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12/21

一時間だけの秘密

年が明けると、世界は一度リセットされるみたいだ――と、毎年のように思う。

 けれどリセットされたのはカレンダーで、僕の中身は去年の続きのままだ。


 仕事始めの朝。改札を抜ける人の流れはまだどこかのんびりしていて、街のショーウィンドウには門松と赤い飾り。吐く息は白く、指先がじんじんするほど冷たいのに、街の空気は年始特有の甘さで緩んでいる。


 オフィスの自動ドアが音もなく開く。

 正月土産の袋を下げた人たちが、久しぶり、今年もよろしく、の往復をしていた。


 自席にコートを掛け、電源ボタンを押す。ファンがふっと回り始めた音の向こう、少し顔を上げると――いた。

 久住先輩。背筋を伸ばして、年賀メールの返信を淡々と捌いている。髪はいつも通りにまとめられ、メモは相変わらず丁寧で、ペン先が紙を滑るたび、周囲の空気まで揃っていく気がする。


 忘年会の夜から、何かが変わったのか。

 答えはたぶん「いいえ」だ。僕が勝手に神経を尖らせているだけで、彼女は彼女のまま。

 それでも、ほんの少しだけ――たとえば、年始の挨拶を交わしたときの声色とか、視線の滞在時間とか――その小さなズレに心がざわつく。


「……今年も、よろしくお願いします」


 通路ですれ違う瞬間、僕が頭を下げると、

「こちらこそ。体調崩さないようにね」

 短く、それだけ。けれど耳に残る温度は、冬の朝には珍しいやわらかさで。


 嬉しい、と思った自分に驚く。

 こんな簡単な言葉で浮かれるなんて、我ながら単純すぎる。


 年始は掃除とメールと、止まっていた案件のエンジンをかけ直す雑務で過ぎていく。

 昼過ぎ、課長の流山さんがいつものテンポで声を掛けた。


「千葉、来週のA社、久住と行ってくれ。先方、年末の決裁が流れたから新年に仕切り直しだ」


「わかりました」


 行き先を聞いた瞬間、心臓が一回、余計に脈打つ。

 外出、二人。たったそれだけの事実が、午後の退屈を一気に先回りさせた。


 *


 約束の数日後。朝の冷え込みはさらに強くなり、ビル風がコートの裾を掬っていく。

 待ち合わせた駅前で久住先輩は時間ぴったりに現れ、軽く会釈して並んで歩き出した。会話は仕事の確認から始まる。


「前回の資料は、見積の細部だけブラッシュアップ。特に導入後の運用フロー、あのページはあなたの修正が良かった」


「ありがとうございます。サポート窓口の動線、分かりづらいって言われたのが頭に残ってて」


「うん。今日は“わかる”を優先。背伸びしないで」


 背伸び。胸のあたりに浮かんでは消える単語。たしかに僕は、彼女の横に並ぶとつい少しでも大きく見せたくなる。

 改札を抜け、地上に出ると、冬の光がガラスの壁に跳ね返って眩しい。A社のビルは駅から五分。角を曲がり、横断歩道の信号が青に変わろうとした、そのときだ。


 僕のポケットの中でスマホが震えた。

 表示は営業事務の内線転送。


「……はい、千葉です。――え、はい。わかりました。ありがとうございます」


 通話を切って、僕は隣に視線を向ける。


「先方からで……すみません。アポ、先方都合で“一時間後ろ倒し”だそうです」


「一時間」


 久住先輩は腕時計を一瞥し、周囲に視線を走らせる。ビル街の午前、行き交う人は多いが、待ち合わせるには風が冷たい。


「この先、交差点の角。たしかカフェがあったはず。入りましょう」


 *


 ガラス張りの扉を押すと、鈴が控えめに鳴った。

 店内は木目が多く、照明は少し落ちていて、窓の外の白い光とちょうどいいコントラストを作っている。BGMのジャズが低く回って、暖房の空気が指先まで解かしてくれた。


「窓際、空いてますね」


 2人掛けの席に向かい合って座る。コートを椅子の背に掛け、温かい飲み物を注文した。

 湯気の立つカップが運ばれ、テーブルに小さな円形の光を作る。僕らは最初の一口で息を整え、それから、同時に口を開いて、ばつが悪そうに笑った。


「どうぞ」


「どうぞ」


 譲り合って、僕が先に言う。


「……新年、実家には帰りましたか?」


 聞いた瞬間、自分でも“らしくないな”と思う。けれど、仕事の話以外の言葉をどこから始めればいいのか、わからなかった。


「うん。帰ったよ。三が日だけ」


「いいですね」


「いつものおせち食べて、母の味はやっぱり落ち着く、って言いながら。妹も一緒」


「妹さん、大学生でしたっけ」


「そう。冬休みの最初から、私の家にもよく来てた。しょっちゅう。鍵、勝手に開けて上がってくるの」


 口調が、少し柔らかい。

 家族という話題がこの人の表情をほんの少し緩めるのは、前から薄々気づいていた。


「仲良いんですね」


「うん。喧嘩って、ほとんどしたことない。向こうが“お姉ちゃん大好き”だから、たぶん私が折れる前に空気を読んでくれるんだと思う。……自由で、可愛くて、人に愛されるタイプ。私とは、真逆」


