女にうまれても
夕暮れの光が石畳を撫で、町がそろそろと夜に染まりゆくころ。 その景色の中を、一人の娘が歩いていた。 風に揺れる黒髪、凛とした瞳。名を、糸。 かつて死にかけ、生き延びた女―― その胸に、ひそやかな炎を宿した者だった。
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わたしは、一度死んだ女じゃ。
そん時のことは、よう覚えちょらん。 けんど、ただひとつ―― あの、やさしかぬくもりのある腕に抱かれちょったことだけは、魂に焼きついちょる。
吉之助。 人々がそう呼んじょった、あの背中。
ひとは、一度死に目に合うと、何かが変わるち言う。 わたしは――変わった。
この命は、おまけじゃ。 じゃっどん、おまけゆえに、大事にせんといかん。 燃やさんと、いかん。 わたしは、剣を学ぼう。 学問も、政も、知りとうてたまらん。 知らんまま、誰かに決められる人生なんか、もうごめんじゃ。
けんど、その火は、家の中でまず冷やされた。
「糸、おまえ、また何を企んじょっとや」 父の声は、静かじゃったけど、刃のごたあ鋭かった。
「女が学ぶとか、剣を振るとか……世間様に顔向けできん」 母の箸の動きがぴたりと止まる。
兄は、苦笑を浮かべて言うた。 「どうせ長う続かん。おなごは口先だけじゃっで」
わたしは、何も言い返せんかった。 けど、心の中では、叫びよった。
なして、女じゃいかんと? なして、夢を持つことが、こんなに咎められんと?
わたしは立ち上がった。 髪をきゅっと結び、墨染めの着物を着た。 身を隠すように、けんど誇り高う、草履を踏みしめ、外に出た。 あの家では、もう息も詰まりそうじゃった。
道場の門は、思うたよりも重たかった。 軋む木の音が、わたしの心臓を打つたび、どっくどっくと響いた。
道場の男たちは、初めは無言じゃった。 じゃっどん、その沈黙がだんだん重くなる。 好奇の目が、剣より鋭く突き刺さってくる。
――異物。 そう言われちょる気がした。 誰も口をきかず、誰も視線を寄こさなんだ。 空気のように扱われることが、これほど冷たかものとは思わなんだ。
帰り道の途中じゃった。 夕暮れの石畳を歩いちょったら、突然、二、三人の男に取り囲まれた。
「おい、女。こんなとこで何しよっとや?」 からかうような声が、耳にねちっこく絡みつく。
「剣ば学ぶとか、冗談じゃなかろうな?」 一人が笑いながら近づいてきたかと思うと、いきなり肩をぐいと掴まれた。
思わず息を呑んだ。 その手は、冷たく、乱暴で、容赦がなかった。
「女が剣術だと?情けなか。帰れ帰れ!」
その瞬間じゃった。
力任せに押されて、体がふわりと浮いた。 そして、次の瞬間には、石畳に叩きつけられていた。 地面が頬にひやりと触れ、膝が擦れてじんと痛んだ。 草履が片方、道の端まで飛んでいた。
男たちの笑い声が、夜の帳に溶けていった。 暗い空が、ますます重く見えた。
悔しかった。 怖かった。 体の芯が、小さく震えちょった。
なんでじゃ。 わたしが、なにをしたっち言うと。 夢を見たことが、そんなに罪か――?
目の奥が、じんと熱うなった。 泣くもんか。こんなところで。
けんど、怖か。 知らんうちに、肩がぎゅっと縮こまり、息が浅うなっていた。 このまま蹴られるかもしれん、もっと酷かことになるかもしれん。 心臓が喉まで競り上がって、息が詰まりそうじゃった。
その時じゃった。
ざっ、ざっ、と音がして、ひとつの影がわたしの前に落ちた。
分からん。 顔はよう見えん。 けんど、風がふっと変わった気がした。
背中が、大きかった。 何かを背負う者の、静かで重たい背中じゃった。
その男は、何も言わんかった。 ただ、ゆっくりとこちらに歩いてきて――
わたしの手を、土の中から、やさしく引き上げてくれた。
温かった。 あの時と、同じぬくもりじゃった。
ああ―― このひとは、吉之助さぁじゃ。