それでも、やってよかったと思えた
年末が近づくと、空気がピリつく。
寒さじゃない。多分、焦りだ。街も人も会社も、全部が“終わらせる”ことを急いでいる。
営業フロアの端っこ、給湯室のすぐ隣にある小さな休憩スペース。
昼休み、市川と並んで腰掛けた簡易ソファの前には、カフェチェーンの紙カップがふたつ。
「で? その後、どうなってます?マッチングアプリの姫たちとの交流は」
あからさまにニヤけた顔を向けてくる市川に、僕はげんなりした表情で首を振った。
「無理だった……。メッセージ来ても、なんか続かないし、そもそもデートまでいかない」
「まあまあ、始めたばっかならそんなもんっすよ」
そう言ってコーヒーを啜る市川の顔を見ながら、ふと一ヶ月前のやり取りを思い出す。
──きっかけは、何気ない雑談のなかで、僕が「今まで彼女がいたことない」ことをポロッと漏らしてしまったことだった。
「え、マジっすか? 先輩、童貞じゃないすかそれ」
あまりにもストレートすぎる言葉に、思わずむせた。
「そういう言い方すんなって……。いや、まあ、そうだけど」
「でも、出会いがないだけでしょ? だったらアプリ、マジでおすすめっすよ。今どき普通っすから。なんなら、俺が色々教えますって」
市川は自信満々だった。だから、思わず聞いてしまった。
「……市川って、彼女いるの?」
「ん? ああ、いますよ。大学のときから。今ちょうど2年くらいっすかね」
さりげなく言うその口調が、どこか誇らしげで、羨ましかった。
「へぇ。どんな人?」
「ミスコンに出た子っす。めっちゃ可愛いって評判で。俺、大学の文化祭実行委員の手伝いしてたときに一目惚れして、そっから猛アタック。で、付き合えた感じっすね」
「……フツメンなのにすごいな」
「フツメン舐めないでくださいよ、オレの手にかかれば、高嶺の花だって簡単に摘みに行けるんすから!」
そんなふうに言える市川が、少しだけ眩しかった。
誰かにちゃんと気持ちを伝えて、届いて、繋がって。
――そんな関係、僕には縁がないと思っていた。
「彼女いるって、やっぱいいもん?」
「めっちゃいいっすよ。まあ、色々あるけど。報われる感じがしますね、ちゃんと頑張ったら。支えてくれるし、支えたくもなるし」
報われる。
その言葉が、やけに胸に残った。
「……そっか。じゃあ、俺もちょっとやってみようかな。アプリ」
「おっ、やる気出てきたっすね! いいっすよ、俺が教えてあげますって。プロフィールの作り方からマッチング率上がるメッセのコツまで、ぜーんぶ!」
「……お手柔らかに頼むよ」
その場では、軽い気持ちで返したつもりだった。
でも――
僕が本当にマッチングアプリを始めた理由は、たぶん少し違う。
誰かにモテたいとか、恋人が欲しいとか、もちろんそれもあったけど。
――本当は、“好きな人に、ちゃんと届く言葉”を、持てるようになりたかった。
僕が話す言葉は、いつもどこか薄っぺらで、誰の心にも届かない気がしていた。
だから、練習してみたかった。誰かと話して、距離の詰め方や伝え方の“スキル”を少しずつでも身につけたくて。
……そうやって学んだ言葉で、
いつか、あの人に――届けばいいな、なんて。
「まだまだこれからっすよ。マッチングアプリでのやり取りも、恋人作るのも、結局はコミュニケーションスキルですから。続けてみてください、絶対変わりますって」
「……うん。マッチングアプリで恋人、か。スキル磨いてみるよ」
ちょうどそのとき、休憩スペースの脇を人影が通った。
何気なく顔を向けると、久住先輩だった。
紙コップを片手に、給湯室へ向かう途中だったのか、ふとこちらに目を向けた彼女と、数秒だけ視線がぶつかる。
そして、すぐに目を逸らされた。
まるで、聞いていたことを気づかれたくないかのように。
「……今の、聞こえてたかな」
