意味のない優しさでも
「ありがとう、助かった」
小さな一言が、胸の内側の古い扉をノックした。
夕方前。会議室の予約がダブっていたことに気づいて、空き会議室へスライドさせた。誰の目にも触れない微調整。差出人不明の善意みたいな仕事だ。予定が整った瞬間、隣の席の松戸さんが気さくに笑って、軽く親指を立てた。
「千葉くん、やっぱ気が利くなあ」
うれしい。……同時に、嫌だ。
この一言のために身体が勝手に動いた気がして、自分で自分が気持ち悪くなる。
電話を切った久住先輩が、こちらを一瞥する。薄いまつ毛が瞬き、すぐに画面へ戻った。言葉はない。必要もないのかもしれない。なのに、胸のどこかがちくりと痛む。
僕はカーソルを文末へ移動させ、保存のショートカットに指をかけた。
そのとき、遠い過去の風がふいに吹き込み、紙の束のように記憶がめくれた。
——「ありがとう」が特別になったのは、いつからだろう。
* * *
小学生の僕は、目立ちたがり屋だった。
でも、向いていなかった。
学級会で「係を増やしたほうが公平だと思います」と手を挙げたのに、声が裏返って、笑われた。隣の人気者が「じゃあこうしようぜ」とまとめて、拍手が起きる。僕の提案は、彼の言葉になってやっと受け入れられた。
体育でも目立てなかった。ドッジボール。最後まで残ればヒーローになれると思って、ひたすら逃げ回った。結果、確かに最後の一人まで残った。でも、誰も「すげえ」とは言ってくれない。「当てにいけよ、ヘタレ」と、背中に笑いが刺さる。勝っても、ヒーローにはなれない勝ち方があるのだと知った。
帰りの会で先生が「千葉くんもがんばったね」と言ってくれた。
その瞬間に漂った教室の空気は、褒められた者が纏う香りではなかった。慰められている人の匂い。僕は、頑張ること自体がどこか恥ずかしいものに見えて、次第に手を挙げなくなった。
* * *
中学生の僕は、勉強に逃げた。
リーダーシップもない、スポーツもダメなら、机に向かえばいい。点数は嘘をつかない。努力は裏切らない。そう教わったし、信じた。
遅い時間まで問題集に鉛筆を走らせた。模試の判定は上向いた。担任は言った。「第一志望、十分狙える」。信じた。胸の奥で、小さな灯が明るくなった。
テスト前には、クラスメイトから「この問題の解き方、教えて」と声をかけられるようになった。休み時間にノートを広げて、式の途中を指でなぞりながら説明すると、「あー、なるほど!」と笑われる。
その瞬間、ほんの少しだけ、自分がこのクラスで役に立てている気がした。
勉強なら、僕でも“中心”に寄れるかもしれない——そう思った。
だから、もっと頑張った。
放課後に図書室へ寄って、英単語を一つでも多く覚えた。
部活帰りの友達に「悪い、今日は寄り道できない」と断ってまで机に向かった。
合格発表の日、掲示板の白い紙を見上げた。僕の番号は、なかった。第二志望にも、なかった。第三志望だけが、僕の落とし所になった。
歓声が上がる校門前で、膝の裏が抜けたみたいに力が入らなくなった。スマホの通知がせわしなく震える。「どうだった?」「いけた?」文字が滲むほどの涙は出ない。ただ、返信できない指先が、じっとり汗ばむだけだった。
家で母が「よく頑張ったね」と言った。言葉の通り、悪気はないのだと分かっている。でも、その「頑張ったね」は、掲示板の前で見た自分の空席を、さらにくっきり縁取るだけだった。
——努力しても、届かない場所がある。
それを認めた瞬間から、僕の中の何かが乾き始めた。
* * *
高校生の僕は、努力の仕方を忘れていた。
忘れたふり、かもしれない。
体育ではボールを追わない。発表では最初から誰かに譲る。教室にいるのに、何も揺らさない石のように過ごす。そうしていれば、傷は増えない。増えないだけで、減りもしないけれど。
秋の午後、曇りの日。廊下の突き当たり、階段の影で女の子が泣いていた。柏井。クラスの真ん中のグループにいるものの、半歩外れた場所に立つタイプ。目立たない髪留め、白いハンカチ。誰かの視界にかかっては消える、雲みたいな子。
僕は迷って、迷って、そして口を開いた。
「……無理しなくていいと思う」
柏井は顔を上げた。涙の縁にかかったまつ毛が、細く震えた。
「ありがとう、千葉くん。優しいね」
喉の奥が熱くなる。
その一言が、空っぽの内側に静かに水を注いでいく感覚がした。
“必要とされる”という言葉の意味を、初めて身体で理解した。
それから、少しずつ話すようになった。
「次の小テスト、どうしよう」とか、「体育、またバレーだよ」とか。
僕が「ノート、写す?」と差し出すと、柏井は「ありがとう」と笑った。
休み時間のささやかな会話。黒板のチョークの粉が舞う匂い。机の木目。全部が少しだけ優しく見えた。
優しくすれば、また話しかけてくれる。
