胸に手を
吉之助が、下鍛冶屋町に運ばれてきたと聞いたとき、おいは胸の内に冷たい風の吹きすさぶごたる思いを覚えもした。
ひと晩、ふた晩と過ぎるうち、あいつは目を覚まさず、まるで生と死の境目に、身ば預けちょるごたる顔しちょった。医者が言うたのは、肩の傷が深うて、それが膿み、毒のように身ぃの奥まで蝕んじょる、ちゅうことじゃった。
おい(大久保一蔵(利通))も、糸も、みんな思うちょった。
あいつの異能があれば、たやすう傷など癒えるはずじゃ、と。
けんども、吉之助の力は、他者にしか与えられん。
ああ、まっこと、あいつらしか。
己は常に後ろへ引き、誰かのためにその力を使うち、そう決めちょったんじゃろ。英雄ちゅうもんは、時に自らを犠牲にしても、信ずる道ば貫くもんじゃ。
――糸は、毎朝のようにやってきた。
陽も昇らんうちから、吉之助の家に現れて、誰よりも早う来て、吉之助の母や妹に代わって、水を替え、額の汗を拭き、薬湯の番をし、昼過ぎには台所を手伝い、夕暮れには、静かに背中を向けて帰っていった。
その小さな背は、よう哀しかった。
おいは、その様子を、何度も障子の向こうから見ちょった。
彼女がそっと部屋に入り、誰も見ていないのを確かめて、吉之助の手ば自らの胸にあてる姿――そのとき、彼女は、息を殺すようにして、ぽつりとこぼした。
「うちが……もっと、強かっ……たら……。私さえ……私さえ、もうちいっと……」
声はかすれ、涙は熱うて、けんど、その顔はまっすぐじゃった。
思いを口にすることも、手を添えることも、女にとっちゃ容易やなか時代じゃった。そいを押してなお、彼女の手は迷わなんだ。
人目を憚ることこそ、当たり前じゃったこの時代にあって、糸の想いは、まっこと深く、そして強かった。
まるで、戦さ場で男を待つ武家の妻ごたる気高さと、乙女の情けなさの、はざまに咲く花のようじゃった。
おいは、障子の影からそれを見ちょって、胸の内がきしむような、苦い思いを噛みしめちょった。
吉之助。おまんは、どれほどの人を巻き込んで生きちょるっがやろか。
そう思うた途端、また声がした。
「吉之助さぁ……早う目ぇ開けてくいやい。おらんと……おらんと、うちは……」
その声は、祈りじゃった。誰にでもなく、どこにも届かんかもしれんと知りながら、それでも叫ばんではおれん、魂の祈り。
この祈りが、届かんわけはなか。
あいつは、きっと、応えっ男じゃ。――たとえ、どんな代償ば払うても。