誰の特別にもなれない僕に
──時は9月、まだ残暑が抜けきらない金曜の夜。
その日、千葉隼人は「乗りたくない列車」に乗る覚悟を決めていた。そう、会社で毎月有志で行われる“懇親会”である。
有志とは建前で、実質的には営業部の定例行事。若手が断る選択肢は、空気的に存在しない。
千葉はいつものように「まぁ、行かない理由もないし」と自分に言い聞かせて、乾いた笑顔をつくる。
会場は駅前の“いつもの居酒屋”。座敷の個室にはすでに社員たちの熱気とアルコールがこもり、靴を脱いで上がるスペースに所狭しと並んだ背中、笑い声が天井に跳ね返っていた。
「いやー、やっぱ先輩いなかったら営業部まわらないっすよね」
隣の席から聞こえてきたのは、市川航太の声。新入社員であり、ムードメーカー。お調子者で、人の懐に入るのが異常にうまい。
「市川くん、それ毎回言ってる気がする」
「いやいや、今回はマジっすよ。千葉先輩が処理してくれたあのクライアント、普通じゃ無理っすって」
「……いやぁ、たまたまタイミングがよかっただけで」
千葉は苦笑いを浮かべる。褒められて嬉しくないわけではない。
ただ、自分がそこまで“特別”なことをした記憶もない。
どちらかと言えば、地味に、丁寧に、やるべきことをこなしただけだ。
「そうそう、千葉くんって、見た目地味なのに案外仕事ちゃんとしてるもんね~」
少し年上の女性社員がそう続ける。笑いながら言ったそれは、悪気のない“軽口”に過ぎない。
だが千葉にとって、「地味」という単語は毎度、小骨のように胸に引っかかる。
(地味って……どこから地味になるんだろう)
人並みの身長、黒髪、メガネ。大学時代はサークルにも入っていたし、服だってユニクロだけじゃない。
けれど、特筆すべき“何か”がない──それが千葉という人間だった。
「てか千葉先輩、休日とか何してるんすか? めっちゃインドア派っぽいけど」
市川がビールジョッキ片手に、にやりと笑う。
「え? あー……なんだろ。掃除とか洗濯とか……あと、たまに映画見たり……ですかね?」
「おーい、それじゃプロフィール欄埋まんないっすよ。趣味:日常生活、ってなりますよ!?」
「それ褒めてないよ~」
女性社員が乗っかって、また笑いが起きる。
千葉も苦笑いで応じるけれど、内心では焦っていた。
趣味、特技、こだわり──自分には、胸を張って語れる何かがない。
いや、挑戦はした。写真、筋トレ、キャンプ、資格の勉強、お酒などなど。両手で数えきれないほど。
でも結局、どれも「もっとできる人」「もっと熱中している人」を見ると、自分の興味や熱意がちっぽけに感じてしまい、すぐ諦めてしまう。
「そういえば、先輩って彼女いるんすか?」
市川の唐突な一言に、空気がすっと静かになった気がした。
「いや、まぁ……今はいない、かな」
笑ってごまかすしかない。嘘でもない、でもそれが“何も起きなかった人生”を証明するようで。
誤魔化すように飲んだハイボールの炭酸が、喉ではなく胸を刺した。
「まじっすか!? こんなに優しいのに? 信じられないっすわ~」
「優しすぎるのが逆にダメなのかもよ?」
「あるある~、“いい人止まり”ってやつね~」
また、笑いが起こる。
笑いの中心にはいない。でも、いじられ役としては成功している。
そんな位置取りが、千葉には居心地悪くもあり、でも否定できない“居場所”だった。
──その時だった。
「……くだらない」
その声は、冷たい空気のように、空間の温度を変えた。
一瞬、場が静まる。誰もが一拍遅れて、その声の主を見た。
五年目の先輩、久住桜子。
黒髪をすっきりとまとめた端正な顔立ちに、無表情の仮面。
手元のグラスを揺らしながら、彼女は一言も付け足さなかった。
その発言に、場の空気は微妙に凍りつく──が、間髪入れずに市川が機転を利かせた。
「いやーでも、桜子さんって絶対彼氏いそうですよね~。てか、告白されるタイプっしょ?」
「市川くん、それセクハラ発言スレスレ!」
「えー!? 俺、褒めただけなんですけどぉ~?」
再び笑いが起き、場の空気はやんわりと戻っていった。
だが、千葉の胸には、さっきの言葉だけが残っていた。
(……くだらない、か)
“誰の特別にもなれない自分”を、核心から否定された気がして、笑いの波に乗れなかった。
***
久住桜子──営業部のエースにして、“氷の先輩”と恐れられる社内で有名な存在だ。