また話しかけてくれたら、僕でも「いていい」と思える。
——そうやって、僕は“優しさの使い道”を覚えた。
冬が明けるころ、放課後の昇降口で、柏井の声が軽く跳ねた。
「ねえ、布佐くんと付き合うことになったんだ」
相手の名前は、教室の中心にいる男子。明るい声。運動もできる。先生にも可愛がられる。僕が中学で信じ、砕かれた“努力の正解”とは別の場所で、最初から正解を知っているみたいなやつ。
柏井は恥ずかしそうに笑って、靴紐を指で弾いた。
昇降口のガラスに夕焼けが映って、世界の輪郭が少しだけ滲んだ。
——やっぱり、僕じゃない。
あの日、泣いていた彼女に声をかけたのは、たまたま近くに僕がいたからだ。
彼女が欲しかったのは、僕ではなく「優しさ」そのもの。
そして、彼女が選んだのは、僕の持っていない“中心”。
胸の中の水は、触れられただけで、すぐまたこぼれていく。
それでも、僕はあの一瞬の“ありがとう”の温度を忘れられなかった。
だから、誰にでも優しくすることにした。
意味があるかどうかではなく、意味があるように感じさせてくれる“手段”として。
「大丈夫だよ」「気にしないで」「手伝おうか」
——言葉は簡単で、簡単な言葉ほど、依りかかりやすい。
それは、救いではなく、依存だった。
他人が僕に依存するのではなく、僕が“ありがとう”に依存していく形の。
誰でもよかった。誰であっても、よかった。
“優しさ”で満たせる空き容量が相手にある限り、僕の価値はそこに置けた。
* * *
大学生の僕は、「いいやつ」になっていた。
必要とされやすい人。忘れられやすい人。
サークルの打ち上げで、席の隙間を埋めるのがうまい椅子みたいな存在感。
大学で出会った勝浦太陽という人間は、真逆だった。
名は体を表すとはこのことかと思うように、輪の中心で笑って、場を軽くする。話が途切れる前に次の話題を投げ、笑いの落下地点を知っている。眩しさは鈍器みたいに人を打たない。反射板みたいに周囲を照らす種類の眩しさだった。
——ああいうふうには、なれない。
自分でも分かっていた。生まれ持ったものも、積み重ねてきたものも、全部が違う。
だから、諦めていたはずなのに。
笑い声の中心に彼がいるのを見るたび、胸の奥がきゅっと痛む。
“羨ましい”よりも、“嫉妬”に近い感情。
その感情を認めるのが嫌で、僕は余計に、いつも通りの「いいやつ」を演じた
ある夜、宅飲みの片付けを一緒にしていたとき、勝浦はビール缶を潰しながら、何気なく言った。
「ありがとな。千葉のそういうとこ、俺は助かってるよ」
その一言を、当時の僕は社交辞令の棚に雑にしまった。
——ただ、しまった場所を、どういうわけか覚えている。
言葉は、引き出しの奥に残ったまま、今も時々かすかな音を立てる。
* * *
誰かの笑い声でふと我にかえる。
オフィスの空調は乾いていて、紙とインクの匂いが混じる。画面の隅で、アラートの小さな赤が瞬く。
僕はメールの末尾に、定型句を打つ。
「お忙しいところ恐れ入りますが——」
誰にでも優しい、角の取れた言葉。
その上から、久住先輩の声が降りてきた。
「さっきの調整、ありがとう。……本当に助かった」
口調は淡々としている。評価でも賛辞でもない。事実の報告のような、必要最低限の温度。
不意に、心臓の拍が一つだけ強く打った。
僕は笑って、首を振る。
「いえ。たまたま気づいただけなので」
たまたま——。
高校の時に意識してからずっと、僕は「たまたま」の近くにいる。
誰かの必要の近くに偶然を装って立って、そこで“優しさ”を差し出す。
差し出すたびに、僕の中の空洞はわずかに温まって、でも形は変わらない。
この優しさは、誰のためのものなんだろう。
相手のため? それとも、僕のため?
ふと、机の上のカレンダーに目がいく。二月。角の取れたハートの絵が、広告欄に小さく印刷されている。街はそのうち、チョコレート色の正しさで満ちるだろう。贈り物は、誰が誰に渡すのか。誰が、誰の“中心”に立つのか。
“優しさ”の使い道は、そろそろ変えないといけない。
「ありがとう」をもらうためじゃなくて、同じ方向へ進むために。
保存のショートカットに指を落とす。
画面の右下、時刻が一分だけ進んだ。
乾いた空調が服の袖口を撫でる。
僕は姿勢を正して、次のメールを開いた。
——たぶん、まだうまくはできない。
でも、あの頃の僕が逃げた場所に、今の僕は立ちたいと思う。
誰にでもではなく、「誰か」に向けて。
意味のない甘さではなく、本当の意味を含んだ優しさを片手に。
深く吸った息を吐き、キーを叩く。
音の一つひとつが、閉ざされた扉を少しずつ押す力になる。
新しい扉の軋む蝶番の音が、かすかな合図のように響く。
その先に何があるのかは分からない——けれど、開ける方向だけはもう知っている。