それでも、君に追いつきたくて
二月の風は、窓ガラスを隔てても冷たさを押しつけてくる。
午後の陽は低く、斜めから差し込んだ光がフロアの床を細長く切り取っていた。
営業部の空気は、いつもより張り詰めている。書類をめくる音や、遠くのプリンターの吐き出す規則的な駆動音まで、やけに鮮やかに耳に入ってくる。
年度末の個人面談――ふだん軽口ばかり叩く課長・流山さんが、この日ばかりは真面目な顔をする。
カレンダーに並んだ「面談」のブロックが、ひとつ終わるたびに、フロアのどこかで小さくため息が落ちる。
「千葉さん。次、順番なので会議室にお願いします。」
先輩に名前を呼ばれた瞬間、心臓が小さく跳ねた。
手元の自己評価シートには、盛った言葉なんて一つもない。できたこと、できなかったこと。数字、失注理由、反省。普段どおり、事実だけを並べた紙切れだ。
深呼吸をひとつして立ち上がる。椅子のキャスターが床を擦る音が、自分の動揺をそのまま表している気がして、少し恥ずかしくなる。
会議室のドアを閉めると、外のざわめきがふっと遠ざかった。ガラスの壁越しに見えるフロアの動きが、少しだけスローモーションに感じる。
流山さんは椅子に背を軽く預け、手元のPCを動かしながら、まっすぐにこちらを見る。
「……で、今年の評価だけどな」
低めの声が、狭い部屋の空気をわずかに揺らした。
「動くようにはなった。だけど正直に言うぞ――まだ“言われたことをやってる”止まりだ」
言葉が、乾いた石のように胸の奥に落ちる。
痛い。けれど、嘘じゃない。自分でもうすうすわかっていたことだ。
「もちろん、それだけでも去年から見れば進歩だよ。でも、評価ってのはその先を見てる。自分発の動きが、まだ薄いんだよな」
机上のペン先が光を弾く。視線は厳しいのに、体温は静かに伝わってくる。不思議な圧。
流山さんは、指でエンターキーを叩きながら評価を続けた。
「たとえば、先月の〇〇社。お前の資料はよくできてた。でも“提出して終わり”になってたろう? 本当はあのタイミングで、他部署も巻き込んで進めてほしかったんだ」
頭の中に、当時のやり取りが蘇る。
仕様の詰めでメールが往復し、先方の経理質問に答えが詰まって、日程がやや遅れた。
でも、ある時点から、急に道が開けたみたいに話が滑らかに運んだ。あれは――。
「技術に声をかければ、仕様の確認は一発で整った。経理に一言入れておけば、決裁承認の流れは半分になった。ああいうのは、“言われる前に”動くもんだ」
「……もしかして、スケジュールが予定より早まったのって」
「気になったからな。少しだけ手を出させてもらったよ」
肩をすくめて、事もなげに言う。「まあ、承認行為は上の仕事でもある。でも、お前がそこまで発想できるようになれば、もっと楽になるし、評価も上がる」
いつも冗談で場を回す人なのに、こういう時だけ言葉が骨太で、腑に落ちる。
叱られているのに、妙に納得できてしまうのは、この人がちゃんと現場を見ているからだろう。
「あと、迷ったら早めに“生の会話”を入れろ。△△社、二回目の修正はメールで投げっぱなして終わっただろ。あれ、電話かオンラインで十五分押さえて口頭で確認してたら、修正は一回で済んでる」
指で、ブロックを空中に描くようにしながら話を続ける。
「今やってることに追加して、この三点頑張ってみろ。
ひとつ、課題が出たら“誰と・いつ・どの場で”詰めるか即決すること。
ふたつ、相手の部署内の承認フローを“図にする”こと。矢印を書け。見えるようにしろ。
みっつ、社内で“巻き込む順番”を覚えろ。技術→経理→法務の並びで入れた方が早い案件は多い。逆順は渋滞する」
言葉が、手帳に書き込みたくなるスピードで落ちてくる。
ふだん見せない「頼れる上司」の顔が、今ははっきりそこにある。
「……わかりました」
自分の声が、思ったより落ち着いていた。
流山さんは、こちらをじっと見てから、短く頷く。
「よし。今言った三点、今担当している〇〇商事の派生案件でもやってみろ。もちろん、今提案している案件をクローズするのも大事だけどな。先方の課長、たしか時間帯は朝が取りやすかったはずだから、先に枠だけ押さえてから議題を送れ。向こうは喜ぶ」
「朝一で、先にブロック……」
「そうだ。……人を動かすのはタイミングと段取りだぞ、千葉」
静かな声に、「はい」と素直に返す。
以上だ。次の人を呼んできてくれという課長の言葉とPCを叩く音が、会議室の空気がまた少し動かした。
***
ドアを開けると、冷たい空気が肌を刺した。
胸の奥がじわじわ熱いのに、指先だけが妙に冷たい。
(去年の今頃は……まあ、無難にはこなしてたつもりだったんだよな)
