この時期どうしても、意識してしまう
12月23日、金曜日。
仕事納めにはまだ数営業日あるのに、朝からフロアは落ち着かない。電話の受け渡しも、書類を閉じる音も、どこか弾んでいる。夜は毎年恒例の忘年会。駅前の居酒屋、奥のお座敷貸切、開始は定時ぴったり。大人数で部署横断の大行事だ。
僕はといえば、普段と変わらないタスクを淡々とこなしていた。見積の差分を洗い出し、先方の表記ゆれを直し、メールを三通返す。目立たない仕事。でも、やらないと週明けに詰まる仕事だ。
「千葉さん、今日の店、地鶏が名物らしいっすよ」
斜め前の席のディスプレイの隙間から市川が顔を出す。
「へえ、いいね」
「俺、腹を空かせるために昼を軽くしたんで。いやあ、座敷って聞くだけでテンション上がる。千葉さんも、今日は“陽のオーラ”出していきましょう」
「オーラは市川の担当で」
「またそうやって逃げる。来年は“主役”取っていきましょうって言ってるじゃないですか」
冗談半分の声に、周りの何人かが笑った。僕も笑う。けれど、自分の笑い声だけ半拍遅れてる気がする。
視線を左に向ける。左隣の席で、久住先輩が黙々と作業を続けていた。背筋はぴんと伸び、ポストイットを同じ角度で並べる仕草が無駄なく整っている。髪を耳にかける動作ひとつにも、迷いがない。
「千葉くん、この一文、言い回し変えたほうがいいわ。“〜させていただきます”が続きすぎ」
資料を覗き込み、彼女は赤ボールペンで軽く線を引いた。素直にうなずいて、文末を調整する。修正履歴に印をつける手が、今日は少しだけ軽い。
――あの日、彼女からもらった「ありがとう」が、まだ胸のどこかで温かいからだ。
取引先で代打に立ったときの、あの小さな成功。誰の耳にも届いていないとしても、届いた場所がひとつだけある。彼女だ。
「千葉くん」
「はい」
「指摘はこれだけ。今日中に修正してお客様に送付しておいて。……あと、資料の差分、ありがとう」
ボールペンの先で、僕が直した箇所を二度、軽く叩く。視線はモニターに戻っているのに、礼だけは確かに落ちてきた。
「いえ。なんとなく、気になっただけです」
「“なんとなく”は、案外、意思よ」
いつもより柔らかい声だった。心の真ん中に、小さな杭を打たれる感じがする。
“なんとなく”を、“意思”にする。
来年の自分に渡したい宿題を、ひとつ、追加することにした。
*
定時が近づくと、フロアの空気はさらに軽くなった。外回りから戻った先輩が忘年会の差し入れの箱を持ってきて、総務の誰かが「会場は駅前のあの店でーす」と声を張る。コートの袖を直す音、財布の小銭がかすかに鳴る音、プリンターが最後の一枚を吐き出す音。小さな音が積み重なって、出発前のざわめきになる。
エレベーターを待つ列に、自然と人が並んだ。市川が手を振って先に降り、稲毛さんは経理の人たちと談笑している。久住先輩は、少し遅れてエレベーターに乗った。僕とは別の箱。
ビルのエントランスを抜ければ、空気は一段と冷たい。駅前の通りは、イルミネーションで白く明るい。金曜の夜、クリスマス前。街全体が浮かれている。
人波に混ざって歩きながら、どうにも言いようのない置いていかれた感覚が背中に貼り付く。
――でも、今日は嫌じゃない。
嫌じゃないことを、ちゃんと自分で選びたい。
*
暖簾の向こうは、別世界だった。油の甘い匂い、人いきれ、低い笑い声。店員に案内されて奥へ進むと、畳敷きの大広間。コの字に低い長机が連なり、壁には短冊メニュー。天井から吊るされた丸い提灯が、ほんの少しだけ黄色く空気を温めている。
自由席。部署ごとに固まるようで、混ざるようで、自然と席が埋まっていく。営業、総務、経理。顔見知りの輪が幾つも立ち上がり交わる。毎年恒例の空気は、初対面のぎこちなさを半分ほど溶かしてくれるらしい。
「それじゃあ――一年、お疲れさまでした!」
乾杯の音頭は営業部長。グラスが一斉に上がり、氷が澄んだ音を立て、泡が照明を反射して弾けた。
「名物の地鶏、塩とタレ、両方お願いしまーす!」
店員の掛け声。鉄板で脂が弾ける。香りに思わず腹が鳴り、苦笑しそうになる。
席は本当に自由で、僕は通路側の端に腰を落ち着けた。向かい側の少し先に松戸さん、その斜めあたりに市川と稲毛。すぐ横には総務のテーブルがあって、笑い声のトーンが営業と少し違う。柔らかいのに、芯が強い。