「全部はないっすよ。……でも、“アプリ”とか“恋人”とか、ピンポイントで拾われてたら、終わりっすね」
「……それ、けっこう致命的じゃない?」
「うん、まあ頑張って」
軽く背中を叩かれたけど、どう聞いても励ましには思えなかった。
***
午後の社内ミーティング。
久住先輩が資料をめくる手を、ふと止めた。
「……これ、先月のデータになってるよね?」
「あっ……すみません。新しいの、差し替えるの忘れてて……」
「昨日、確認したよね? “送った”って言ってたけど……」
「はい……朝、修正したんですけど、送信フォルダに残ってて……」
小さく息を呑んだのが分かった。
周囲の空気がピリつくのを感じる。
「それだけじゃなくて、ここの会議日程も、A社とB社でかぶってるよ。ちゃんと確認した?」
「えっ……あ、すみません、それ……今朝調整したはずが……」
「メールのタイムスタンプ、9時台のままだよ? “調整したつもり”で終わってない?」
指摘は淡々としていた。怒鳴ったり、責めたりしない。
むしろ、冷静すぎるぐらいだった。
それが怖かった。
「最近、気が散ってるんじゃない?」
その一言に、心臓が跳ねた。
口の中がカラカラに乾いていくのがわかる。
「ちゃんと仕事に集中したほうがいいよ。マッチングアプリとか、そういうのよりも」
淡々とした口調。だけど、僕の内側にある“何か”を、静かにえぐってくる。
――やっぱり、聞かれてたんだな。
給湯室の前を通りかかったときの、あの一瞬の視線。
さっきまでのやり取りを、きっと断片的にでも聞かれていた。
誰かに見てほしくて、誰かに近づきたくて。
恋とか、そういうのとはちょっと違う。
ただ、久住先輩のことが気になっていて、もっと知りたくて、ちゃんと話せるようになりたくて――
その気持ちの延長で始めた、マッチングアプリだった。
けど、よりによって本人に知られるなんて。
どこまでも、不器用で、間が悪い。
言い訳をしようとして、喉が詰まった。
先輩の目が、まっすぐすぎて、嘘がつけなかった。
周囲のメンバーたちが、小さく視線を交わしている。
市川が気まずそうにフォローしようとしたが、結局何も言えず、沈黙が流れた。
静かにミーティングは再開された。
僕の鼓動だけが、ずっと耳の奥でうるさかった。
***
――とはいえ、自分でも分かっていた。
最近の僕は、少し浮ついていたと思う。
人に必要とされたい、ちゃんとしてるって思われたい。
でも本当は、ただ……久住先輩に、もう少しだけ近づきたかっただけだ。
気持ちはまだ曖昧で、“恋”だなんて言えるほどじゃない。
でも、知ってほしかった。
僕がただの“何もないやつ”じゃなくて、ちゃんと考えて、努力してるって――。
なのに、それが“アプリで恋人作ろうとしてる”みたいに伝わったなら、
なんだか違う、って思ってしまう。
別に、誰でもよかったわけじゃないのに。
だから、久住先輩が冷たく言ったのは正論だと分かっていても、
胸の奥が、少しだけチクリと痛んだ。
(……そんなふうに言わなくても、よかったのに)
わがままだと分かっている。
けれどほんの少しだけ――ほんの少しだけでいいから、
あの人になら、僕の気持ちの一部くらい、分かってほしいと、思ってしまった。
でも、久住先輩はいつだって正しい人だ。
迷わず前を向ける人だ。
僕みたいに、あっちこっちで立ち止まってしまう人間とは、違う。
……だからきっと、僕なんかが踏み込んじゃいけない場所に、立っている。
久住もまた、会議室を出たあと、静かに息を吐いた。
つい言いすぎたかもしれない。けれど、言わなければ伝わらないこともある。
千葉は最近、確かに変わろうとしている。
仕事の進め方も、言葉の選び方も。前よりずっと丁寧になった。
でもそれと同時に、どこか余裕がないようにも見えていた。
朝の挨拶の声。資料を確認するスピード。細かい報告の仕方。
その一つひとつに、“気を張ってる”感じが滲んでいた。