大きなミスもない、目立つ成果もない。去年の面談は、仕事の話はせずほぼ雑談で終わった。
今になって思えば、具体的なアドバイスも、厳しい言葉もなかったのは――期待が薄かったってことなのかもしれない。お客様みたいに扱われてたんだ。
(それに比べれば……)
この一年、とくに後半は、自分なりに動いたつもりだ。
早朝に出社して、先輩の資料を真似して、アポのメールも文面を何度もいじった。
それでも、まだ足りない。自分発の動き、と言えるほどには。
席に戻ると、久住先輩がちらりとこちらを見た。
何も訊かない。その代わり、キーボードを打つ指が一拍だけゆっくりになって、また一定のリズムに戻る。
それだけの動きで、「面談だったんだね」と言われた気がした。
モニターに顔を向けるふりをしながら、視界の端で先輩の横顔を盗み見る。
いつもの、背筋のまっすぐさ。乱れない黒髪。
けれど、まぶたの影がほんの少しだけ柔らかく見えた。気のせい、ではないと思う。
***
夕方。フロアのざわめきを切り裂くように、電話が鳴った。
番号を見た瞬間、背筋が自然と伸びる。
「はい、株式会社――千葉です。いつもお世話になっております」
受話器の向こうは、年明けから粘ってきた〇〇商事の担当者。背景で誰かの笑い声が遠くに混じる。忙しい時間帯だ。
挨拶のあと、少しの間があって、落ち着いた声が続く。
『社内調整が終わりました。――正式に、お願いしたいと思います。』
胸の奥で、何かが破裂した。
ペン先が走る。納期、数量、検収方法など。メモの角が手汗で少し柔らかくなる。
「ありがとうございます。はい、承知しました。では、技術の仕様確定のために、課長様含めて明朝十五分だけ先にお時間を……」
自分でも驚くほど、さっき教わった通りの段取りが口をついて出る。流山さんのアドバイス通り、スムーズに調整が完了した。
通話の最後、先方の笑い混じりの「よろしく」が、ほんの少し軽やかに聞こえた気がする。
受話器を置くと、机の上の時計の秒針の音が、なぜか明るく響いた。
「……やった」
吐息みたいな声が、勝手に漏れる。
「さっきの、〇〇商事?」
隣から、久住先輩の声。いつもより、ほんの一段だけ柔らかいトーン。
僕は頷いて、言葉を整える。
「正式に、発注いただけました。来期とまたがりますけど、初回は来月からで……」
「そう。良かったじゃない。最初から、けっこう時間かけてたでしょう」
「はい。途中で迷って、何度も直して……」
「でも投げなかった。それは正しい」
視線はディスプレイのまま、言葉だけがこちらに届く。
続けて、少しだけ声音が落ちる。
「ちゃんと、届いたんだね。あなたの、頑張り」
心臓がひとつ、大きく跳ねた。
喉が急に乾き、声がかすれる。
「……そう、ですかね」
「そうだよ。少なくとも私は、そう思ってる」
そこで初めて視線が合った。
目尻が、わずかに下がっているようにも見えた。目元のきつさが和らいでいる。
少し間をおいて、久住先輩がキーボードから手を離す。
「面談、厳しかったでしょ」
「……はい。覚悟してなかった分、結構、刺さりました」
「でもね、あの人、期待してない人には何も言わないよ。言っても無駄だと判断したら、何も言わない」
「……そう、なんですね」
「うん。それに、言われたことを全部やれる人って、実は少ない。そこから先に行けるかどうかは、“自分で動くかどうか”。――今日、課長、巻き込みの順番の話、したでしょ」
驚いて顔を上げる。
どうしてわかるのか、と思った表情を見たのか、先輩はほんの少しだけ肩をすくめた。
「私もさっき、同じこと言われたから」
「え、先輩が、ですか」
「うん。“お前は自分で動きすぎる。巻き込む順番を、もっと人の都合に合わせろ”って」
苦笑い。自分を少しだけ突き放すような、でも柔らかい笑い。
「私の場合は逆。段取りを自分で決めすぎて、周りの呼吸を置いていくの、悪い癖なんだって。……ほら、似てるでしょ。結局、私たちは“順番”が課題」
「先輩も、課題あるんだ……」
「あるよ。ずっとあるよ。だから、面談は嫌いじゃない」
こともなげに言って、モニターに視線を戻す。
けれど、指はまだ動かない。沈黙が、数秒だけ机の上に降りる。
そして――ほんの耳慣れない小ささで。
「……頑張ったね」
消えてしまいそうな声だった。
聞き間違いかもしれない。けれど、胸の奥が、きゅっと熱くなった。
「ありがとうございます」
相変わらずそれしか言えない自分が、少し情けない。けれど、それ以外の言葉は要らなかった。
「ねえ、明日の朝一、〇〇商事の技術さんとの十五分、押さえるんでしょ」