「千葉くん、取り皿もう一枚回してくれる?」
総務の女性に声をかけられ、反射的に手が動く。皿を配り、醤油差しを内側に寄せ、空いた小鉢を重ねる。店員の視線と合うタイミングで、レモンの追加を頼む。
「助かる~」「気が利くね」
**“ありがとう”**の波紋がいくつも揺れ、僕のところで静かに消える。
それでも、今はそれでいい。浮かれず、沈める。深呼吸の回数をひとつだけ増やす。
「千葉さーん、こっちもドリンク追加お願いしていいですか!」
向こう側から市川の声。大きく手を振って、からかうような笑顔。
「はいはーい」
店員を呼ぶ手は慣れている。
けれど今日は、“勝手に動く手”はやめた。**“動かす手”**を意識する。
頼まれてから動くだけじゃなく、状況を見て、考えて、前もって動く。
ただの雑用じゃなくて、“自分がやる意味”を、ほんの少しでも混ぜたい。
余った役割を押しつけられた人間じゃなく、自分の意思でその場を動かしている――そう思えるように。
「疲れてない?」
肩口に、低く落ちる声。振り向くと、久住先輩だった。自由席だからこそ、偶然が近づくこともある。さっきまで離れた島にいたのに、気づけば僕の斜め後ろ――通路を挟んだ隣の席に移ってきていた。
「え、いや……大丈夫です」
「無理してるように見えたから」
「動いてたほうが落ち着くんです。……なんとなく」
「“なんとなく”は、案外、意思よ」
繰り返す一言。胸に杭の二本目が打たれる。
先輩はそれ以上言わず、串を一本、端に寄せた僕の小皿へ押し出した。
「食べて」
「ありがとうございます」
近くに来て声をかけてくれたことも、気を遣って焼き鳥をくれたことも、こんな場で普通に話せることも――全部嬉しい。
だからこそ、その気持ちを一気に浮かせず、ゆっくり胸の奥に沈めた。
こちらから何か話そうと口を開きかけたとき、横から盛り上がった声が飛び込んでくる。
「松戸さーん、新婚の余裕ってどこから来るんですか」
市川が声を張り、松戸さんが「余裕なんて!」と手を振る。
「再来月、オレの誕生日でさ。妻から“チョコと一緒に温泉でも行く?”って来て……いや、どっちも……?」
「両方でしょ」「爆発しろ」「いやいや」
輪の中心に弾ける笑い。僕も笑う。輪には入らない。入らないけれど、今はそれをただ観察できる。
観察して、欲しい未来に少しずつ寄っていく方法を考える。
ふと視線を向けると、先輩が僕の手元を見ていた。取り皿の置き方、醤油差しの位置、紙ナプキンの向き。誰も気づかない微差。
彼女は、気づく人だ。
「今のあなた、なんとなく……いい意味で、ちょっと変わった気がする」
「え、そうですか?」
「うん。はっきり言えないけど……前よりも全然、私はそっちの方が良いと思う」
先輩の言葉が、胸の底で灯りをひとつ増やす。
*
二時間きっかりで一次会はお開きになった。
宴会の波が引くように、広間の端から片付けの気配が広がっていく。
有志の二次会へ向かう人たちは、暖簾の向こうへ次々と吸い込まれていった。
廊下に出ると、ひやりとした空気が頭を少しだけ冷やす。靴を履き、マフラーを巻く。外に出れば、風の匂いが一段と冬を濃くしていた。
駅へ向かう通りは、イルミネーションで明るい。カップルが肩を寄せ、小さな紙袋を揺らしている。SNSに載せるのだろう、スマホのライトに照らされた笑顔がいくつも生まれては流れていく。
二次会に向かわず駅のほうへ歩き出す人の中に、久住先輩の姿を見つけた。
一人で帰るつもりなのだろうか――そう思った瞬間、足が勝手に前に出る。
意を決して声をかけた。
「……寒いですね」
振り向いた先輩が、少し驚いたように目を瞬かせる。
並んで歩き出すと、歩幅は自然に揃った。
「ええ。でも、こういう空気は嫌いじゃない」
「僕は、少し苦手です。……自分にないものが、よく見える気がして」
「分かる。クリスマスは、とくにね」
信号が赤になり、足を止める。風がマフラーの端を持ち上げ、彼女の髪が一筋、頬に触れて、すぐ離れた。ほんの一瞬なのに、胸の内側が少しだけ熱くなる。
「先輩は、クリスマス、誰かと過ごしたこと……ありますか」