何か焦ってる。何かを誤魔化してる。
そんなふうに見えた。
(やっぱり、さっきの……聞かれてたかな)
休憩スペースの脇を通ったとき、耳に入った会話。
“マッチングアプリ”“恋人”“スキル”――そんな言葉の断片が、どうしても気になってしまった。
それが千葉のことだと気づいたのは、会議でのミスが重なったあとだった。
少し様子がおかしかったし、本人もどこか動揺していた。
(あの人、誰かに……ちゃんと見てほしかったのかな)
もしそうだとしたら。
それが“私”じゃなかったとしても――
彼のそんな気持ちを、正面から否定するような言い方をしてしまった自分に、胸の奥がじわりと痛んだ。
(でも、甘やかすだけじゃ、きっと本人のためにならない)
そう自分に言い聞かせる。
彼がどういう気持ちでアプリを始めたのかは分からない。
でも、ちゃんと向き合って、変わろうとしていることは知っている。
だからこそ。
(……だったら、ちゃんと伝えるべきだったかな)
叱るだけじゃなくて、ちゃんと“見てるよ”って。
その言葉を、ほんの一言でもかけられたら――少しは、違ったのかもしれない。
***
その日の夜。
会社を出たあと、まっすぐ帰宅する気にはなれなかった。
街はすっかり年末ムードで、駅前のイルミネーションがまぶしい。
でも、光のきらめきとは裏腹に、胸の内はどこまでも重かった。
コンビニで適当に買った弁当と缶ビール。
冷えた手で家の鍵を開け、無言のままドアを閉める。
部屋の中は静かだった。
テレビもつけず、上着も脱がず、ただソファに体を沈める。
天井を見上げたまま、何度も今日のことを思い返す。
久住先輩の表情。言葉。視線。
そして、自分があの場で言えなかった、たった一言の言い訳。
(……なんで、あんなに空回るんだろう)
誰かに褒めてほしかったわけじゃない。
アプリを頑張ったからじゃない。
それよりも――仕事だって、久住先輩の力になれるようにって、
ちゃんと考えて、少しずつでも前に進んできたつもりだった。
だからこそ、あんなふうに見られたのが、ただ悔しかった。
(……違うんだ、って……うまく言えなかった)
自分でも情けないと思う。
それでも、“ちゃんと見てほしかった”という気持ちだけは、どうしても嘘にできなかった。
誰かに褒めてほしかったわけじゃない。
ただ、今までの自分の努力が無意味じゃないって、知りたかった。
温めずに食べ始めた弁当は、途中で箸が止まった。
味も覚えていない。
代わりに、スマホの画面ばかりを何度も開いては閉じて、通知のないホーム画面をぼんやり眺めていた。
そのときだった。
ポン、と音が鳴って、ディスプレイが光った。
久住先輩からのLINEだった。
「おつかれさま。今週も、よくがんばってたと思うよ」
一瞬、時間が止まった。
“も”という、たった一文字。
だけどその言葉に、“今だけじゃないよ”“ずっと見てたよ”――そんな意味が滲んでいる気がした。
無意識かもしれない。
でも、だからこそ、余計に刺さる。
ずっと、自分の頑張りなんて誰にも届かないって思ってた。
結果が出なきゃ、意味がないって。
でも――たった一文が、それを覆した。
ちゃんと、見てくれていた人がいた。
遠回りばかりだったけど、それでも進んできたことは、無駄じゃなかったんだ。
(……やってよかった)
胸の奥がじんわりと熱くなる。
“がんばったね”なんて、誰にも言われたことがなかった。
けれど今は、その言葉に、過去の自分まで救われたような気がしていた。
(……もう少し、頑張ってみよう)
そう思えたことが、何よりも嬉しかった。
たぶんそれは、はじめて“努力してよかった”って思えた瞬間だった。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
よければ感想・評価をいただけると励みになります!