「はい。さっき予定を入れさせてもらって、資料は今から……」
「じゃあ、その打ち合わせの前に十五分、資料を見せてもらえる?課長からの指摘を踏まえた資料を作ると思うから、それもそのときに教えてね。私から足りない視点があれば足す」
「え、いいんですか」
「いいよ。……それ、あなたの“自分発”の最初の一歩だと思うから」
そう言って、ほんのわずかに口角を上げた。
“教える”ではなく、“一緒に見る”。その距離が、今日、初めてはっきりと近づいた。
***
仕事を終えた頃には、窓の外の街路は冷たい色に沈んでいた。
コートの襟を立て、駅前のスーパーに寄る。自動ドアの向こうは、外より少しだけ暖かい。夕方のBGMが懐かしい歌のカバーで、弦の音が少しだけ浮いて聞こえる。
総菜コーナーでは揚げ物の匂いが濃く、酒売り場は缶の金属光沢がまぶしい。
かごに、缶チューハイと、ちょっといいビール。肉のコーナーで、いつも遠巻きに見てる厚切りの牛ステーキを一枚手に取った。
ついでに、ポテトサラダ。――“自分で自分を褒めるセット”、と心の中で名前をつける。
「……自分で自分を褒めてやろう、みたいな」
冷蔵ショーケースの前で小声で言って、自分で苦笑する。
レジの店員がいつもの人で、ポイントカードのやり取りが妙にスムーズだった。そういう小さな偶然が、今日は味方に思える。
◇
家に戻ると、台所はひんやりしていた。
フライパンに油を落とす。じゅうっと音が弾け、煙が一筋、天板のライトに白く立ち上がる。
肉を置く。高い音。表面がみるみるうちに色づいて、縁から肉汁が透明に溢れては、音に混ざって消えていく。
スマホを片手に、ステーキの焼き方を調べながら作る。自分的には上出来なものが出来た。
テーブルには、湯気の立つ皿と、缶を一本。
プシュッと開ける音が、狭い部屋の壁で小さく跳ね返って、二回分の小さな乾杯みたいに聞こえた。
「お疲れ、自分」
一口。炭酸が喉を通る冷たさが、今日一日の熱をやんわり撫でる。
ナイフを入れると、肉汁がじわっと広がる。噛むたびに、静かな達成感が口いっぱいに滲む。
「でも、誰かと一緒だったら、もっと嬉しいのにな……」
ぽつりと零れた言葉が、静かな部屋に溶けた。
浮かんだのは、やっぱり久住先輩の顔だ。
無言で頷く癖。電話の後、口元だけ柔らかくなる一瞬。
そして――「頑張ったね」の、あの音の小ささ。
暖炉の火みたいに、胸の奥でじんわり灯っている。
(もし、あの人と、こうやって隣で食事をしたら)
(冗談を言ったら、笑ってくれるだろうか。それとも、少しだけ呆れて、“はいはい”って流されるのかな)
(趣味とか教えてくれるだろうか。一緒にやりたいって言ったら、どういう反応をするのだろう)
(“頑張った”って言われたら、次は何を頑張ればいいって、素直に聞けるだろうか)
想像して、少しだけ笑う。――甘い。自分でも分かってる。
手を伸ばせば届く距離じゃない。それでも、今日だけは、その距離が一歩だけ縮まった気がした。
缶を置き、指先を見つめる。
この半年、無難から半歩出るだけで、何度も怖かった。
“言われたことをちゃんとやる”のは安心だったし、逃げ道でもあった。
でも――それじゃ、きっとたどり着けない場所がある。
最近、少しずつ周りの評価が変わってきた。
隣の課の稲毛に資料の修正ポイントを聞かれ、松戸さんに後輩向けの説明を頼まれ、市川に「最近いいっすね」と茶化される。
どれも、以前の僕にはなかった出来事だ。
フォークの先で肉を割きながら、明日の朝の段取りを頭の中で並べる。
八時四十分、会議室を押さえて、久住先輩に資料を見せる。
九時、先方の課長含めて十五分、仕様含めた最終確認。
箇条書きで――今日の三点。「誰と・いつ・どの場で」「承認フローの可視化」「巻き込みの順番」。
指が自然と動く。スマホのメモに、そのまま打ち込む。
“自分発”。言葉にすると重いけれど、やることは小さい。小さいけれど、方向は変わる。
チューハイをもう一口。
目を閉じて、深く息を吐く。肺が冷える。頭が静かになる。
――まだ足りない。けれど、この流れを、途切れさせたくない。
見てくれる人がいる。気づいてくれる人がいる。
なら、次は、僕が“誰かを巻き込む番”だ。
明日の朝は、少しだけ早く行こう。余白を、自分で作る。
カレンダーに小さなブロックを置くみたいに、少しずつ“場所”を確保していく。
そして、いつか。
仕事の机の上でも、食卓の向こう側でも、胸を張って隣に立てるように。
空になりかけた缶を、そっと机に置いた。
弾んでいた心拍が、ようやく穏やかなリズムに落ち着いていく。
――いける。
小さく頷いて、明日の自分に合図を送った。