言ってから、しまったと思う。無粋かもしれない。けれど、今年は一歩だけ踏み込むと決めた。
「あるわ。何度か。みんな、ちゃんと好きになった人だったし、それなりに続いてた。……でも、うまくはいかなかった」
「……そうですか」
そりゃそうだ、と頭は言う。これだけの人だ、恋人のひとりやふたり、いて当然。
分かっていても、胸の奥で小さな棘が立つ。
(当たり前だけど、ちょっと嫌だな)
過去に嫉妬している。僕に関係のない時間に。滑稽だ。それでも、消えない。
「クリスマスって、“幸せを証明する日”みたいになることがあるの。写真、プレゼント、ディナー、SNS……形が揃っていないと、寂しいって思わせる空気。だんだん、苦手になった」
「形じゃないのに、ですよね」
「そう。形じゃない。……ほんとは」
駅が近づくにつれ、人の密度が上がる。階段前で流れが詰まり、列が蛇のようにうねる。
「千葉くんは?」
「僕は、その……。こ、今年は特に予定はないです。部屋を片づけて、ちゃんとご飯作って、来年に備えます」
「……いいと思う。そういう小さな積み重ね、好きよ」
息が少しだけ軽くなる。
言葉はシンプルなのに、背中を押す力がある。
「来年は、“らしくないこと”をやってみたいです。自分から動くとか。“なんとなく”じゃなくて、“意思”で」
言ってから、喉がむず痒くなる。先輩はすぐに頷かず、まっすぐ僕を見る。
「そっか。」
短い言葉。けれど、肯定してくれたように感じた。
「らしくない、は“新しいあなた”だから。……無理に変わる必要はないけど、あなたの“優しさ”の形は、少し変わってもいいとも思う。」
“優しさ”。僕が拠りどころにして、でも何度も誤用してきた言葉。意味のない甘さを、優しさと呼んで逃げた時間。視線が少しだけ揺れる。
階段を上がり切る直前、先輩が背中越しに言った。
「今年、あなたは変わったよ」
階段を上りきり、こちらを振り返る先輩と目線が合う。
「私からは、そう見える。……それだけは、伝えておく」
喉の奥で、何かがほどける。ありがとうと言いかけて、飲み込む。言葉にしてしまうのが惜しいと思えるほどの、確かな感覚。
「来年は、もっと変わります」
「期待してる」
*
ホームに出ると、ちょうど反対方向の電車が入ってくるところだった。風が走り、ホームに並ぶ人の髪とコートの裾をいっせいに撫でる。到着メロディが鳴り、アナウンスがかぶり、誰かの笑い声がまた遠くで弾けた。
「私は、こっち」
「僕は、あっちです」
視線の高さが合う距離で足が止まる。電車の窓に、街の光が帯になって映る。
「良いクリスマスを」
彼女が言う。僕は、言葉を選んで短く返す。
「先輩にも。……今年は、少し軽くなりますように」
一瞬、彼女がきょとんとして、すぐ目尻がやわらかくなる。
「ありがとう」
扉が開き、彼女は振り返らずに乗り込んだ。ガラス越しの姿が揺れ、ライトが流れ、列車は音の帯を残して遠ざかっていく。
残った風が、急に冷たくなる。ポケットに手を入れて、息をひとつ深く吐く。白い煙の向こうに、さっきの会話がもう一度流れる。クリスマス。形じゃない。元彼。当たり前だけど、ちょっと嫌だった――その小さな嫉妬。
たぶんそれは、僕が本気で**“誰かの特別になりたい”**と思いはじめた証拠だ。
次に来た電車に乗り込む。座席は空いていなくて、ドア脇の柱に背を預ける。窓の外でイルミネーションが流れて、世界は誰かの幸せで眩しい。
でも、今夜の僕は、それを正面から見ていられる。
視線を逸らさずに、心の中でひとつだけ、はっきりと決める。
来年の僕は、“なんとなく”じゃなく、“意思”で動く。
その最初の一歩は、きっと今日の帰り道だ。端から半歩、内側へ。気づく人が少なくても、彼女が見てくれていれば、それでいい。
アナウンスが次の駅名を読み上げる。僕は背を離し、立ち位置を少しだけずらす。人の流れを作らない安全地帯から、乗り降りの導線にほんの少し踏み込む。癖じゃなく、選択として。
電車が発車し、窓の外の光が帯になって伸びた。
胸の中にも、細い光が一本、まっすぐに走っている。
クリスマス直前の金曜日。誰の記憶にも残らない、小さな帰り道。
それでも、たぶん僕にとっては、分岐点だ。