誰よりもミスが少なく、誰よりも早く対応し、数字もコンスタントに出す。
他部署にも評判は届いており、「デキる女」「冷静沈着」「隙がない」という言葉がセットで語られる。
ただ、それは同時に「近寄りがたい」「話しかけづらい」という印象にもつながっていた。
千葉から見ても、久住は正反対の存在だった。
自分に厳しく、他人にも妥協を許さない。
“できないことを、できないままにしておかない”人。
だからこそ、周囲から尊敬されるし、怖れられてもいる。
(自分は、ああはなれないな……)
自分は甘い。すぐに逃げ道を探すし、気まずくなるくらいなら黙ってしまう。
そんな自分に対して、彼女はきっと、苛立ちを感じていたに違いない。
***
懇親会のお開き後、駅前で社員たちは二手に分かれた。
「千葉、お前二次会どうする?」
営業部の課長・流山が声をかけてくる。赤ら顔で楽しげだ。彼は昔ながらの“飲み会原理主義者”で、懇親会の中心人物でもある。
「あ、今日は……ちょっと」
「おー、そっかそっか。じゃあ若いのよろしくな~!」
課長は市川たちを連れて、カラオケへと消えていった。
その背中を見送って、千葉はようやくひと息つく。
──と、その直後。
「……千葉さん」
心臓が跳ねた。背後から、さっきの冷たい声が届いたからだ。
振り向くと、久住が立っていた。無表情のままスマホを見つめながら、声だけで言った。
「少し、駅まで一緒に歩きませんか?」
「えっ……あ、はい」
戸惑いながらも頷く。断る理由も、勇気もなかった。
***
駅までの道を、千葉と久住は無言で歩いていた。
懇親会の浮かれた雰囲気とは打って変わって、夜の風は少し涼しかった。
街灯に照らされた歩道を、ただ足音だけが静かに響く。
さっきの「くだらない」の真意が気になって仕方なかった。
けれど自分から聞くのは、なんだか怖かった。
「今日の話……ああいうの、好きなんですね」
ふいに、久住が口を開いた。
「え?」
「“優しいのに彼女いない”とか、“いい人止まり”とか。そういう“無害ポジション”に甘えてる人、私は苦手です」
その言葉に、千葉は思わず息をのんだ。
「あなた、誰にも嫌われないように、絶妙なラインで接してますよね。でもそれって、何も差し出してないのと同じです」
「……」
「責任を取らずに、笑ってやりすごして、場を壊さないように振る舞って。それって何の意味があるんですか?」
千葉は、言葉を失った。
その通りだった。自分はいつだって、“波風を立てない優しさ”しか持っていなかった。
「本当の優しさって、“嫌われる覚悟”があって初めて意味があると思いませんか?」
冷たい声だった。けれど、それはただの否定ではなかった。
まるで──“見抜かれた”ような感覚。
(そうだよ……)
千葉は胸の奥で、何かが崩れ落ちる音を聞いた。
自分は、いつからか、人と一線を引くようになった。
傷つける覚悟で踏み込んだこともない。
心から誰かのために怒ったり、守ろうとしたことも──なかった。
(そんな自分が、嫌だった。ずっと嫌だった)
でもどうすればよかった?
どう動けばよかった?
何かを主張して、否定されるのが怖かった。
間違って、バカにされるのが怖かった。
だから、“優しい人”でいようとした。
けれどそれは──ただの“無難”だった。
「来週の提案、私が前に出ます。あなたはサポートに回ってください」
駅の入口が見えてきた頃、久住はスマホを操作しながら、静かにそう告げた。
「あ……はい」
「期待はしていません。でも、“無難”な仕事をするのは得意みたいですから」
その言葉に、怒りは湧かなかった。ただ、自分が見透かされていることへの情けなさが胸を締めつけた。
改札の前で足を止め、久住はちらりと電光掲示板を見上げた。
「──私はこっち。じゃあ、お疲れさまでした」
「……お疲れさまです」
彼女はスーツの裾を揺らして、逆方向のホームへと歩いていった。
千葉は改札を抜ける足を止めたまま、しばらくその背中を見送っていた。
──何をしてきてたんだろうな。
“普通”で“無害”で、“誰の特別にもなれない”ままの自分。
でもなぜだろう。
あの冷たい言葉が、少しだけ──心に、熱を残していた。
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