 真逆。

 その言葉が落ちたあと、湯気の向こうで彼女は視線を少しだけ落として、指先でカップの縁をくるりとなぞった。


「でも、羨ましいって思うよ。素直に甘えられるの、強さだと思うから」


 僕は頷く。

 僕には、うまくできないことだ。甘えも、距離の測り方も、ずっと下手だ。だからこそ、誰かに甘くしてしまう以外の方法を、長い間知らなかった。


「ご両親は、厳しかったり……は」


 言い切る前に、彼女は首を横に振った。


「厳しくないよ。むしろ“好きなことやりなさい”って言われて育った。褒めてくれる人たち。私が真面目すぎたのは、私の性格。親のせいじゃない」


 先回りするような否定。

 僕が勝手に抱えていた仮説――久住先輩の“正しさ”は家庭環境の影響――は、あっさりと覆された。


「……そうなんですね。すみません、なんか決めつけたみたいで」


「ううん。勘違いされるの、慣れてる。私の“ちゃんとしなきゃ”って顔、そう見えるみたいだから」


 彼女はそこで、ふっと笑う。目の端が、ほんの少しだけ丸くなる。

 その笑顔を見ると、胸の奥がきゅっとなるのを、僕はどうにもできない。


「千葉くんは?」


「え、家族、ですか」


「うん。実家、帰った?」


「帰りました。……うちは、だいぶ甘いです。母親の第一声がだいたい“痩せた?ちゃんと食べてる?”で、二言目が“彼女は?”です」


「はは」


「で、三言目に“お年玉は今年でおしまいね”って宣言されました」


「えっ、それは……まだもらってたの?」


「いや、その、あの、形だけ……」


「いい家族」


 “いい家族”。

 たった四文字で、肩の力が抜ける。笑いながら、僕は自分の声が思っていたより軽いことに気づいた。


「妹もいるんですけど、僕とはたぶん距離があります。仲が悪いわけじゃないけど、なんというか……必要最低限、というか」


「そういう関係性も、ある」


 否定しない言い方が救いになる。

 たぶんこの人は、人を切り捨てるための言葉を、あまり使わない。切り捨てるなら、自分のほうを切る。


 湯気が少しずつ細くなっていく。

 窓の外で、雲が陽を隠した。店内が一段だけ暗くなって、テーブルの木目がくっきり浮かび上がった。


 胸のどこかに、別の問いが引っかかっている。

 去年の終わり、忘年会の夜。僕は偶然、彼女の“元彼”という単語に触れて、そして勝手にざわついた。

 聞きたい。でも、聞きたくない。

 この距離で、その質問は礼儀を欠くのか、あるいは正直であることになるのか。


「……あの、年末って」


 声が出ていた。


「クリスマス、ですけど。素敵な時間、過ごせました?」


 自分で口にしてから、頬が熱くなる。語彙がおしゃれ雑誌みたいだ。けれど“デートしました?”よりずっとましな気もした。


 久住先輩は、すこしだけ目を細める。思い返す、ではなく、言葉を選ぶ間。


「素敵かどうかは、わからないけど。……何も、なかったよ」


「何も」


「今はいないから。そういう人」


 胸の内側で、コップの水がこぼれないように息を止める。

 嬉しい、という感情と、安堵と、浅ましさへの自己嫌悪が、同じ場所でつかみ合いをする。


「……昔は、いたけどね」


 言葉は淡々としているのに、テーブルに落ちた影だけが少し濃く見えた。


「うまくいかなかったのは、私のせいでもある。たぶん。――“ちゃんとした彼女”をやろうとして、いつのまにか“理想像”を演じてただけで。本当の自分は、置いてけぼり」


「置いてけぼり」


「うん。彼に言われた。“桜子って、本当のこと言わないよね”って」


 その一文は、やけに生々しく耳に貼り付く。

 “本当のこと”。

 僕だって、いつだって言えているわけじゃない。むしろ、言えない側の人間だ。だからこそ、その言葉の重みが想像できる。


「……そのとき、先輩は、なんて」


「何も言えなかった」


 静かに、そう言った。

 彼女は強い。仕事でも姿勢でも、たぶん人としての芯でも。

 だけど、強い人ほど、脆いところを見せる相手を慎重に選ぶ。選べるほどの相手が、どれだけの確率で現れるのかを、知っているから。


「話してくれて、ありがとうございます」


「いいよ。話せるくらいには、距離が近づいたってことだと思うし」


