足す。その下に、なんとなく一行だけ、別の言葉を打つ。
「“正解”はなくても、誠実はある。」
さっきの会話の、久住先輩の声色を思い出す。褒められたわけでも、励まされたわけでもない。ただ、目の前の僕の“素直”を否定されなかった。それだけのことが、今夜の僕には効く。
湯気の立つ唐揚げを一つつまんで、缶チューハイを開ける。喉に落ちていく冷たさが、胸のあたりで静かに広がった。
「……もっと、ちゃんと変わりたい」
口に出した言葉は、誰にも届かない。けれど、不思議と、独り言は背中を押す。明日も、朝少し早く出社して、今日の宿題を一時間だけ前倒しで片づけよう。それだけの小さな決意で、世界は少し変わる。少なくとも、僕の見え方は。
スマホに来た通知を何気なく開くと、社内のチャットに久住先輩からのメッセージが来ていた。添付ファイルは、今日の打ち合わせの議事メモ。本文は短い。
共有ありがとうございます。
修正点、問題ありません。助かりました。
いつも通りの、正確で、必要十分な文面。だけど最後の“助かりました”が、ほんの少しだけ長く見えた。きっと気のせいだ。そう思って、もう一度読んでみる。やっぱり同じ長さだ。僕の目が勝手に縦に伸ばしているだけ。
笑って、スマホを置く。
世界は今日も、街から先に色づく。
僕の内側は、やっとそれを追いかけはじめたところだ。
いつか――“誰かの本命”をもらえる人間になれるかどうかは、わからない。
わからないけれど、わからないから、進める。正解のない場所で、少しでも誠実に。
冷蔵庫の灯りが狭い部屋を照らす。缶をもう一本取り出して、ためらって戻す。誠実は、一日の終わりの選択にも宿る気がした。
「おやすみ」
小さく呟いた声は、窓の外の冷たい空気に飲み込まれていく。街は、明日もきっと甘い。
僕は、明日もちゃんと働く。少しずつ、誰かの隣に立てるように。