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正しさの裏側で

会社の最寄駅の改札を抜けたとき、少し先に見覚えのある背中が見えた。


 ネイビーのコート。歩き慣れた道を、少しだけ猫背で歩いていくその姿。

 通勤ラッシュの雑踏にまぎれていても、すぐに分かる。何度も見た後ろ姿。


 千葉くんだ。


 駅の構内から続く横断歩道を渡る。私は自然と、歩く足をゆっくりにしていた。

 声をかけようか、一瞬だけ迷う。でも、そのまま立ち止まる。

 結局、私は少し距離を取って、彼の後ろを追いかけるように歩き始めた。


(前だったら、絶対声なんかかけようと思わなかったのに)


 少しだけ変わってきたのかもしれない。彼に対する印象が。


 でも、それがどういう意味なのか、私はまだうまく言葉にできないでいる。


 


 ***


 


 小学生の頃。私は、誰よりも真面目な子どもだった。


 授業中はいつも手を挙げ、音読は声の大きさを競うように張り切っていた。

 宿題はもちろん忘れたことがなく、連絡帳にも丁寧な字で予定を書き込んでいた。


 テストで良い点を取れば、母も父も「さすが桜子だね」と目を細めてくれた。

 その褒め言葉が、当時の私には何より嬉しかった。


 もっと褒めてもらいたい。もっと立派だと言われたい。

 そんな気持ちが、知らず知らずのうちに私を“ちゃんとした子”へと作り上げていった。


 ミニバスのクラブに入ったのも、担任の先生に「桜子なら向いてると思うよ」と言われたのがきっかけだった。

 土日も練習があったけれど、それでも苦じゃなかった。

 誰よりも早く体育館に来て、シュート練習を始めるのが当たり前になっていた。


 そんな私にとって、“手を抜く”子の存在は理解できなかった。


 彼女――ミナちゃんは運動が得意なタイプではなかったけれど、明るくて、友達も多かった。

 最初は私とも仲が良くて、一緒にお弁当を食べたり、帰り道を歩いたりしていた。


 でも、夏の大会が近づく頃から、彼女の様子は少しずつ変わっていった。


 練習に遅刻したり、来なかったり。

 来てもストレッチの途中で水を飲みに行ったり、ボールを触るのもおっくうそうだった。


「ミナちゃん、なんでちゃんとやらないの?」


 我慢できずに、私は練習後に声をかけた。

 最初はただの疑問だった。どうしてなのか、本当に知りたかった。


「……だって、疲れるもん。休みの日までずっとバスケとか、しんどいし」


「でも、みんな頑張ってるよ? 私だって家で練習してるし」


「桜子ちゃんはそういうの好きだからでしょ。あたしは、そんなにやりたくないときもあるんだよ」


「やりたくないときがあるって、なんなの? チームなんだから、ちゃんとやらなきゃダメでしょ」


「ちゃんとやってるよ! 今日はちょっと疲れてただけ!」


「“ちょっと”でもサボったら意味ないよ。試合だって近いんだし」


「サボってないし! そんなこと言うなら、桜子ちゃんだってミスしてたじゃん!」


「ミスはちゃんと直してる! でも、やる気ないのは直せないでしょ! ……それじゃ、みんなの練習までダメになっちゃうじゃん!」


「……もういい。そんなに言うなら、あたし来ない方がいいんでしょ?」


「……うん。やる気ないなら、いない方がいいと思う」


 言った瞬間、ミナちゃんの目が潤んで、視線を逸らした。

 私は唇を噛みしめたまま、何も言わなかった。


 それでも、私は間違っていないと信じていた。

 私が言ったことは、チームのためにも必要なことだった。

 だから、その判断に迷いはなかった。


 


 ***


 


 中学受験で、私は地元を離れた。

 ミナちゃんとも、それきりだった。


 でも高校生のとき、偶然再会した小学校の同級生から、こんな話を聞いた。


「あの子? なんかぐれてたよ。中学で、ヤンキーみたいになってたらしい」


 胸がざわついた。

 笑って受け流そうとしたけれど、心の奥がひどく落ち着かない。


 直接確かめたわけじゃない。

 でも、あのときの彼女の表情を思い出すと――そうかもしれない、と思ってしまう。


(……私のせい?)