 その“距離”という言葉が、湯気よりも熱く胸の奥に触れた。


「千葉くんは?」


「え?」


「クリスマス」


「あ、僕は……何も、なかったです」


「そう」


「というか、僕はその、えっと、恋人がいたことが――なくて」


 彼女の睫毛が、一瞬だけ止まるのが見えた。


「そうなんだ」


「はい。……でも、誰かと一緒にいたいって気持ちは、あります。ちゃんと、大事にできたらいいなって。自分ができる範囲で、ですけど」


 言ってから、恥ずかしくなった。

 宣言みたいに聞こえる。しかも、できる範囲で、なんて予防線まで張っている。


「それでも、そう思えるのは、簡単じゃない」


 彼女はそう言って、カップを両手で包む。指先の白さが、少しずつ戻っていく。

 窓の外を見やり、時刻を確認する。


「……そろそろ、ちょうど一時間」


「あ、はい」


 会計を済ませ、コートに袖を通す。ドアに向かう途中、入口近くの棚で妹へだろうか、小さな焼き菓子のセットを手に取って眺める彼女の横顔が一瞬だけ柔らいだ。

 その表情を、僕は“見ていた”ことに罪悪感を覚え、視線を逸らす。


 外に出ると、風はさっきより弱くなっていた。

 横断歩道の青が瞬いて、二人で足を踏み出す。そのとき、小さな声が落ちた。


「……千葉くんって、変な人ね」


「えっ、僕、変でした?」


「ううん。……なんでもない」


 なんでもない、の言い方に、なんでもない以上の意味が隠れていることを、僕はうっすらと感じるだけで、正しくはわからない。

 わからないままでいい、と思った。今はまだ。


 ビルのエントランスに着く直前、彼女がふいに立ち止まる。

 僕も足を止めると、彼女は正面を見たまま言った。


「さっきの話。私、家族のことは“平気で話せる”のに、恋愛のことはまだうまく話せない。そういう不公平を、ずっと自分で持て余してる」


「不公平」


「うん。だから、いつか。いつかちゃんと、“本当のこと”を言えるようになったら、そのときは笑わないでね」


 胸の内側で、何かが静かに鳴った。


「笑いません。……笑えるようになったら、一緒に笑ってください」


 彼女は少しだけこちらを見て、横顔のまま、わからないほどの小さな頷きをした。

 ドアが開き、ビルの空気が流れ込む。

 仕事の顔に戻った久住桜子と、背伸びを置いてきたままの僕は、同じ速度で受付に向かった。


 *


 会議は、想定より滑らかに進んだ。

 内容を欲張らず、「わかる」を優先したことが効いたのだと思う。僕が準備した運用フローの図は、先方の課長に「これなら社内説明が楽になる」と評価された。

 帰り道、エレベーターの鏡に映る自分の顔が、少しだけ軽い。


「背伸び、置いてきた?」


 鏡越しに、彼女が言う。

 見透かされたようで、笑ってしまう。


「置いてきました。たぶん、カフェに」


「忘れ物取りに戻らなくていい?」


「……必要になったら、また買います」


「ふふ。いいと思う」


 ビルを出ると、午後の陽が傾き始めていた。

 駅までの道を歩きながら、僕らは仕事の反省を交換し合う。言葉の往復は穏やかで、互いに余計な鋭さを持ち込まない。

 別れ際、改札の前で彼女が言った。


「今日のあなた、良かったよ。――“無難”って、悪口じゃないから」


 無難。

 以前なら、胸に刺さる単語だった。けれど今は、違った。

 地面に足が着いた感覚。無茶をしない自分を、少しだけ肯定してもらえたみたいで。


「ありがとうございます」


「じゃあ、また明日」


 彼女が人波に溶けていく。黒いコートの背中が遠ざかるのを、視線だけで追いかける。

 “また明日”。

 それだけの言葉なのに、どうしてこんなに心があたたかいのだろう。


 改札を抜け、ホームに上がる。風が冷たい。けれど頬が熱い。

 電車が入ってきて、扉が開く。

 いつか“本当のこと”を言える日が来るなら、その時、僕は何を言うのだろう。

 笑わないで、と言われた。なら、その日まで、僕は笑わないで、待っていよう。


 ドアが閉まり、車内のガラスに、少しだけ頼りない表情の自分が映る。

 その顔は――去年より、少しだけ好きになれた。

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