 その考えが、頭をよぎった瞬間、息苦しくなった。

 あれはチームのためだった。みんなのためだった。

 私が間違っていたはずがない。そうでなければ、あのとき私を褒めてくれた先生や両親まで、間違っていたことになる。


 ぐらつく心を押さえ込むように、私は必死で自分に言い聞かせた。


(私は正しかった。だから、これからも間違えないようにしなきゃ)


 そう思えば思うほど、正しさは私にとって“守るべきもの”になっていった。


 


 ***


 


 大学時代、私は彼氏ができた。

 サークルの先輩で、落ち着いた雰囲気の人。

 たまたま飲み会で「真面目そうだね」と言われ、それが嬉しかった。


 勉強は、大学に入ってからも得意だった。

 テストやレポートには“正解”や評価基準があって、それに向けて努力すれば必ず結果が出た。

 やり方さえ分かれば、迷うこともない。

 そうやって積み上げた経験は、私の中でひとつの自信になっていた。


 でも――恋愛は違った。

 授業のように教科書もないし、練習問題もない。

 「正しいやり方」がわからないままでは、何をすればいいのか不安で仕方なかった。


 だから付き合い始めてからの私は、ネットで“理想の彼女像”を調べるようになった。

 返信のタイミング、デートの頻度、記念日の過ごし方……全部、「正解」とされるものを取り入れた。


 でもそれは、感情を削る作業でもあった。

 甘えることも、泣くことも、わがままを言うこともなかった。

 いつも、ちゃんと笑って、ちゃんと聞いて、ちゃんと気を遣った。


 最初は「居心地がいい」と言ってくれた彼も、少しずつ距離を取るようになった。


「桜子って、いつもちゃんとしてるよね」


「うん、まあ……普通のことじゃない?」


「でも、たまにはちょっとくらい“抜けてる”とこ見たいなって思ったり」


 そう言われても、どう反応すればいいのか分からなかった。

 私にとって“抜ける”ことは“間違える”ことで、そこから関係が崩れるのが怖かった。


 やがて、彼は自由で感情豊かな女性に惹かれていった。

 別れ際に言われた、「桜子って、いつも正しすぎる。本当のこと、言ってないよね」という言葉は、今も心に残っている。


 社会人になっても、その傾向は変わらなかった。

 職場で知り合った人と食事に行っても、相手が喜びそうな話題を探し、感情は控えめに、波風を立てないように振る舞った。

 また同じように、“理想の彼女”を演じた。

 そして、同じように終わった。


「何考えてるかわからない」

「怒らないの、逆に怖い」


 そう言われて、また一つ別れを経験した。


 勉強や仕事は、正しいやり方を守れば成果が出る。

 でも恋愛には、その“正解”がない。

 分かっていても、私は正しさを手放せなかった。

 それだけが、私の中の拠り所だった。


 そんな私の隣で、妹はうまくやっていた。

 甘え上手で、よく笑って、すぐ人と打ち解ける。

恋愛も、喧嘩も、泣くのも、全部が自然だった。


(恋愛って、たぶん妹みたいにするものなんだろうな)


 わかってはいる。

 でも、できなかった。


 怒るのも、泣くのも、甘えるのも、怖かった。

 “良い子”でいれば否定されない。

 “ちゃんとしている自分”でいれば褒められる。

 それが、私にとっての――唯一の免罪符だった。


 


 ***


 


 目の前を歩く千葉くんの背中を、私は少し距離を空けて追いかける。

 スマホを見て、誰かとやりとりでもしていたのか、小さく笑っていた。


(前ほど嫌じゃないな……)


 不器用でも、ちゃんと仕事に向き合っている姿を見てきた。

 完璧じゃないからこそ、目が離せなくなっていた。


 青信号が点滅を始める。

 私は声をかけないまま、その背中を追い続けた。


 それだけで、今の私には――じゅうぶんだった。


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